2015年8月30日日曜日

大鉄道展(石川県立歴史博物館)

今回は、夏休みも終わりに近づいているが相変わらず熱いので、孫二人を連れてのんびりと「石川県立歴史博物館」で開催されている「大鉄道展」に行ってきた。(8月22日)




















今回の「大鉄道展」は「石川県立歴史博物館」のリニューアルオープン記念と北陸新幹線金沢開業記念ということで開催されている。


























昭和39年の東海道新幹線開通から北陸新幹線金沢開業まで何と50年かかってしまった。東京ー大阪間の「北廻り新幹線」の構想は昭和40年代に既にあったから、非常に遅れていることになる。金沢ー大阪間はまだあと何年かかることやら分からない。私の生きているうちにはできないのではと思ってしまう。

特別展では、現在までに走っていた、あるいは走っている新幹線、特急電車や蒸気機関車などの模型が展示されていた。新幹線ではE0系からW7など、いろいろな色、形のものが展示されていた。




















東京の会社にいる時に出張で「東海道新幹線」は何度も乗ったので愛着がある。昔の「東海道新幹線」のブルーの座席が展示されていたが、なんとも懐かしい。流線型の「のぞみ」は乗ったどうか記憶がない。




















急行「能登」は東海道線周りの「夜行寝台列車」で、これも何度か乗った。ちなみに信越線周りの寝台特急「北陸」というのもあった。




















特急電車の先端に付いている看板が展示されたいた。「はくたか」は北陸新幹線が開通する前の「ほくほくせん」経由で越後湯沢まで走っていた特急で、非常に馴染みがある。また、特急「白山」は信越線経由で東京まで走っていた。








































下図の「こだま」の特急電車は東海道新幹線ができる前のものであろう。幼児用の絵本「のりもの」が飾ってあったが、私の子供の頃にもよく見たのを覚えているが、現代の幼児も「のりもの」の絵本はやはり変わらず大好きで孫もよく見ている。




















「三明駅ジオラマ」があったが、ここは知る人ぞ知る駅でなんとも懐かしい。「羽咋駅」から出ていた「能登線」の終着駅で、学生時代に「巌門」へ行った時に、ここまで電車で来て、その後バスで乗り継いで行った記憶がある。断崖絶壁で、その頃「松本清張」の「ゼロの焦点」の舞台となった所だ。
また、「能登線」に乗って「柴垣海岸」にも何度か海水浴で来た。




















鉄道ジオラマ模型が置いてあり、二つの電車が自分たちでスピードを上げて動かしたり、駅で止めたりツマミ一つで体験することができ、孫が楽しそうに電車を走らせていた。




















また、レールを繋いだり、ミニ電車を何両の連結して走らせるおもちゃも、飽きずには長く遊んでいた。




















このイベントに併行して「石川県立歴史博物館」内で「ミニコンサート」が開かれていて「バイオリン」などの美しい音色を奏でていて、多くの人が聞き入っていた。金沢の文化館に入ると、土、日にはこういう企画が多くなってきていて文化都市にふさわしい趣をだしている。

2015年8月24日月曜日

崇禅寺

聞善寺の後、そのすぐ近くにある曹洞宗の崇禅寺に行った。ここの開祖は明峰素哲大和尚で1349年に開かれた。その後、1648年に現在地に新たに再興されたという。




















明峰素哲は加賀富樫氏の出身で、京都で禅の重要性を知った後、金沢に戻り大乗寺で修行をし、
北陸一帯に多くの門弟を輩出し、禅寺を多く建立した人である。
下図は木造明峰素哲坐像(羽咋市の永光寺蔵)











「ふるさと偉人伝」より














境内には、下方に数匹もの牛が横たわっている見事に彫られた「開運灯篭」があった。台座に綿津屋政右衛門など寄進者223人の銘が刻まれている。かってこの塔は浅野川を航行する舟から眺められたという。


























その横には「社会事業の父」として知られる「小野太三郎」のお墓があった。


























「小野太三郎」は1864(元治元)年ごろから中堀川の自宅で困窮者を保護して育ていたが、小野の善行を聞きつけてた没落藩士や孤児、高齢者、障害のある人が次々と助けを求めて訪ねてきたために、資財を投げ打って彦三に家屋6棟を購入し、200人以上の困窮者を救済した。その後も活動を続け、小野の慈善院「小野陽風園」は私の小さい頃から耳に残っている。
下図は1905年当時の小野慈善院=常磐町(社会福祉法人陽風園提供)









「ふるさと偉人伝」より










また、その横には「梅鉢紋」の入った「琴神堂屋根瓦?」と彫られた大きな鬼瓦が飾られていた。




















ここのお寺には藩政期に奉納された「お地蔵さん」が9体納めた祠堂があり、、毎年8月9日には「四万六千日」の地蔵尊祭りがあって、参拝者にトウモロコシが配られ、家の前に吊るすと雷除けや子宝に恵まれるなど、その家に良い事があるという。




















右側の建物が本堂で、左側の建物が天神堂となった神仏一体のお寺である。お寺の中に入りたかったが、どこから入っていいのか分からず諦めた。






































ここの寺は「金沢三十三観音巡り」の第九番札所でもある。

2015年8月19日水曜日

聞善寺

今回は、瓢箪町にある聞善寺と崇禅寺に行ってきた。実は、この近くに徳田秋声の兄の正田順太郎が住んでいた町屋が、カフェやカルチャースペースとして市民に開放されるということを聞いていたので、そこへ行こうと思って来たが、まだ、公開されたいなかった。(6月にプレオープンイベントをやったらしいが)どこの場所か分からず、その家の前をうろうろしていたら、叔母さんとその家族が、「私は長くそこに住んでいた」と言われ、正田順太郎の曾孫と玄孫であることが分かり、その後、少し会話をさせていただき、貴重な話を聞くことができた。9月にオープンするということで、また、あらためて来ようと思う。
そこで近くにある聞善寺を尋ねた。ここは以前「健康ウォーキング」のイベントに参加した時に来たことがある。この時、釈迦如来像の涅槃絵など何点かの押絵を見たことがある。




















門の中に入ると、犬が私たちを怪しいものと思い、激しく吠え続けいたら奥さんらしい人が出てきて犬をなだめてくれた。その後、この奥さんからここのお寺についていろいろなことを聞かせてもらった。





















聞善寺は俗に「お東」と呼ばれる京都・東本願寺を本山にもつ浄土真宗大谷派のお寺である。14748(文明6)年願西坊により建立されたが、藩の事情により場所を転々としながら現在地に至っている。由緒ある聞善寺の寺宝は押絵が金襴と縮緬(ちりめん)でできているため、大正期より「ちりめん寺」として広く呼ばれるようになったという。毎年春の彼岸会には、寺宝押絵を開帳するのでかっては門前に市をなし賑わったものであるという。
本堂に入れてもらい、本尊に丁寧にお参りさせていていただいた。本尊の前の欄間に木彫りが見事の彫られていた。




















本尊の右側には、親鸞聖人や聖徳太子が祀られている。




















右側には、蓮如上人やここの歴代の住職の位牌などが祀られているという。

ここの押絵法宝物の作者は水口月照という人で、手の器用さから15歳の頃から押絵の道に志し、全国を転々としながらも金沢の人と結婚し、金沢に居を構え、仏法降盛の土地柄、仏法に因んだ作品をてがけ、明治末期・大正年間と親鸞聖人、蓮如上人、聖徳太子、、七高僧釈迦如来像などを製作している。そしてこれらの初開帳は大正5年聞善寺本堂の再建落慶法要を記念して行われたという。




















押絵とは金襴。縮緬などの生地を豪華に駆使し、一つの絵を立体的に造形したもので、江戸時代の手法を仏像画に取り入れたものである。下図は釈迦如来涅槃の図














「聞善寺のパンフレット」より











下図は親鸞聖人御得度の図











「聞善寺のパンフレット」より








ところで、ここの奥さんから「オテラート金澤」というイベントがあることを教えてもらった。「オテラート」とは「お寺」と「アート」を掛け合わせた造語で、金沢在住の作家、学生さんなどによる作品展で、絵画、彫刻、書、陶磁器、漆工芸などの出展があるという。


























また、お寺で手作りのアートを体験したり、音楽を聞いたり、講座でいろいろ学んだり、お茶を飲んでのんびり過ごしたりするイベントもあるという。金沢のお寺も最近はいろいろお客さんを集めて活気あるものにしようとしている。金沢に住んでいる人たちも最近は自分の住んでいる所の歴史や文化を知ろうという人が増えてきたよう気がする。
金沢には他の町よりお寺や神社が多いと聞いているが、ここの奥さんは観光客から「なぜ金沢はお寺が多いのですか?」とよく聞かれるという。金沢地区(昔の石川郡、河北郡も含めて)に浄土真宗のお寺が300以上あると言っていた。これも蓮如さんの布教のおかげなのか?




















ここの奥さんが一番喜んでいたのが、30代の息子さんが金沢へ帰ってきて後を継ぐことになったということで、若い人にも魅力ある「お寺」にして盛り上げていってもらいたいものである。

寺町寺院群もこのイベントに今年初めて参加するということでそちらの方も動きだし面白くなりそうだ。

遠方の観光客も、兼六園、東茶屋街、21世紀美術館、近江町市場など主要な観光地だけでなく、多くの寺院や神社を訪ねたり、古地図巡りなどにも参加してもらいたいものである。

2015年8月14日金曜日

田井菅原神社

今回は金沢まち博2015の御神宝めぐりで、天神町にある「田井菅原神社」に行ってきた。金沢まち博は、ここ数年毎年楽しみにして行っているが、最近は応募者が多くなっているのかだんだん抽選が当たらなくなっていて、今回は今年は初めての参加である。




















早速、ここの田邊宮司より説明があった。神社の御神体は、菅原道真より直接賜った自画像であると伝えられている。この自画像は、菅原道真が大宰府(福岡県)へ左遷される途中、河内国の道明寺(大阪府藤井市)の叔母を訪ねた際、田邊左衛門に与えたもので、以来、田邊家では家宝として守り伝えたという。後に、田邊喜兵衛の代に、加賀藩3代藩主利常より十村役を命ぜられ、代々その職を継いだが、、邸内に社を建て、菅原道真の自画像を祭った。明治期に田邊家の庭園内に神社が建てられ、1880(明治13)年に田井の産土神となったという。




















境内には、13代藩主斉泰公より拝領された大黒さま(大国主命)が祀られていた。




















また、芭蕉の句碑「風流の はじめや奥の 田植唄」があるが、側面に明治21年3月建立となっているので、後からもってきたものだという。この句は芭蕉の「奥の細道」の旅に出た最初の頃に詠った句だといっていた。ここにも芭蕉の句碑あったとは知らなかった。




















この神社で、よく知られているのは初詣の時、古文書に則り加賀藩主献上鏡餅を再現していることである。ここに所蔵されている古文書に、1802(享和2)年12代藩主斉広公の初のお国入りによる新春の献上鏡餅のことが記されているものを見せてもらった。この鏡餅は三点セットになっており、真ん中は床の飾り餅、向かって右側は蓬莱飾り、左側は櫓餅で、大小52個の紅白の餅が使用されている。再現するには約2石2斗(340kg)のお米が必要という。現在は蝋を溶かして作った模倣品を利用しているという。
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http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/data/shrine/img_185.jpg?20150811061256より

古文書には「白が上」と記されているが、白は地、赤は天をあらわし、古来の「易」などでは天地を逆に配置する二が「泰」すなわちよい形であるという。下図は江戸時代の描かれた鏡餅の絵図である。


























続いて、拝殿に飾ってある絵馬などを説明して頂いた。下図は、尾小屋銅山を経営していた横山家から奉納されたもので、構内の「明かり」として「カンテラ」の開発が成功した御礼として奉納されたという。この絵馬には、ここのご神体の菅原道真公が描かれていた。




















下図の絵馬は明治7年に奉納された「田井小学校」のもので、明治5年の「学制令」により、石川郡
田井村に、寺小屋が小学校として発足した時のものである。教師や生徒の名前が刻まれている珍しいものである。その当時は遠く湯涌の生徒が2時間半かけて通っていたものもいたという。




















平成になってからの奉納された絵馬であるが、尾張町にある老舗の友禅染などの袋物を扱っている「木倉屋」のものも飾られていた。

2015年8月9日日曜日

兼六園 眺望台 ことじ灯篭 

月見橋を渡ると東の方向は開けていて、眺望台がある。ここからは見晴らしがよく、真向かいの卯辰山、そして右方向に白山山系の一部と戸室山、医王山がはっきりと見える。




















海の方見渡すと、天気がよければ日本海が見え、さらに河北潟、能登半島が見えるという。こういう高台から景色のよい所を見ると気持ちがすっきりする。この高台は標高53mというが、この脇に水の流れがあり、「霞ヶ池」に満々と水がある。「眺望」と「水泉」は相反するものでるが、ここは兼六園の六勝のうちのふたつを兼ね備えているといわれている。




















そういえば、この眺望台をこよなく愛した異色の作家がいる。政治活動に取り組んだプロレタリア作家の「中野重治」で、四高の5年間で文学に開眼し、金沢を舞台にした「歌のわかれ」や「むらぎも」などの作品が有名である。下図は後に「歌のわかれ」の舞台の金沢を訪れ、四高時代および作品を書いた時代からの町の移り変わりを「五十年前と三十年前」という文章で描いたときの写真という。









「石川歴史館」より










曲水から流れてきた水がここで、折れ曲がって虹橋をくぐって、霞ヶ池に流れている。

また一方は水門をくぐって、石囲いの「大枡」(水の取り入れ口)がある。
ここから園路を横切って崖に向かって、石管が通っていて逆サイフォンの原理を利用して金沢城の二の丸まで水を送った遺構である。この「大枡」には、藩政期に三つの番所水御門があり、厳重に管理していたという。




















「大枡」から、この石が敷いてある下に石管が通っていて、金沢城まで水を引いていたと先日の「ぶらタモリ金沢編」で放映していた。


























虹橋のほうには小さな堰があり、そこを超えると「瀬落とし」といってわずかな段差があり、「瀬落とし」の瀬音は軽快なリズムを奏で、琴の糸のように美しいといわれている。




















この前に、霞が池に流れる所に「虹橋」と「ことじ灯篭」がある。ここは、霞が池、蓬莱島、内橋亭を借景として兼六園の中でも最も景観の優れている場所のひとつであり、兼六園のシンボルとしてポスターや絵葉書などに必ず載っている。




















「ことじ灯篭」は脚が二股になっていて、ちょうど琴を支える琴柱に似ているのでその名が付いたという。この灯篭は水面を照らすための雪見灯篭の変形で、高さが2.7m、1脚は水中にあり高さ1.9mで他方が護岸石組みのひとつの石に短脚を持たせていて、高さ0.8mである。明治の頃までは、二脚とも同じ高さだったが、誰かが飲んだ勢いでひとつの脚を折ってしまったので、現在のようになったと聞いたことがある。この脚の不均衡さがかえって、一種の破調の美を呈しているという。
「虹橋」は赤戸室石の反り橋で、琴の胴のような形をしていて、長さが5m、幅1.1mの一枚橋で、「ことじ灯篭」の破調の美と「虹橋」の曲線の美が一体となって優れた風景を醸しだしているという。




















藩政期の2本とも同じ脚の長さであった頃の絵図









石川県立歴史博物館「兼六園絵巻」より










春の新緑の季節、それに「ことじ灯篭」の傍らのモミジと一体となる紅葉の季節と冬の雪景色、いつきてもすばらしい景色が味わえる。