2023年12月31日日曜日

年末の大雪後の兼六園の風景(2)

 年末の大雪後の兼六園の風景(1)の続きで、さらに園内の雪景色を見る。

雪吊された「唐崎松」




















霞ヶ池、蓬莱島、向こうは栄螺山





































笠の上にこんもり雪が載った「雪見灯篭」
























「七福神山」


















「明治紀年之標」と本願寺から寄進された「手向松」(たむけまつ)


















「根上松」
























「花見橋」の上に積もった雪を除雪


















辰巳用水の「花見橋」の上流側のある「鶺鴒島」


















辰巳用水の「花見橋」の下流側


















広々とした「千歳台」エリア


















「成尊閣」の裏門側から見た建物


















「成尊閣」の裏門側の庭


















菅原道真を祀った「金沢神社」


















「金沢神社」内での正月準備

2023年12月29日金曜日

年末の大雪後の兼六園の風景(1)

 12月に入って22日の朝は14cm、そして23日の朝はさらに積もって、金沢の積雪が39cmとなり、12月としては珍しく大雪になり「雪かき」に負われた。今回の雪は水分が多く、雪が非常に重く大変だった。

今年の冬は暖冬という予想だったので、少しびっくりした。1月、2月はどうなんだろうか?

そして24日の午前9時ごろ兼六園の様子を見に行ったので紹介する。

観光客はまだわずかしかいなかった。少しいたのは外国人がほとんどだった。

まず梅園から入った。






































時雨亭付近


















蓮地庭の瓢池付近


















瓢池にある日暮橋は危険なため渡り禁止となっている。












































夕顔亭


















黄門橋(石橋)も渡り禁止となっていた。


















噴水は、いつものように上がっている。

























「霞ヶ池」
































「月見灯篭」付近


















「眺望台」付近
















2023年12月24日日曜日

小松の近代化の遺構(4)こまつの社 小松博物館

 小松の近代化の遺構(3)遊泉寺銅山跡の続きで、その後また小松駅の方に戻り、駅前にある世界で活躍するコマツの旧小松工場の跡地を改修した「こまつの社」に行った。



















まず小松市にあったコマツの古い本社の建物を復元した「わくわく小松館」に入った。ここでは、建設機械・産業機械のジオラマの展示や映像を見せてもらった。
















外には、アメリカで製造された、高さ7.3mの巨大なダンプトラック(930E)が展示され、階段が付いていて運転席まで上がってみることができる。


















長大型の油圧ショベール(PC4000)も展示されていた。これらは現在は国内というよりは海外で活躍してるらしい。


















続いてその近くにある「小松博物館」に入った。
まず創業者の「竹内明太郎」についての紹介がなされていた。江戸末期の1860(万延元)年に、今の高知県で生まれた明太郎は、戦後に首相を務めた「吉田茂」の兄にあたるという。20代から北海道や九州など日本各地で鉱山会社の経営などをやっていたが、1900(明治33)年にパリ万博の視察で、進んだ機械技術を目のあたりにしてショックを受け、「工業を発展させずして、国家の発展はない」という信念が生まれたという。九州で鉱山用機械を作る会社を立ち上げた後、石川県の小松に1917(大正6)年に小松鉄工所を設けた。

小松鉄工所本社(?)の建物のロゴ入りの鬼瓦


















そして技術者をヨーロッパやアメリカに派遣し、技術を習得させた。また理工科の設置を計画していた早稲田大学に実験室の建設や優秀な指導者を集め、理工科設置のために私財をなげうち、人脈も大いに活用した。その後も将来を見据えて人材を育成に努めた。
そして小松鉄工所を独立させ、小松製作所として創業したのは1921(大正10)年である。第一次世界大戦による軍事需要がなくなり、関東大震災などの影響により景気が悪くなり、明太郎も各地の鉱山を閉鎖する事態になった。大震災後の復興需要として鉄道やトラックの車両製造に鋳鋼が使われ、コマツでも鋳鋼製造が伸びたが、会社の経営はきびしくなり、明太郎は私財をなげうって会社を支えたが、1928(昭和3)年に68歳で生涯を閉じたという。
その後、日本では開墾用にトラクターを使い始めたが、当初はアメリカから輸入していたが、1931(昭和6)年にコマツは商品化に成功した。
時代が戦争を向っていく中にコマツは軍隊からブルトーザの開発を要請され、それをきっかけにG40トラクターをもとにしたブルトーザを製造した。これが国産ブルトーザの元祖となった。







戦後は、厳しい状態が続き、従業員1万人解雇したが、政府より食糧の生産を増やす計画が発表され、開墾用のトラクターを作るようにコマツに伝え、解雇した従業員を再雇用し、石川県の粟津工場で製造が始まった。
しかし戦後のコマツは、様々な試練に直面した。トラクターの生産の突然の打ち切りや大労働争議、そして1961(昭和36)年には、世界最大のアメリカのキャタピラー社(CAT)が日本市場に進出し、三菱重工と協力し「キャタピラー三菱」を立ち上げ、熾烈な戦いのはじまりとなった。
2013(平成25)年の粟津工場
この危機管理の中で、コマツはCATに立ち向かう作戦を立て、工場全体でQCによる品質管理対策を立て、主力のブルトーザをはじめとして、社員一人一人がQC活動の研修を受け、会社全体として大きな力となり、コマツのQCは産業業界の伝説となった。
様々な対策を経験した結果、アメリカに逆上陸するなど世界のコマツに挑戦した。その背景には、ブルドーザー、油圧ショベル、ホイールローダーなど豊富な品ぞろえで、QCで積み上げた品質のこだわりがあった。
QC活動の風景


2001年(平成13)年から社長6年、会長6年間やった「坂根正弘」は、私も講演を聞いたことあるが、「ダントツ商品」を開発するプロジェクトを作った。つまり他社が数年かけても追いつけないほどの技術的優位さを持つ建設機械を開発するということだった。そういう中で、ハイブリッド建設機械やICT技術を使った無人ダンプトラックなどのヒット商品が生まれた。


ハイブリッド建設機械は、排気ガス規制に対応するだけでなく、研究者たちは積極的に二酸化炭素の削減に挑んだ製品を開発した。















またコマツはGPSとインターネットを利用して、建設機械がどこで働いているかの情報を管理者がつかめる技術を開発した。これは「坂根社長」の講演の中でも聞いたが、社長室にICT技術を利用したディスプレイが置かれていて、社長室から即座に指示を出していたと言っていたのを記憶している。


















地元から世界に出たこのコマツの発展を私も大いに期待している。

2023年12月19日火曜日

小松の近代化の遺構(3)遊泉寺銅山跡

 小松の近代化の遺構(2)尾小屋鉄道を見た後、小松駅付近に戻り「イオンモール新小松」に入って昼食をとった。その後にバスに乗って、「游泉寺銅山跡」に行った。ここは、小松市の「ゴルフクラブ ツイーンフィールズ」近くになる。

今は、静かな山間の公園としてきれいに整備され、昔の銅山の遺構が見ることができる。



















游泉寺銅山 1916(大正5)年 建物配置図












公園内に入るとすぐに、ここの由来が刻まれた游泉寺銅山跡記念碑が建てられていた。

游泉寺銅山は、1807(文化4)年に創業。藩政期に試掘があったが、当時は藩の有力な財源であった。明治期に入り一時は官営の銅山であったが、1872(明治5)年に民間に払い下げらたのち、土佐出身の実業家で佐賀県の炭鉱を経営していた「竹内綱」が游泉寺銅山を買収した。そしてその長男で吉谷炭鉱の実質経営者であった「竹内明太郎」が鉱山経営にあたった。「竹内明太郎」は、電力を賄うために鳥越村で神子清水発電所を建設したほか、画期的な欧米の最新技術を導入し、その経営は順調に進み、大正の初めのころをピークに銅の生産量をあげていき、1916(大正5)年には千人近くが鉱山で働いていた。そそて1907(明治40)年には、北陸鉄道小松駅と游泉寺を結ぶ専用鉄道も開通し、游泉寺銅は巨大な鉱山街として賑わった。


一方、機械工業の重要性にも着目した「竹内明太郎」は、1917(大正6)年に自家用工作機械や鉱山機械の製作を目的として、鉱山経営を行う竹内鉱業株式会社の傘下に小松鉄工所を設立。事務所を鉱山専用鉄道の小松駅側の起点にあった遊泉寺銅山跡小松出張所に構え、それに隣接して工場を3棟を建てた。見習生養成所を小松鉄工所に敷設し、技能者を育てるなど育成にも力を注ぎ、高い工業力を蓄えていった。
大正期中期になると、第一次大戦後の不況で、遊泉寺銅山跡は経営危機に直面し、1920(大正9)年に閉山した。一方、小松鉄工所も不況の影響を受けたが、大正10年に銅山を経営していた竹内鉱業株式会社から分離独立して小松製作所となり、現在の世界的建機メーカーのコマツへと発展した。
初代コマツの社長である「竹内明太郎」の銅像


















近くに洒落たレンガ造りの建物は「里山みらい館」で無料休憩所で、中では古写真や解説パネルなどが展示されている。建物は北欧スタイルの「袴腰屋根」と呼ばれる屋根の形状で、ステンドグラスの窓が付いている。


















この辺り一帯は市街・住宅地が続く「遊泉寺銅山通り」と呼ばれていた。写真は遊泉寺銅山を物語る遺構の一つで、レンガ造りの炉跡である。


緩やかな通りの片側には杉林、もう一方には小川が流れている。散歩コースとしても気持ちの良いところである。この辺りに小松駅と遊泉寺銅山を結ぶ銅山専用鉄道の駅があったという。


















この先には行かなかったが、奥に「巨大煙突」や「竪坑跡」などの遺構が見られる。








「パンフレット」より
















「パンフレット」より















山元ホーム(遊泉寺銅山専用鉄道 銅山側起点)
『石川県案内』(明治45年4月)発行より


















遊泉寺銅山 選鉱場・精錬所など
『能美郡案内』(大正7年11月発行)より