2014年3月29日土曜日

ふるさと偉人館(2)

前回に続いて、次に「高峰譲吉」のコーナーを見た。バイオテクノロジーの父と呼ばれ、映画にも上映されていて郷土の人にとっては非常に有名な人である。




















36歳のときにウィスキーを作るためにアメリカに渡り、研究を続けた。ウィスキー造りはうまくいかなかったが、これができるまでの変化を見て、消化の薬に使えるのではないかと考え、麹菌の酵素から「タカジアスターゼ」という薬を発明した。


























さらに譲吉と助手の上中啓三は、牛の副腎から世界で初めて純粋なホルモンである吐血剤アドレナリンの結晶の抽出に成功した。このアドレナリンは現在の外科手術などにも使用されているという。100年以上も前にできた薬が今でも使われているのは非常に珍しいことだという。




















譲吉が愛用していた顕微鏡が展示されていた。




















また研究生活を送りながら日米親善にも力を注ぎ、1905年にニューヨークに設立された「日本クラブ」の初代会長を務めた。
「大統領晩餐会」の写真が展示されていたが、タフト大統領、ルーズベルト前大統領それに野口英世や東郷平八郎などそうそうたる顔ぶれが写っていた。




















今、ニュースで盛んに話題になっている「理化学研究所」の設置を提案して、渋沢栄一が賛同して1917年に誕生したものだという。
また、1887年に米国のキャロラインと結婚した。米国滞在時に肝臓病の再発で譲吉は倒れた時に、イリノイ州の自宅のそばを通る線路に出て、走ってくる汽車をキャロラインが止め、大病院のあるシカゴまで250kmの距離を運んでもらったという話は有名である。
譲吉とキャロラインが身に着けていた着物と袴が展示されていた。




















譲吉が使用していたという立派な机も並べられていた。




















続いて台湾にダムを築いた「八田與一(よいち)」のコーナを見た。
八田與一は金沢市の今町に生まれ、一中、四高、東京帝大土木科へと進んだ。その後、台湾に渡り、不毛の台地と呼ばれた嘉南平原の灌漑に大きな功績を残した。




















大学時代のノートが展示されていたが、ダムに関する図らしきものと英語のメモ書き描かれていた。





















嘉南平原に堰堤長1237mで当時東洋一の烏山頭ダムと総延長16,000kmの給排水路を整備し、台湾一の穀倉地帯に変えたという。大型土木機械を使用し、また工事関係者が安心して働けるように町も作ったという。




























































八田與一の命日である5月8日には、毎年この地で墓前祭が行われるというが、台湾人にはよっぽど慕われているのだろう
與一が四校時代に実家の今町から四高まで10km近くも毎日歩いて通っていたというが、昔の人は大変よく歩いていたと感心する。そういえば、去年その道を歩くウォーキングのイベントがあり、多くの人が参加していた。
また、数年前にアニメ映画の「バッテンライ」も公開された。
続いて、近代建築の巨匠といわれる「谷口吉郎」のコーナーを見た。




















片町生まれで、生家は九谷焼の窯元「谷口金陽堂」という名前だった。当館で聞いたら、今の金劇付近にあったという。




















二中、四高を経て、東京帝大建築科に進んだ。そして東京工業大学教授となった。
手がけた建築物は県外では「東宮御所」、「東京国立博物館東館」、「藤村記念堂」(下の写真)などがある。




















また県内では「石川県美術館」、「金沢歌劇座」、「石川県繊維会館」(下の写真)などがあり、天井からかかっている折鶴は、子供のころに西町にあった建物の中で見たことがあり、特に印象が残っている。


























愛知県犬山市にある「博物館 明治村」の開設に尽力して、初代館長になったという。「明治村」には、金沢からの適当なドライブコースで私は3度訪れているが、「四高の階段教室」や「森鴎外や夏目漱石の住宅」などを見たことを覚えている。
「谷口吉郎」は1973年に文化勲章を受章し、1978年に金沢名誉市民第一号となっている。

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2014年3月24日月曜日

ふるさと偉人館(1)

今回は、久しぶりに本多町にある「ふるさと偉人館」に行ってきた。ここは幕末・明治以降から今日までのさまざまな分野で活躍し、国内外に優れた業績を残した、ふるさとの偉人を紹介しているところである。




















偉人館の玄関前に「杉森久英」の作品の「能登」の一部を描いた石碑があった。偉人館の人に聞いたら、作品の中の主人公がこの辺に住んでいて、この辺の様子が描かれているからだということだった。
「杉森久英」は七尾の出身で、金沢一中を出ている。「島田清次郎」の生き様を描いた「天才と狂人の間」の作品で直木賞を受賞した。伝記文学が多く、地元の横綱だった「輪島大士」なども描いている。




















また、玄関塀の中に「北陸学園幼稚園の地」の石碑が建っていた。明治のころは「「北陸英和幼稚園」という名称で。「泉鏡花」、「中原中也」や「永瀬清子」ら作家が通っていた。「中原中也」と「永瀬清子」はどちらも有名な詩人で、金沢出身でないが、親の仕事の関係から幼児期に金沢にいたことがあり、後に金沢のことを描き、大体同じ時期にこの幼稚園に通っていたということを聞いたことがある。




















また、この建物の周りの敷地に「高峰譲吉」、「木村栄(ひさし)」や「八田与一」の胸像があった。




























































館内には現在20人の偉人について紹介されている。この日は祭日(9月21日)なので、65歳以上無料ということでラッキーだった。
まず、世界の天文学に貢献した「木村栄(ひさし)」のコーナーを見た。生まれは泉野町で四高の第一期生である。緯度変化の公式「Z項」を発見したが、四高時代に数学、物理の教諭の今川覚神の授業で「球面天文学」に出会ったのがきっかけという。




















そろばんが小さいころから得意で、国際会議に使用したというそろばんが展示されていた。




















また、自筆のノートが展示してあったが、X、Y、Zの3軸を表した図と難解そうな数式が描かれていた。




















岩手県の水沢緯度観測所で星の動きを定期的に観測し、緯度を計測することによりZ項を発見したという。この発見後も25年間にわたり一日も欠かさず観測を行ったという。




















この功績により1936(昭和11)年に英国王位天文台のゴールドメダルを受賞し、また、翌年に第一回の文化勲章も受章した。








































そういえば最近、石川県人で科学などの分野で大きな賞をもらった人が出ていないのでは。

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2014年3月19日水曜日

兼六園 梅林 時雨亭(2)

前回の続きで、梅林を散策した後「時雨亭」に入った。
5代藩主の綱紀が「蓮地御亭」を建て、その周辺を作庭した。これが兼六園の始まりである。6代吉徳がこの御亭を建て替えているが、藩政期後期には「時雨亭」と呼ばれていた。ここでは観月、観風の宴が開かれていたという。そして今の噴水前にあった「時雨亭」は明治の初めに取り壊さた。
現在の時雨亭は2000(平成12)年に、残されていた当時の平面図を参考に復元された。 木造平屋建ての数奇屋風書院造りで、江戸時代の建築洋式を知ることができるという。




















10畳二つと8畳二つをつなげた広い座敷でお茶と和菓子を頂き、一服した。観光客と思われる20人くらいの人と並んで座ってお茶を頂いたが、ほとんど女性だった。私はお茶より「時雨亭」の中を見たいということだけだったので、安いほうの煎茶にしたが、他の人は皆高いほうの抹茶と生菓子だったのでちょっとみじめな思いをした。




















座敷は茶席にふさわしい落ち着いた雰囲気があった。




















座敷の横にあった勝手水屋




















通常の来園者の休息の他に、茶会などの催しなどが開かている。
縁側に出ると、長谷池や庭が眺められた。長谷池の水の色は青々としてきれいだった。ところどころに遣水を引いた苔庭で、木々には雪吊が施されていた。




















ここに流れ込んでいる遣水は、成巽閣近くの曲水を水源とする辰巳用水である。











































この池を長谷池と呼ぶが、ここに明治時代に2代目金沢市長となった長谷川準也の私邸があったところだ。長谷川準也は明治に入り失業士族の救済するために、殖産興業をリードし製紙や銅器会社を設立し、金沢市の活性化に勤めた。また、準也は金沢再生のために尾山神社の神門の造営の企画もした。しかしこの兼六園の私邸疑惑で失脚したという。















「こども金沢市史」より




この辺りは、古くは加賀藩の武家屋敷、藩の武学校の経武館、馬場、調練場などがあった。新しく梅林、時雨亭ができるまでは、この辺りは庭園としての形を成していなかった。
長谷坂を上った「時雨亭」の前あたりに、私の高校生のころまで県立図書館があり、何度か利用したことがある。現在、県立図書館は本多町にある。















「実録石川県史」より







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2014年3月14日金曜日

兼六園 梅林 時雨亭(1)

兼六園の梅林の梅が咲き始めたということで見に行った。日曜日で穏やかな日だったので、多くの人が梅林を散策していた。(3月9日)
この梅林は、1968(昭和43)年に「明治百年記念事業」として、北野天満宮や大宰府、水戸偕楽園などの協力により全国の名梅を集めて造成された。現在は約200本の梅が植えられ、そのうち白梅が130本、紅梅が70本である。
八重寒紅、麻耶紅梅、白加賀など20種類あるという。







































梅林の中には小川が流れ、小さな雪吊もしてあり、風景が非常によかった。




















梅林の流れ沿いに、散策の途中に一息つける「舟之御亭」があった。
藩政期のころには桜ヶ岡の茶店付近にあったらしく藩主や招かれた家老などが園内を楽しみながら御亭に立ち寄り一服したという。これは絵図をもとに舟形の四阿(あずまや)を再現したという。




















私の子供ころには、この辺は芝生の広場と児童遊園になっていた。芝生の広場ではボール投げをしたり、児童遊園ではブランコ、すべり台、鉄棒のほかに珍しく「つり輪」があり、ぶら下がってみたが、どうやっていいのか分からなく苦戦していたのを覚えている。
この広場は、以前からいろいろな集会に利用されていたが、1917(大正6)年に衆院議員選挙で中橋徳五郎と戦った普通選挙運動の旗手で、後に大臣を務めた「永井柳太郎」がここで「来たり、見たり、敗れたり」で有名な落選演説をした場所だ。




















梅林の中に樹皮がえぐられた松の木があった。これは太平洋戦争のときに政府の指示でつけられた傷である。戦時中に飛行機の燃料にするために、松から松脂(まつやに)を採って松根油にして、それで飛行機を飛ばそうというものであった。科学的には可能だったというが、膨大な松脂を必要とし、実際のは使われなかったらしいが、使えるものは辺り構わずなんでも使おうという悲劇の時代であったことが想像される。




















梅林の裏手のほうにひっそり建っている塔がある.この塔は1933(昭和8)年に「ラジオ塔」として建てられたものだそうである。銅板葺屋根がお寺の塔の御堂のようで、下の石組みも見事で付近の風景にあっている。その当時は、まだラジオは珍しく「ラジオ体操」や「野球の試合」の実況放送が始まると、この前に人が大勢集まったという。

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2014年3月9日日曜日

石川護国神社 石川県立能楽堂

今回は、兼六園の金沢神社の裏手にある通りの向かいの場所を巡った。
ここに、大きな神社があることは以前から知っていたが、入ったことはなかった。
「石川護国神社」といって、幕末の戊辰戦争から始まって、日清、日露戦争、日中戦争そして大東亜戦争などで戦死した石川県関係の戦没者が44,880余柱を祀ってあるという。




















14代藩主だった前田慶寧が戊辰戦争の戦死者を1870(明治3)年に卯辰山の招魂社を建てて祀ったが始まりで、1935(昭和10)年に現在地に遷座した。そして1937年に「石川護国神社」という名称になった。




















私の従姉弟の親(叔父さん、義理の叔父さん)も亡くなっているが、大東亜戦争では石川県関係の人は一体何人亡くなったのであろうか?大きな碑が建っていた。8月15日には、石川県戦没者平和祈願祭がここで盛大に行われている。




















金沢市出身の人が沖縄で激戦地跡や遺骨収集を見聞した後、現地の「トラバーチン石」などを持ち帰り、これを大東亜戦争全線域の象徴石とし、亡くなった人の慰霊と世界平和を祈願して建立された「慰霊平和祈念碑」があった。




















石川護国神社では7月の「万灯みたままつり」には、幻想的なあんどんの灯りが並び、期間中は夕方から翌朝まで灯されるという。
この神社の隣の敷地には、三つの建物が並んでいた。




















右側にあるのが、現在は石川県庁舎分室となっているが、この建物は明治31年に金沢城の二の丸跡に建築された「旧陸軍九師団司令部庁舎」で、昭和45年に現在地に移築された。その際に両側が半分に縮められたが中央は原型そのままという。木造2階建、茅葺で、初期洋風建築のもつルネサンス風の外観である。明治期の庁舎建築の模範となった建物である。




















その隣にある建物は「旧陸軍金沢偕行舎(かいこうしゃ)」で、明治31年に陸軍九師団の創設とともに大手町に建てられた。木造2階建、茅葺で、将校の親睦の場として利用された。隣の簡素な庁舎風建物と好対照で、華やかな技巧を凝らした明治ロマンの感じがする建物である。




















右端にある建物は「石川県立能楽堂」で、能楽や邦楽から伝統的な芸術文化を振興させる目的で、1972(昭和47)年に建てられた。能楽は藩祖の前田利家に端を発し、歴代藩主が手厚く保護した。ここでは8月を除き毎月定例能と呼ばれる催しをはじめ、能、狂言、仕舞が上演されているという。




















1932(昭和7)年に市役所の裏に「金沢能楽堂」が竣工し、新しく能舞台がその時作られたが、ここの能舞台はそれをそのまま移築したものである。
そういえば、50年以上前の中学生のときに市役所の裏にあった「金沢能楽堂」へ学校から能を団体見学し、眠たい目をこすりながら見ていた記憶がある。




















舞台の下には9個の瓶があり、音響効果を出していると聞いたことがある。太鼓の音や能役者の声が思いがけなく大きく聞こえたという印象がある。
中学生のころにはまったく興味がなく、これまでもあまり縁がなかったが、郷土の文化芸能を一度は見学したいと思っている。

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