2018年8月31日金曜日

ウィン館

今回は、飛梅町にある「ウィン館」に行った。この前には「辰巳用水」が流れており町名が復活した「飛梅町」の標柱が建っている。


































建物は明治24年(1891)の建築で、木造2階建て桟瓦葺き、外壁に下見板を張っている。外壁をペンキ塗りで仕上げ、創建当時は1、2階前面に付けられたベランダ、ベイ・ウインドウなどは、典型的なコロニアル・スタイルで、いわゆる「異人館」の外観を見せていた。1階ベランダ部の柱に付された独特の形態をした柱頭部の持ち送りや厚板を鋸で切り抜いただけの素朴な透かし細工の手摺り、単純な扱いの出窓など、全体に軽快で簡素な味わいある意匠となっていた。その後、何回か改造されているので、当時とは違うところもあるという。



















この建物は、当初、キリスト教を広めるために金沢にやってきたアメリカ人トーマス・ウィンが、自宅や教会を建てるために自ら設計し建てたものである。




















彼は、石川県中学師範学校のお雇い英語教師として2年間の契約で1879(明治12)年に着任したが、元々プロテスタントの宣教師であり、教師の傍ら伝道を行い、時の県令
に申し出て許可が得られ、教会を建設したという。また、金沢に滞在をつづけるために教師をつづける必要があり、大手町に「私立愛真学校」を設立し、教師をしながら伝道活動を行った。従って、彼は金沢の私学の開祖でもあり、ミッションスクールの開祖でもあるという。



















「私立愛真学校」は男子校であったので、ウィンとともに女子学校の必要性を感じていためりー・K・ヘッセが来日し、当初は民家を借りて私塾を開いていたが、1885(明治18)年に柿木畠に「私立金沢女学校」を建てた。これが現在の「北陸学園」だという。
























「私立金沢女学校」開校当時に買われたといオルガンが飾られていた。当時、日本ではオルガンが製造されていなく、世界でもっとも有名であったアメリカのエスティ社のものである。



















当時の石川県知事の「岩村高俊」が、「国家を豊かにするためには、国民一人一人が知識と道徳心を養い、国家の産業を盛んになるように励まなければならない。それは檀上によって異なるものではない。そのためには教育が基本的なものである。」という趣旨での式辞が額に飾られていた。



















また、フランシナ・ポーターは「愛真学校」で英語を教えていたが、北陸初の幼稚園を作り1886(明治19)年に、わが国最古のキリスト教幼稚園である「英和幼稚園」と「英和小学校」を作った。この学校には「泉鏡花」や「永瀬清子」そして、2年間だけ「英和幼稚園」に「中原中也」が通っていたはずだ。「泉鏡花」は、このポーター先生をあこがれの人だったと作品に描いている。
























建物内部の廊下や階段











































「旧ウィン館」の隣には、ずっと女子学校だったが、現在石川県の高校の最後に男女共学になった「北陸学園」の建物がある。











2018年8月27日月曜日

2018 東京(3)上野恩賜公園 

2018 東京(2)の続きで、その後 公園内から「上野駅」方向に戻り、今話題の「西郷隆盛」の銅像を見に行った。激動の幕末維新を生きた、今最も話題の人物で、私もいつも楽しく「大河ドラマ」を見ている。写真を撮らせなかった人で、西南戦争で亡くなった後も西郷生存説、西郷替え玉説もあり、「西郷の首」伝説は百年もの間、謎に包まれていたが、金沢で発見された石川県の軍人「千田登文」の「履歴書」に「西郷の首」について描かれていたことについて、後日、もっと詳しく紹介したい。
























「西郷隆盛」の銅像は西南戦争でなくなった後、明治天皇より賊名を解かれ、正三位を追贈され、旧友の吉井友美が同志とともに建立を計画し、明治30年に竣工されたという。




















すぐ近くに「清水観音堂」がある。ここは、寛永寺を開創した天海僧正が京都の清水寺を模して造られたという。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようにして作られているという。




















ここに、清水寺から奉納されたという千手観音像が本尊となっている。



















不忍池の畔の「京成上野駅」に近いところに「下町風俗資料館」があるということで、そちらの方へ行ったが、今日月曜日は残念ながら閉館だった。江戸時代の下町の一般庶民の生活ぶりが分かるという。四季折々の風習、例えば、花見の様子、七夕、お盆などのしきたりやに展示されているという。金沢の風習とどう違うのか見たかったものだ。




















不忍池は蓮の葉が大きくなっていて、池の水が全く見えなかった。ピンクの蓮の花は、まだツボミのものが多かったが、花が大きそうで、咲き誇った時は見事だと思う。



















周りには結構な高層ビルもあり、都会の人にとっては憩いの場所であろう。



















不忍池の中に弁天島があるが、そこの弁財天を祀る弁天堂がある。そこへ行く途中に、面白いめがねの石造があったが、「徳川家康のめがねの碑」とあった。



















ここの弁財天に丁寧にお参りしてきた。ここにも外国人がたくさん来ていた。



















ここでお参りするときに、紐を大きく揺らせて鐘をたたいたら、大きな音が出て周りの人がびっくりしたようだった、外国人が「にやり」と私の顔を見ていた。



















帰りに見たきれいなピンクの花



















上野駅前の大通りに出ると、派手な赤いコミュニティーバスが走っていた。「台東区周遊バス めぐりん」と描いてあった。

2018年8月23日木曜日

2018 東京(2)行幸通り 東京駅 上野恩賜公園 

2018 東京(1)の続きで、皇居から東京駅方面へ向けて「行幸通り」を歩いた。ここは、昨年改修工事を終えたばかりで、新任の外国大使が天皇にあいさつするために馬車に乗ってこの通りを通った映像を思い出す。首都の玄関である東京駅と皇居を結ぶ日本のシンボルロードであり、長さが190m、幅73mで周辺に高層ビルが林立する中での大きな空間である。


































そして東京駅向かいの「新丸ビル」のレストラン街で昼食をとった。



















「新丸ビル」から見える「東京駅」



















東京駅前に、今年の暑い夏になんとか「ひんやり感」を出そうと「打ち水」をやっていた。厚さ5mmくらいだという。確か金沢駅前でもやっていたと思うが。



















東京駅のドームの内部の八角形には、上の方に八個のハトの彫刻があり、下の方に丸い緑の中に十二支の干支のうちの8支が描かれていた。



















続いて上野に行き「上野恩賜公園」を歩いた。途中の公園内の道路で、外国人が「チェロ」によるストリートミュージックで演奏していた。私がちょうど前に着いたときに演奏が終わり、片付けに入っていた。その後に一人のお客さんが近づき、「今度私らが企画しているイベントで演奏してくれないか」と交渉していた。



















「国立科学博物館」は夏休みで親子連れで多くの人が入っていた。 「恐竜」の骨や「昆虫」などが展示されているので、大賑わいである。




















この建物は、関東大震災の後に震災復興を目的として1931(昭和6)年に竣工したという。ネオ・ルネサンス調のの建物は鉄筋コンクリート造りで耐震、耐火にも注意を払われたという。上空から見ると、当時の先端技術の象徴せあった飛行機の形をしているという。2008年に重要文化財に指定された。



















お目当ての「国立博物館」は今日月曜日は休館だった。残念ながら見ることはできなかった。建物は二代目で、初代は赤レンガ造りで、イスラム小塔を頂いた建物だったが、関東大震災で被害を受けたという。現在の建物は、「日本趣味を基調とする東洋式」というコンセプトで、公募で渡辺氏による案が選ばれ、1938(昭和13)年に開館した。コンクリート造りの洋式建築に東洋風の瓦屋根を載せたもので、2001年に重要文化財に指定された。



















その横にあった建物は「表慶館」で、1900(明治33)年に皇太子(のちの大正天皇)のご成婚を記念して計画され、1909年に開館したという。東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮 )などで知られる宮廷建築家の片山東熊。緑のドーム屋根や外壁上層部の製図用具、工具、楽器など芸術にまつわる図像のレリーフが見どころである。明治末期の洋風建築を代表する建築として1978年に重要文化財に指定された。


2018年8月19日日曜日

2018 東京(1) 鵠沼 皇居

今回は急遽、懇意にしていた藤沢の叔母さんの様子を見に行くことになり、東京方面に出かけた。北陸新幹線に乗るのは、金沢に新幹線が開通した1か月後に乗っているので、約3年4か月ぶりになる。東京には12時近くに着く新幹線だったので、車内で昼飯を食べようと思い、金沢駅のホームで売っている「大友楼」の弁当を買った。弁当の包装紙に金沢の藩政期の古地図や西外惣構の香林坊橋、加賀鳶の絵図が描かれていた。



















ぶりのつけ焼きや生麩、鱒ずしなどいろいろなものが少しづつ食べれてどれも大変おいしかった。



















藤沢駅から江ノ電に乗り「鵠沼」まで行った。何年か前に叔母さん夫妻に案内され、江ノ電に乗って「江の島」や鎌倉大仏、長谷寺、鶴岡八幡宮などを訪れたのを思い出した。




















「鵠沼海岸」は1889(明治22)年に日本最初の分譲型別荘地として開発されたが、当初はわずかだったという。ところが1902年に藤沢~片瀬に江の島間に江ノ電が開通してから盛んになったという。今は、閑静な住宅街となっているが、道が細く叔母さんのところに行くまでに随分道に迷った、久しぶりの再会の後、叔母さんから聞いた今でも神輿が出るという「賀来神社」に行った。ここの境内に「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」があるのと、最近建ったサーフボード型の道祖神もある。



















都内で1泊して次の日「東京駅」まで行き、「行幸通り」の下の地下道を通って「皇居」に行った。石垣の前に立派なお濠があり、白鳥が泳いでいた。ここは、ご存知の徳川幕府の江戸城が前身である。



















今回は、何の計画も持たず来たので、予備知識がない。皇居に来たのはおそらく55年ぶりくらいかと思う。白い建物は、地図で見ると「桜田二重櫓」である。お濠には水草がいっぱい浮かんでいる。もっと向こうに大手門があり、そこから入った先に「天守閣跡」あるらしい。今回は時間がないので後日にしたい。

































桔梗門付近の辰巳櫓(桜田二重櫓)。皇居参観へは桔梗門から入るで、「内桜田門」と呼ばれているが、昔、この門の瓦に太田道灌の家紋の桔梗が付いていたことから、その名前が付いているという。



















「坂下門」には渡り櫓がある。宮内庁への入り口で、1862(文久2)年に和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、水戸浪士を中心とする尊王攘夷派の志士に坂下門外で襲われた事件があった「坂下門外の変」で知られている。



















皇居といえば、この「二重橋」が何といっても最大のフォトスポットである。手前の石橋と奥にかかる鉄橋を総称して言う。江戸時代には、ここは土橋だったが、明治20年に現在のような美しいめがね型のアーチ状の石橋にした。その横にある建物は「伏見櫓」である。その奥に両陛下がお住いの「吹上御所」がある。



















石橋の奥なる鉄橋



















石橋の欄干のランプは豪華さを表している。石橋の先に正門があり、石垣と石橋、正門付近は非常に美しい。



















明治時代初期の二重橋の写真



















お濠道路の石畳には、各県の特徴を表した絵が描かれていた。

2018年8月15日水曜日

金沢の近代建築(6)金沢町民文化館

金沢の近代建築(5)の続きで、尾張町に現在は中が一般公開されいる「金沢町民文化館」があるが、昔は「金沢貯蓄銀行」という名称の銀行であった。この建物は、1907(明治40)年に竣工した。外観では、とても銀行に見えなく屋根は城郭風の瓦屋根で、上の両側に鯱がついている。そして、江戸時代の度重なる大火から、明治のころにはやった防火性のある土蔵造りとなっている。扉も土蔵造りとなっているが、窓枠はアルミサッシに代わっている。土蔵造りは、江戸時代には蔵に、そして明治以降は銀行などにも使われているが、その代表的なものである。腰回りは戸室石を使い、重厚感がある。



















鯱がある天辺の屋根の下に梅鉢に「貯」のマークが入っている。


内部は洋式で壁・天井ともに白漆喰仕上げで、装飾は精巧な左官細工の西洋古典建築である。お客さんの受付部分に金網が貼られており、出し入れする部分だけが解放されていて、いかにもレトロな銀行の窓口であることが分かる。



















柱や扉・窓の額縁は木造りで、洋式的装飾を付け、飴色のワニスで仕上げて白壁と美しいコントラストを付けている。奥の方は大きなアーチ状になっていて、ひときわ目立つものである。



















その横には「頭取室」があり、応接室にもなっている。
























天井には洒落たシャンデリアが掛けられている。壁などの装飾は精巧な左官細工の西洋古典建築様式で、アカンサスの葉をモチーフにして浮き彫りされている。それらの用い方は古典建築様式に則らず自由奔放にやっているが、それがかえって大きな魅力になっているという。



















館内の一角に、前田利家の「馬上の武者絵」の掛け軸と水引でつくられた鯰兜被った甲冑などが展示されていた。



















地下には重厚な扉があり、その中は「金庫室」となっていた。そこにもここの歴史や当時の建物のエピソードなどが紹介されていた。
























この建物の裏側に、煉瓦造りの蔵と塀があった。今の建物の以前の明治10年にここに建てたという「金沢第12国立銀行」があったが、その時のもかよくわかっていないという。
























この煉瓦造りの塀は3.3mの高さがあり、今話題になっている地震により塀が壊れるかもしれないということで、先日の新聞に載っていたが、今年中に撤去されるという。安易に撤去しないで、歴史的に重要なものかどうか十分調査して、一部残すかなど上手く対処してもらいたいものである。