2018年7月30日月曜日

金沢の近代建築(2)旧第四高等学校、金沢市役所

金沢の近代建築(2)の続きで、次に香林坊交差点近くの広阪通りに面して、こんもりと木々に覆われた煉瓦造りの建物は、現在は「金沢近代文芸館」となっているが、かっては旧第四高等学校で金沢学都のシンボルであった。建物は総2階建てで、中央に正面があり、裏側に廊下そしてその手前に管理室や教室があり、左右対称の建物となっている。また、この建物の裏側は、現在公園となっているが、かっては様々な教室や寮、体操場など多くの木造建築が並んでいた。その一部であった階段教室と武道場は現在明治村(愛知県)に移築保存されている。



















外観の煉瓦は丹念に積み上げられ、装飾などはない。軒蛇腹部分と同蛇腹部分には白いストリングコースが走り、アクセントとなっている。また、2階アーチ窓の上部にキーストン(要石)風の白と茶色の煉瓦を交互に並べられている。屋根の上には四角の煉瓦造りの暖炉の煙突(?)と先端が尖った数本のポール上のものがあったのはどんなものなのか?



















この建物の設計者は山口半六と久留正道のコンビで、一高をはじめとして、いわゆるナンバースクールの建築を手掛け、この四高の建物は明治24年に竣工している。現在は、この四高と五高(熊本)だけが残っているという。この建物は明治中期以降の学校建築の源流を示す貴重な遺構であるという。



















「くらしの博物館」に展示されていた写真の中で「石川県立高等女学校」と「七尾中学校」はいずれも明治30~40年代に建てられたが、旧第四高等学校と少し似た立派な校舎に見える。「石川県立高等女学校」は「第一高等女学校」になり、現在の「二水高校」である。戦前には石川県内にも洒落た校舎がいくつもあったようだ。
























下の写真は「旧石川県七尾中学校」そして小松にも「旧石川県立第四中学校」があり、現在の小松高校の近くに、旧の建物の玄関付近だけが残っているという。
























下の写真は弥生にあった「旧石川男子師範学校」である。現在この地には「泉中学校」と「泉小学校」がある。















下の写真は「旧石川県立金沢病院」で、明治38年に小立野に当時としては全国屈指の大病院であったという。
















「旧第四高等学校」の建物の斜め向かいには「金沢市役所」の建物がある。現在の建物は昭和56年に竣工しているからもうそろそろ40年近くになる。今もよく利用しているところだ。



















さらにその前の旧金沢市役所の建物は、木骨レンガ造りのルネサンス・スタイルのしゃれた雰囲気を与えていた。大正11年に竣工した建物で、設計者は四高出身の「片岡安」だが、この人は東京駅などで有名な「辰野金吾」などと、あちこちの建物を手掛けた人だ。後に9代金沢市長になっている人である。この建物は私が学生時代まで金沢にいた時にあった建物で非常になじみが深い。

2018年7月25日水曜日

金沢の近代建築(1)尾山神社神門

旧二中の「三尖塔校舎」を見た後「暮らしの博物館」の中で、「金沢の近代建築史」という題で、金沢工業大学の竺 寛暁教授から講義をうけた。
幕末から日本は西洋建築を受容したが、、その当時の西洋建築は、様式折衷主義建築で、古代ギリシャ、ローマからバロック、ロココにいたる様々な様式が混在していた。その後に明治末期から様式折衷を脱して、機能に基づく新しいデザイン、いわゆるモダニズム建築を受容しているが、これらを総称して近代建築と呼ぶという。



















金沢の近代建築の走りとなったものが「尾山神社の神門」である。(その前に、今の山崎山付近に西洋建築としてデッケン館があるが)
この神門は、当時区長をであった長谷川準也(のちに2代金沢市長)が、明治以降に侍がいなくなり、金沢の町が衰退したため「金沢再生」の願いを込めて、「永代にわたって荘厳さを失わない堅牢な神門を建てたい」ということで、かねてより腕を見込んでいた大工棟梁・津田吉之助に設計を依頼した。吉之助は富岡製糸場や工部省製糸試験場などを見学した後、1か月で「下絵」を作った。







「金沢市立玉川図書館蔵」
















この神門は、三層楼門の外観をとり、和洋中混合のあたかも竜宮を思わせる変わった様相の姿をしている。
























全体は木造の架構によって支持され、最下層の梅鉢紋を付けた三個の色の戸室石をアーチ状に積み重ね稚拙ながら洋風の技法を取り入れている。すなわち内部は木造で表面が石貼りである。



















第二層と第三層は壁体は銅板葺とし、勾欄を廻している。第三層の大きな窓には五色のステンドグラスを入れ、かっては、遠く金石沖の海上を行き交う舟のための、灯台の役割をしていたといわれる。さらに上には、日本で最初だったといわれる避雷針がついているが、その当時の最先端の技術も取り入れている。
























下の写真は明治30年ごろの尾山神社の神門付近の様子で、まだ、周りには建物が少なかったので、金石沖の船からもよく見えただろう。細くなっているが西内惣構堀の遺稿がまだ残っている。



















その内部は欅の円柱や門扉の欄間は、伝統的な和風の手法も取り込んでいる。
この建物は伝統的な和風技法で洋風をつくることのよって生ずる意匠を擬洋風建築と呼ばれている。



















石積みの下地には煉瓦が積まれ、白漆喰の壁で包まれている。この煉瓦の使用は、石川県内では最も早い例であるという。金沢市立玉川図書館の残されている神門計画図には明確に描かれている。現在も拝殿周辺の玉垣に残っている。この煉瓦を焼いたのは旧加賀藩士岸市之亟といわれる。



















煉瓦の積み方には数の4種類があり、ここの玉垣は「ストレチャーボンド(長手)式である。後日、金沢のいろいろな積み方の建物を紹介する。
また、この異色の神門は、今新幹線効果で賑わっている金沢の名所の一つとなっている。





講座資料より



2018年7月21日土曜日

旧二中 三尖塔校舎

今回は、開館40周年特別展で「旧二中 三尖塔校舎」の講演があるということで、飛梅町にある「くらしの博物館」に行った。



















この建物は、1899(明治32)年に建てられ、「 三尖塔校舎」の愛称で親しまれてきた。当時の姿をよく残していることで平成29年に国重要文化財に指定された。「三尖塔」の由来は、二つの尖塔と中央の三角形を強調した意匠からだという。この中央の屋根には避雷針も設けられている。
屋根には小さな切妻屋根が20か所も設けられ、屋根の意匠にポイントを付けている。



















後部から見た「三尖塔校舎」で両側の建物が少し長く延びている。建物の基礎はレンガ積みで、建設当初のものである。隅石や換気口は笏谷石を積んでアクセントを付けている。レンガの積み方は第四高等学校本館と同じ積み方という。



















 2階の屋根の下の支え板にも文様の透かし彫りになっており、隠れたところも凝っている。



















校舎内の階段の手すりの透かし彫りと彫刻



















廊下の扉や窓、天井 も明治の建物の面影をよく残している。
























上から見た「 三尖塔校舎」



















この「三尖塔校舎」の設計者はで「山口孝吉」は、鹿児島県生まれで明治30年に東京帝国大学工科大学を卒業し、すぐに石川県の建築事務として着任し、32年に石川県を退職している。その後の作品として、東京大学本郷正門や築地本願寺は他の人と共同設計とされており、東京大学理学部化学東館は、関東大震災以前に建設されたもので、東京大学本郷キャンパス内では最古の建築校舎であるという。石川県在任中は、第三中学校、第四中学校も同時に設計、工事監理を行っている。東京帝国大学工科大学を卒業した同期生には、金沢市出身の建築家であり、1922(大正11)年に金沢市庁舎を設計し、その後金沢市長となった「片岡 安」もいる。
























平成26年に建築当初の設計図面3枚が発見された。「Designed by K.Yamaguchi」のサインが鉛筆で描かれており、「山口」姓のハンコも押印されていたという。



















この「三尖塔校舎」の横に現在の「紫錦台中学校」の校舎と記念碑がある。。















2018年7月17日火曜日

安土城跡(3)

安土城(2)の続きで、さらに上がると、ようやく天主台に着いた。石垣で囲まれた四角の中には礎石といわれる平たい大きな石が並べられていた。ここにあの雄大な城があったのかと思うと感慨深いものがある。



















ここは、完成してからわずか3年後の1582(天正10)年に焼失してしまって、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれていたが、調査の手が入ったのは1940(昭和15)年のことで、往時そのままの礎石が見事に表れたという。記録から地上6階、地下1階の当時としては傑出した高層の大建築物で、その高さは46mの壮大で絢爛豪華なものであったという。現在の部分は地下1階の場所で、実際にはこの2倍以上の広さはあったのではということである。
























安土山は標高199mで、天守台付近から見える東側の部分は、信長が作った楽市楽座(城下に集まる者への自由な商売許可)や家臣や将兵を住まわせ、用事があればすぐに呼び出せる体制の城下町があった。また北陸、東海、京を結ぶ要衝でもあり、行き交う人たちも多かった。



















かって安土山は琵琶湖に突き出た半島だったという。その後、周辺が埋め立てられ今は、少し離れたところに琵琶湖が見える。琵琶湖の向こう側には、この写真のさらに左側に比叡山も見えるはずだ。



















天守台を後にして、摠見寺本堂址に行った。ここからは、琵琶湖の入江だった「西の湖」が近くに見える。琵琶湖から「西の湖」まで船できて、ここから安土城まで物資を運んだといわれる。

































以前あった「摠見寺跡」付近には三重塔がある。現存する建造物で、焼失した本堂とともに信長が滋賀県下の大寺院から移築したもので、宗教勢力を支配下に入れた見せしめに並べたとされている。(今回は改修中でカバーが掛かって見れなかった)























「名城へ行く 安土城」より














ここで、「安土城天守」がどんなものであったかを見る。下図は昭和22年に描かれたという絵図であるが、何とすばらしい城であったかがうかがえる。5階は朱色の八角形で最上階は金色の四角形である。内部は狩野永徳などが描いたという華麗な障壁画が飾られ、当時の建築技術の限りを尽くしたものである。信長が起居した場所であり、客人を迎える場でもあった。その権威を城内にも示す必要があったという。






「名城へ行く 安土城」より












「安土城天主信長の館」に展示されている地上5階と6階部分の実物大の復元された「安土城天主」は、スペイン・セビリア万博に出品された後、ここに展示されたという。
この復元に使った金沢金箔10万枚と上塗り用の漆150㎏が使われたという。この復元天主はカメラ禁止だった。






「名城へ行く 安土城」より

















1582年「本能寺の変」後、半年足らずのち築城以来3年で謎の火災で安土城は消失し、長年の間その外観、構造は解明されず「幻の名城」と呼ばれてきたが、近年になり加賀藩お抱え大工に伝わる「天主指図」が発見され、元愛知産業大学学長 内藤昌氏により「信長記」、「信長公記」などの史料との照合によや安土城・実測調査の結果「安土城」であることが判明したという。
「安土城考古博物館」には「信長公記」に基づいた安土城の中の構造が分かる1/20のサイズのものがあり、中央は4階(地下1階含む)まで「吹き抜けの空間」になっており、足利義満の金閣寺に類似しているという。



2018年7月13日金曜日

安土城跡(2)

安土城(1)の続きで、「大手道」をさらに上に上がると、ようやく曲がりくねった階段になった。階段の高さが高いところもありあり、ここまで上がると息が上がってきた。










































傍らには井戸跡があり、生活するためにはどうしても水が必要であるので、他にも井戸があったはずだ。また、ため池を作って、ためた水を使用することもあっただろう。



















天主への道と通用口である百々橋口道の合流点という位置するのが織田信忠邸跡がある。織田信忠は、織田信長の長男で、織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となった信長の後継者で、甲州征伐では、総大将を務めているという。



















安土城の中枢部に入る入り口に黒鉄門がある。それまでの中世城郭には見られない石垣の升形虎口となっている。ここらあたりの石垣は、さらに大きいものになっている。これより先は、信長より選ばれた側近たちと生活を送っていたという。





































信長が築いたという石垣は天主台と二の丸虎口付近により残っている。角部分はまだ算木積みが十分ではない。
























室町中期の「仏足石」があり、下の方で見た「仏石」と同様に築城当時に集められた石で、この石の上には仏の足の模様が刻まれている。この「仏足石」はお釈迦さんの足跡を表現したもので、古代インドでは仏像に先駆けて崇拝されていたものと同じだという。



















天主跡の西下の伝二の丸跡に信長公の御廟がある。羽柴秀吉が天正11年1月に三法師に年賀を表すべき登城し、次の年の2月に信長ゆかりの太刀、烏帽子などの遺品を埋葬し、本廟とした。



















御廟の門瓦の先端には、織田信長の紋「五つの木瓜」が記されていた。



















安土城の天主台見たさに老体に鞭打って、さらに石段を上に上がる。