2017年3月31日金曜日

おでん屋 長平、夜の主計町(2)

その後、開店時間になったので「おでん屋 長平」に入った。まだお客さんは私たち二人だったが、今日は予約がいっぱい入っているということで、カウンターの隅に座った。



















早速ビールで乾杯した後、「牛すじ」や「車麩」、「大根」、「里芋」などのおでんを頼んで、舌鼓を打った。ちょうどよい加減の味でおいしかった。
この店は、私が所属している団体の人らもよく利用していると聞いているが、実は、ここの女将と私は小学生時代に同じ町内であったこと(大体同じ年代)を知らせて、そのころの近所の子の話や、昔の「長平」の店に入ってテレビで大相撲を見せてもらったことなどを話をした。



















瞬く間に店は人でいっぱいになったが、結構流行っているようである。観光客より常連さんが多いと言っていた。「お万歳」に並んでいるものもおいしそうだったので「ほたるいか」や「わかざぎ」なども頼んで食べた。
雑誌の「金沢倶楽部」で見て、ここに来たことを話すと、つい先日も姉妹雑誌の「金澤」が取材が来て写真をたくさん撮っていったそうで、そのうち掲載されるだろう。



















大変おいしく食べさせてくれ、リーズナブルな値段だったので、また来たいと思う。気分がよくなったところで外の出ると、辺りは当然暗くなっていた。



















「下新町」から「主計町」に降りる「あかり坂」を通った。階段を注意しないといけない。



















主計町の裏通りの細い道は、ほとんど真っ暗で、わずかに店の前の明かりだけしかない。



















主計町茶屋街から浅野川大橋方向を見る。ぼんぼりの明かりが生え、大橋のポールの上にある明かりは、少し形を変えると聞いている。どんな風に変わるのだろうか?



















ここで煌々とした明かりが付いていたのは、有名な「太郎」の店と、その隣にあった手打ちそば店である。



















浅野川大橋から主計町茶屋街、中の橋方向を見る。川面に揺らぐ茶屋街の明かりの風景は、最も金沢らしいビューポイントのひとつである。



















浅野川大橋から「梅の橋」、「天神橋」方向を見る。



















バスに乗るために「武蔵が辻」方向へ歩いている途中に見えたライトアップされた「町民文化会館」。この建物は、明治のころの建てられた旧銀行の建物である。

2017年3月27日月曜日

夕暮れ時 主計町界隈(1)

今回は、前から行こうと思っていた、下新町にある「おでん屋 長平」で飲もうと思い、開店までに少し時間があったので、周辺の橋場町、主計町付近を回り、その様子を紹介する。
橋場町交差点にある「金沢文芸館」で、昭和初期に建てられた銀行を改修して「五木寛之の記念館」となっている。
ついこの間も、ここで「浅野川界隈」の話を「金沢の明治以降の歴史の権威」である本康宏史先生の話を聞いて、大変面白かった。



















浅野川大橋から主計町茶屋街を見る。
ひがし茶屋街と違い、昭和初期までに3階建に増築された建物も多い。ここも伝統的建造物保存地区となっている。



















大橋から「中の橋」方向を見る。



















情緒がある川沿いの主計町の通り。桜の開花も近いので、花見のぼんぼりが付けられていた。青いポールにガス灯が何基か並んでいる。



















川沿いの通りから1本入った道は、非常に細い道で、建物は茶屋街らしく紅殻色に塗られている。
























細い小道の先にある階段は、五木寛之氏が名付けた「あかり坂」で、「登っていくと、夜の空が奇妙に明るく見えた」と作品の中にある。
























細い道の所に「金沢33観音巡り26番札所」の「源法院」がある。
3代藩主利常の信仰厚く、江戸御上洛の時、道中の安全祈願を命ぜられ、梅鉢紋を許されたという。その時、江戸三度、京三度と呼ばれる早飛脚の祈願所でもあった。江戸三度とは、月に三度、江戸までを往復したというからすごい。
明治初年の神仏分離により、久保市神社の寺院関係をここに移したという。






















橋場町から下新町に上がる坂で、明治中期になって繋がった。泉鏡花の作品の「照葉狂言」の中に「我が居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上がりの小路なり。・・・・・一方の先は行き止りとなりたれば、往来少なかりき」とあるから、その後にできた道だ。



















この坂の下を流れている「東内惣構堀」で、向こうに見える橋は大通り沿いの「枯木橋」
























坂の途中に「朗読小屋 浅野川倶楽部」の看板が掛かっている。ここの前にパンフレットが置いてあり、地元ゆかりの作家たちの文学の朗読会の案内が描かれていた。一度どんなものか聞きたいものだ。


























左側に「泉鏡花記念館」があるが、その先は旧博労町にある料亭の「壽屋」まで、まっすぐの細い通りで、古い町屋が並んでいるところだ。


2017年3月23日木曜日

小松城址(2)

小松城址(1)の続きで、その後小松城の三の丸だった「芦城公園」に行った。



















公園に入ってすぐの所に「仙叟宗室」の碑が立っていた。
これによると、3代藩主利常が小松に居城しているときに、千利休の4代仙叟宗室が茶道茶具奉行として使え、この三の丸に屋敷を受けたという。利常がなくなってから金沢へ行き、5代藩主綱紀に仕えたという。茶道は武士のみならず町人にも広まり、小松発展に寄与したということが刻まれている。



















その横には、没後300年を記念して裏千家が建てた「仙叟宗室」の屋敷があったが、戸が閉まっていて残念ながら中を見ることはできなかった。現在でも時々茶会が開かれている。



















ここの公園内には、五重塔の石塔、池、滝や小川の両側の石組み、いくつかの反り橋などがあり、きれいな庭園が整備されている。



















小松の町を作った三代利常の銅像が立っていた。
























池の前の立て看板に「五彩の鯉」とあったが、九谷焼の人間国宝徳田八十吉が寄贈した鯉がいるそうだ。どっしりした丸い雪見灯篭もある。



















下図の奇妙なものは「珪化木」といって、樹齢400年の大木が火山灰に埋まり、炭化し、やがて長い年月の間に岩石中に珪酸成分と置き換わって珪化されたもので、状況からみて、およそ2000万年前のものと思われるという。
金沢大学の先生が調べたところ、日本では珍しい「テリハホク」または「シマボウ」であろうということである。その巨大さは世界でも珍しく学術的にも貴重な資料といわれている。



















立派な樹木の前(何の木かはわからない)に「三の丸跡」の標柱が経っていた。



















図書館の近くに鮮やかなピンク色の梅が咲いていた。余りにきれいだったので、図書館の職員に梅の名前を聞いたが分からなかった。また、ここで藩政期の建物で、唯一の残存建築が「来生寺」にあると聞いていたので、場所を教えてもらった。

































そして、歩いても10分以内くらいの所にある浄土真宗大谷派の「来生寺」に行った。ここの寺門は「小松城の二の丸鰻橋御門」であったという。門の裏には、門番の住まいがあり、敵からの襲撃をを防ぐための太い格子窓があった。現存する小松城の数少ない貴重な遺構であるという。




















ここに、白漆喰壁の四角い建物の小松市内では珍しいという、文政8年に建てられたという経蔵があった。




2017年3月20日月曜日

小松城址(1)

今回は、「小松城」について金沢城調査研究所長の木越隆三さんの講座があるということで、この講座を聞いた後に、「小松城址」を見たいと思い久しぶりに小松市に来た。
まず、講習会がある「小松公会堂」に行った。会場には50人くらいの人が聴講に来ていたが、ほとんどが歴史好きの小松市民ようだった。
























小松城は、能美平野を蛇行して流れる「梯川」の湿地帯を利用して築かれた平山城である。1580(天正8)年、織田信長が一向一揆を平定して、村上勝頼の後に丹羽長重が小松城主になり、関ケ原の合戦後、加賀藩領になり、小松城代が置かれ加賀八家の前田長種がなった。
利常は、長男光高を加賀藩4代城主、次男利次を富山藩、三男利治を大聖寺藩に分けた。利常自身は、1639年小松城を修復し隠居し、数寄屋などを造成した。しかし光高が早死にし、5代藩主となる綱紀はまだ3歳で江戸のいた。そのため利常が実権を握り、このころは金沢が衰退し、利常がいた晩年20年間は政治、経済の中心は小松であったという。
「改作法」の断行、十村の編成・拡充、年貢米の大阪廻りを開始など、利常死後の加賀藩の根幹となった重要な施策はこの小松から遂行されたという。



















小松城は独特の縄張りで、本丸、二の丸、三の丸、葭島、牧島などと呼ばれた七つの浮島からなっていて、敷地の30%が堀であった。表向きは利常の隠居城であるが、敵からの防御を堅くした渦郭式の構造で、河川を利用した半面、水害からの備えもされていたという。














講座が終わった後、小松城から利常が見たであろう景色が見えるということで、公会堂の屋上に上がり景色を眺めた。日本海方向には眼下に天守台跡があり、その後ろに梯川が見える。



















反対側には白山連峰の山並みが見える。(この日は白山までは見えなかった)
現在の小松駅の向こうには木場潟がある。



















眼下の小松高校辺りは二の丸であった。梯川の向こうには「小松天満宮」がある。



















続いて、公会堂から歩いてもすぐ近くにある「小松城本丸櫓台石垣」を見に行った。ここの石垣は、戸室石のほか地元の鵜川などから切り出した石(凝灰岩)を使っている。積み方は切込ハギで、四隅は特に精巧をきわめ、周辺は軟弱な沼地でありながら、櫓台直下は砂州の西端にあり安定した土地であるため、勾配は垂直に近い積み方であるという。
金沢城では見られない石の色合いで、積み方も随分違う感じだ。




















階段の上には、立ち入り禁止となっていて、残念ながら上ることができなかった。

































本丸石垣台の周辺にあった「説明板」



2017年3月15日水曜日

兼六園 成巽閣(3)

兼六園 成巽閣(2)の続きで、その後、2階に上がった。下図は2階の部屋の配置図で、1階と趣は一変する壁は様々な色を大胆に使い、天井の意匠も部屋ごとに変えている。
























「群青の間」はウルトラマリンブルーといって、アフガニスタン産の岩石のラピスラズリ(青金石)で、青色顔料として非常に高価なものであったという。1820年代にフランス人により発明されたもので、成巽閣で使用されたものは日本に輸入されたウルトラマリンブルーの最初か極く初期のものだという。






「成巽閣」の本より












「群青の間」は、金沢では最高級のお客さんの「おもてなし」の部屋として使用され、金沢独特のものとして「北陸新幹線」の先端の色にも使われている。
以前は、成巽閣の他「辻家庭園」のものが有名であったが、最近では料亭やお客さんを招く改修した「町家」など多くの部屋で使われるようになった。



















「群青書見の間」は1畳の上段を設け、付書院の内側には机用の板が付けられ、両側に火燈窓ある。薄紫、緑、青、紅殻色といろいろな色の壁があり、基本は書院造りだが、藩主の好みによっていろいろ趣向を凝らした部屋である。(数寄屋風書院造り)






「成巽閣」の本より












違い棚の床柱には杢目がきれいに現れている。










「成巽閣」の本より













「網代の間」は、天井が網代張りとなっており、障子の中央には当時のオランダから輸入したというギヤマンが嵌め込まれ、部屋から外が見える。壁は朱と石黄を用いたものであるという。






「成巽閣」の本より












1階にある「清香軒」は現在非公開となっているが、京間で三畳台目の茶室で、席入りに明かり障子2枚の貴人口と板戸2枚の躙り口がある。







「成巽閣」の本より
清香軒・清香書院は成巽閣造営当初から建物に組み込まれた茶室で、躙り口から外には漆喰打ちされた広い土縁には自然石が配置されている。「沓脱石」と呼ばれる石には色石が巧みに組み込まれている。
土間庇の中に細流が外庭から流れてきて、また外へ出ていく。これは北陸特有の冬季雪の多い季節に土間庇を露地に使えるように作られたものであるという。







「成巽閣」の本より











「飛鶴庭」は、一般公開されていないので見れないのは残念である。。ここは、一面苔むす平庭に辰巳用水から分水した曲水が流れ、手水鉢、灯篭、捨て石が配されている。五葉松、赤松、高野槇などの喬木、八汐、ウメモドキの灌木が植えられている。
昭和4年に国の名勝指定を受けている。







「成巽閣」の本より











ここにある「六地蔵手水鉢」は金工の後藤程乗作のもので、江戸本郷邸より移されたものであるという。







「成巽閣」の本より