2014年7月29日火曜日

東北地方南部ドライブ(4)石巻、松島

次の日、仙台から石巻に行った。(5月27日)石巻は3年前の東日本大震災で大津波などで大きな被害を受けたが、その後どうなっているかと思い見に行った。
石巻駅を通り、海沿い方面に行くと石巻漁港付近に着いた。この付近は津波にあったようで、家はほとんどなく基礎ブロックだけが所々残っていた。ぽつんと家が残っているところがあったが、ほとんど壊れているようであった。




















まだ建てて年月が経ってないと思われる地蔵があり、花が供えられていた。




















プールの向こうのカバーがかかった衝立の後の建物は、近くのバス停の標識に「○○小学校前」とあったので小学校なのであろう。ここに通っていた子供たちはどうしているのだろうか?心悼む思いである。




















この後、石巻商店街を通るとかなり復興しているように見えたが、実際のところはどうであろうか?

次に、松尾芭蕉も讃えた日本三景の一つの「松島」に行った。ここは伊達政宗も愛した景勝地であり、大震災による津波にも湾内に点在する島々によって壊滅的な被害は避けられたという。




















すぐに松島桟橋に行き、出発時刻ぎりぎりだったので走って遊覧船「仁王丸」に載った。ここの湾内には200を超える大小さまざまな島々が広がっている。




















所要時間50分で。島々をぬうように走り、それぞれの島には名前が付いている。
形が鯨と亀に似ていることから「双子島」と呼ばれる島




















島の4つの穴に打ち寄せる波の音が鐘に似ていることから「鐘島」




















帽子をがぶっている仁王像に見えるから「仁王島」








































遊覧船を降りると、おいしそうな牡蠣と焼き鳥を焼いていたので、買ってその場で食べた。牡蠣とアナゴが名物というが、去年に行った「宮島」と似ている。




















昼飯は近くの蕎麦屋に入って、蕎麦とこの辺の名物「牛タン丼」を食べた。




















続いて、すぐ近くにある「瑞厳寺」に行った。ここは桃山文化の粋を尽くした奥州屈指の古刹である。天長5年(828)年に慈覚大師が開山し、慶長14(1609)年に正宗が5年の歳月をかけて再建したという。総門をくぐると両側に高い杉木立が続いた。




















この通路の横には「西国三十三観音菩薩」が立て札と共に並んでいた。わざわざ遠くの関西に巡礼に行かなくともここでお参りできるようにということらしい。




















国宝の庫裡(くり)は禅宗の台所で、大屋根の上に煙出しが載っている。




















もうひとつの国宝の本堂は修理中で残念ながら入れなかったが、仮本堂には本来本堂にあるご本尊、大位牌などが見ることができた。




















































本堂にある襖絵は本来のものをデジカメで模写したものでピカピカに光っていた。




















次に向かいにある海沿いの「観欄亭」に入った。ここは、歴代藩主愛用の茶室で、正宗が秀吉から拝領した伏見城の茶室を2代藩主忠秀が松島に移築したと伝えられている。




















松島の絶景を眺めながらひと休みし、抹茶と和菓子をいただいた。








































続いて、橋を渡って「五大堂」に行った。ここも正宗が再建した桃山時代の建築だという。
慈覚大師が延福寺を開いた際に五大明王像を安置したことから「五大堂」と呼ばれるようになったという。




















近くに東日本大震災の記念慰霊碑が建っていた。こんな海の近くに建っているのにこの辺の古い貴重な建物などは被害が少なかったのは、やはり湾内に島々が多くあり、津波が弱くなったのであろう。




















この近くの狭い範囲のところに集中して国宝級の古い建物などが多くあるのは、やはりここの美しい景色のところに建てようとした正宗などの思いが伝わってくる。


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2014年7月23日水曜日

東北地方南部ドライブ(3)裏磐梯、仙台

東北地方南部ドライブ(2)の続きで、会津若松から次の日に磐梯山ゴールドラインを通った。道路の途中にビュースポットがあり、磐梯山と猪苗代湖が見えるということで車を止めて見たが、曇っていていずれも見えなかった。




















そういえば、社会人になった1年目の冬に、茨城県の工場に勤務していた時に、そこから会社の先輩たちと猪苗代スキー場に来てスキーで滑った。後ろを見ると磐梯山がそびえ、前の猪苗代湖に向かって滑ったあの雄大な景色は今でも忘れない。
五色沼の散策路に着きここを歩くことにした。五色沼は天候や時間帯、見る角度によって色を変える美しい沼が点在している。こういうきれいな緑の木々の中を歩くのは気持ちが良い。




















「柳沼」を見ながらベンチで一服していると、隣におじさんが座ったので話しかけた。
東京から2泊3日で、ひとりで新幹線とバスを乗り継いできたという。少し足が悪いようだったが、「昔、ここへ来て非常によかったのでまた来た。こういう自然を見るのが好きだ。」と言っていた。




















次の「青沼」は名前の通りきれいな青色をした水面で、沼とはとても思えないほどの美しさだ。




















その隣の「るり湖」からはお目当ての磐梯山が見えた。




















「毘沙門沼」は五色沼の中で一番広く、水面もきれいでここからはやはり磐梯山も見え展望台もあるのでので人が一番多く集まっていた。




















五色沼で予定よりゆっくりしてしまったので、すぐに仙台の方に向かった。
仙台は見所がたくさんあるが、その中で歴史上の観光地を巡った。
まず「大崎八幡宮」に行った。ここは、伊達政宗が岩出山城内に祀っていたご神体を仙台開府のときに遷し、豊臣秀吉に仕えていた工巧を招いて造営したという。社殿は安土桃山時代の遺稿として国宝に指定されている。




















総黒漆塗りに極彩色の彫刻や金彩文様が施された、きらびやかな社殿である。




















社殿の横には仙台を本拠地としているプロ野球の「楽天イーングルス」の選手の名前を連ねた大きな必勝祈願絵馬が飾られていた。去年は日本シリーズにも勝って優勝したが今年はどうであろうか。星野監督が持病の腰痛が悪化し休養しているが、仙台市民にとっては気になるところであろう。




















続いて、青葉山の仙台城址公園に行った。ここに宮城県護国神社があった。明治維新以降の戦役の宮城県関係者の戦死、殉職者が祀られている。ここの社殿も立派なものであった。




















その横の建物の中に「戦艦大和」など大日本帝国海軍の軍艦や戦闘機の模型が展示されていた。




















また、伊達政宗騎馬像ががあったが、像には遺言に従って両目が入れられている。その他、戦災が激しかったのか城の面影は何もなかった。




















ここの見晴らしからは100万都市仙台市街地が一望でるが、少し曇っていてよく見えなかった。




















次に伊達政宗の霊屋に行った。
正宗は米沢城でで生まれ、東北南部を中心に平定し。「独眼流正宗」の異名はあまりにも有名である。江戸時代には62万石の藩祖として、この地域の産業、経済。文化の振興を図った。
「瑞凰殿」は1636(寛永13)年に70歳で生涯を閉じた。その遺命により翌年造営された霊屋(墓所)である。




















桃山様式の貴風を伝える豪華絢爛な廟建築として国宝に指定されたが、1945年の戦災で消失した。現在のものは1979(昭和54)年に再建されたものという。柱には彫刻獅子頭、屋根には竜頭瓦となっている。




















ここの資料館には、空襲で消失した後に行われた発掘調査で遺骨や武具、文具など発見された貴重なものが展示されている。
感仙殿は2代藩主の伊達忠宗公のもの、善応殿は3代藩主出て綱宗公の霊屋で、いずれも鮮やかな色彩の廟でこんな立派なものは加賀藩にはない。









































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2014年7月18日金曜日

寺町寺院群 鶴来街道入口(3)

前回の続きで、国泰寺の前を左に曲がると、グーンと広くなった道に出て開けた感じになっている。
ここは「六斗の広見」と呼ばれ、藩政時代に火事の際に延焼を防ぐための町づくりの一つとして作られた。金沢に何ヶ所かある広見の中でも最も広い。この辺は寺が多く道が狭いところが多いので、この広さは異様に感じるであろう。




















六斗の広見沿いに「泉野菅原神社」と「玉泉寺」がある。




















「玉泉寺」は、2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の位牌所であり、父の織田信長を祀っていた。藩政期は現在の「玉泉寺」、「泉野菅原神社」、「旧野町小学校」となっている広大な敷地で、あの瑞龍寺(高岡市)を造った名工の山上善右衛門が手がけた大伽藍があったが、1871(明治4)の火災で焼失してから再建されていないという。




















現在はプレハブのような建物が残っているだけで、境内も荒れ果てているようだった。裏に幕末にフランスに留学し、マッチ製造で有名な「清水誠」の墓があった。奥には五輪の塔の「玉泉院」の供養塔と思われるものがあった。




















六斗の広見を右の曲がると曹洞宗の「玉龍寺」があるが、ここは前田利家の長女の幸姫の婿の前田長種の菩提寺である。長種は従五位下対馬守に任ぜられていて、大手町に前田対馬家の屋敷があった。




















現在は、「野町保育園」が横に併設されていて、境内いっぱいに子供たちが遊べるようにアンパンマン、どらえもんや乗り物があった。























お寺としての仕事よりも、保育園の方に力を入れているように見えた。

続いて「月照寺」がある。ここは前田利家の長女幸姫(春柱院)の菩提寺で、3代利常より寺地が加増され大伽藍を建立したが、六斗の大火で類焼した。現在の建物は前田家の一部を移転して再建されたという。




















寺の山門前や中に石仏がたくさん並んでいたが、これは卯辰山の33体と鶴来街道の33体の観音仏を集め安置したものであるという。




















また、明治時代の初期に失業士族を集め、政治結社「盈進社」を結成し、士族の救済を図ろうとした「遠藤秀景」の大きな碑が建っていた。




















また、その先の左側にきれいな蔵と町屋の建物があった。ここは「今川酢造」といって、酢を専門に造り売っているところだ。1923(大正12)創業というから老舗である。
ここの店員に聞くと、建物は金沢工業大学の建築課の先生からアドバイスを受けて、金沢市から助成を受けて150年前の町屋を改造したという。




















蔵の中にギャラリーがあり、いろいろな酢の商品が展示されていた。「米酢」、「カニ酢」、「ゆず酢」などあったが「ブルーベリー酢」を買った。家で「ヨーグルト」や「焼酎」に入れて飲もうと思っている。




















また少し歩くと、右側に加賀八家のひとつの「長家」の菩提寺の「開禅寺」がある。




















ここの境内に濃い緑色の苔がきれいに生えていた。





















次に、これもまた古い150年前の建物の中で作っている「かぶら寿司」や「漬物」で有名な「四十万屋本舗」があったので入った。




















ここは明治8年創業で、当初は味噌、醤油などを手がけていたが、時代の流れで金沢の家々に伝わる味を手本として「かぶら寿司」や「金城漬」などの漬物を作って売っているという。




















この日は大変暑い日だったので、店で売っていた「加賀いり茶のジェラート」を買って、店で一服して食べた。




















家の中の天井を見上げると、大きな柱やはりが何本もはられていた。昔の大きな家の作り方はさすがすごいと思った。




















重厚そうな箪笥が置いてあったが、これに大事なものを保管し、火事などがあったときにすばやくに持ち出せるように荷車に載せられるようになっているもので、明治・大正のころのものだという。




















冬には自在鉤が吊るしてあった下の畳敷きのところで、近所の人などを集めて「かぶら寿司」教室で造り方を教えているという。




















ここの旧鶴来街道沿いは人通りが少ないが、金沢の名店街の中のめいてつエムザ、アトリオや百番街にも店を出している。

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