2015年9月29日火曜日

小矢部アウトレット

シルバーウィークの最後の日に、家内と北陸に初めてという7月にできたばかりの「小矢部アウトレット」へ、どんな所か一度見たいと思い行ってきた。
私の車のナビは、高速道路を通っていっても、国道から行っても同じ時間かかると表示されていたので、国道8号線で行ったところ、45分くらいで着いてしまった。意外と近いのだと思った。




















これまで私はアウトレットには、数年前に岐阜県をドライブした時にできたばかりの「土岐アウトレット」や東京にドライブした時に「入間アウトレット」や「軽井沢アウトレット」に立ち寄ったことがある。いずれも大都会や人気の町近くの郊外にあるが、この「小矢部アウトレット」は人口が割と少ない北陸の郊外に初めての登場である。




















シルバーウィークということもあって、午前中の早いうちから既に人がたくさんいた。
「フロアガイド」をみたが、どこの店もカタカナ文字で何の店かさっぱり分からない。ただ歩いて店内を覗くしかない。




















「小矢部アウトレット」は全国に多くのモールを出している「三井系列」のアウトレットで、他のモールに比べて規模が小さいということであるが、1階と2階に店が立ち並び、とてもすべてを周るわけには行かない。
やはりさすが若い人がほとんどであるが、家族連れのなかにシニアの人もちらほらいた。




















混むと思い早めに午前11時30分ごろ「フードコート」(レストラン街)に行ったが、既に行列ができていた。周りに食べ物の店が立ち並び、中央のテーブル席で食べるという風になっているが、メニューを注文するにはすごい行列で、席をとるのも空いた席を競争して取らなければならない。大変苦労してやっとラーメンと餃子を食べることができた。




















子供服の店に入り、孫二人が10月生まれであるので誕生祝にということで、6点の子供服を買ったら割りとリーズナブルであった。自分のものを買うつもりがなかったが、メンズショップの店員のうまい勧めにのってダウンベストを買ってしまった。いつも上着はMサイズであるが、どこの国製のものか分からないがSサイズでちょうどよかった。




















帰りに「スターバックス」の隣にあった「ゴディバ」という店で長い行列に並んで、「ホワイトチョコ○○」という飲み物を買い、外のテーブル席に座って一服しながら飲んだ。コーヒーかお茶しか飲まない私にとってはなんともいえないおいしい味であった。




2015年9月24日木曜日

金沢城の石垣(1) 自然石積み 辰巳櫓付近

今回は、金沢城の石垣について見てきたので紹介します。
金沢城の石垣は前田利家が入場してから明治維新まで、いろいろなタイプの石垣が作られたので「石垣の博物館」といわれ、いろいろな石垣の積み方を楽しむことができる。どうしても城の建物に目が行きがちだが、石垣にスポットを当てて注意深く見るのも面白い。




















下図は今から100年少し前の百間掘りの写真であるが、この頃までは堀に水が満々とあり、現在の金沢人が見ても驚きの写真である。




















百間掘り側の石垣は、文禄元年に前田利家は豊臣秀吉の命で征韓軍に加わり名護屋(佐賀県)にいた時に、金沢の尾山城の留守を預かっていた長子利長が利家から指示を受けて、ここの高石垣の改造をおこなっている。




















しかし、ここの下から上部までの高石垣の工事は難航を極め断念してしまった。それで、前田利家は普請の高い技術を持っている「篠原出羽守」に任した。「篠原出羽守」は、小段(犬走り)を付けた2段の石垣を完成させた。利長は2段の石垣を作るのなら簡単にできたと地団駄を踏んだという。
「篠原出羽守」は、後に利常の命を受けて「外惣構掘」を作った人である。




















その後、元和期に3段目が積まれたようで、明治になって補修されたらしい。「篠原出羽守」が積んだ石垣は「自然石積み」といって、石切り場から採集した自然のままの石材を積み上げたもので、通常は「野面積み」と呼ばれる。




















百間掘りの高石垣は高い位置にありちょっと見づらいが、「自然石積み」の代表的なものは、丑寅櫓下の東の丸北面の石垣のところははっきり分かる。




















「文禄石垣」は隙間だらけで、石と石の間に大きな間詰石が入っていて、無操作に作られた印象があるが、排水がよく、構造的にも安定していていという。400年経った現在でもその雄姿を保っている。壊れそうで壊れない強さを持っている。




















辰巳櫓の下は現在4段の石垣になっているが、江戸時代は上から下まで一つの高石垣だった。明治の頃に金沢城内に入っていた陸軍が手を加えたことより取り壊されてしまったという。明治40年頃の写真を見るとその様子が伺える。




















現在の4段の石垣の下から2番目の石垣が上まであった高石垣だったという。その上に辰巳櫓があったので、現在の空中上にあったことになる。ここの辰巳櫓を再現するには石垣から作らなければならない。




















辰巳櫓の左側部分は、現在下から2番目の石垣の高さしかないが、以前は一番高い所までずっと石垣があったという。ここは慶長年間に作られたので「慶長石垣」と呼ばれている。2代前田利長が藩主をしていた頃になる。
慶長石垣の特徴は築石部分が割石中心になっている。割石は自然石を矢で割っただけの石であり、自然石の野性味も残したままのものであるという。




















角石は元禄石垣も割石を使って既に「算木積み」になっていたが、さらに慶長石垣では、この「算木積み」が発達し、直方体の大型石垣を上下交互に積み上げ、最初はゆるい勾配とし、上に行くに従い勾配がきつくなる。











「よみがえる金沢城」より








ここの本丸南面石垣の前には、「切石」や「角石」などの説明書きやサンプルの石などが置いてあった。





























































2015年9月19日土曜日

加賀本多博物館 本多水族館

「石川県立歴史博物館」の建物と並んでいる「加賀本多博物館」に行った。




















今回は、ここで「加賀藩御用絵師 6代梅田九栄が描いた二つの魚図集」という題で講演会があるということで、本多水族館とはどんな話なのかと思って来た。講師は京都大学名誉教授の中坊徹次先生です。


























江戸時代の加賀藩御用絵師 6代梅田九栄の魚絵図は11代藩主治脩の命よって越中の魚津に行って描かれたものである(1783~84年)。その背景にあるのは、5代藩主綱紀が本草学者である稲生若水によって動植物・鉱物などを分類、編集した「庶物類纂」を手がけたが、後に徳川吉宗に引き継がれ、内山覚仲によって日本各地の動植物、鉱物、農作物が調査、記録された。これが江戸中期の各藩の博物学流行の火付けとなり、加賀藩では魚絵図が描かれるようになったのではという。




















この絵図は、梅田家が所蔵している「梅田絵図」と本多家が所蔵している「本多絵図」がある。「梅田絵図」は6代梅田九栄が実際の魚を見て描いたもので、「本多絵図」は「梅田絵図」を基に九栄がアトリエで描いたものか、弟子たちが描いたものと思われるという。
「本多絵図」はすべて彩色されているが、「梅田絵図」は一部無彩色のものもあるという。




















ここに描かれている魚はすべて採集時期と場所がはっきりしていて、現代の魚類学から見ても資料として価値があるという。
また、魚はすぐ腐るから鮮度との戦いで、形も色も変わってしまうので魚を描くためには時間がかけられないとともに画家には、短時間での洞察力、描写力、記憶力が必要とされたという。現代の人のように写真があるから、後からゆっくり見て描くわけにはいかない。




















実際に展示されている絵図を見たが、立体的に見え非常にリアルの描かれていて江戸時代の絵図とは思われなかった。また、絵画のことをよく知らない私にとっては、現代は絵の具で簡単に色を出せると思うが、江戸時代はどんな材料で、どうやってその魚とそっくりの色を出していたのかや、また、水深100m以上の魚も描かれているというから、その頃深い所の魚をどうやって獲ったのかなど不思議に思うことがたくさんあった。








































梅田家の初代与兵衛は1649(慶安2)年に江戸で狩野尚信に師事し、狩野家より、口伝と画法を伝授され、延宝年間(1673~81)に金沢に戻ったという。
6代九栄がもっとも有名で、10代藩主重教の肖像画や下図の作品などを残している。また、8代九栄は金沢城二ノ丸御殿に襖絵などを描いている。明治に入って、11代は石川県立工業学校で指導をした。










「ふるさと偉人伝」より

2015年9月14日月曜日

兼六園 茶店通り(江戸町通り) 桂坂 桜ヶ岡 

蓮池門の横の通りには、茶店がたくさん並んでいる。ほとんどが1階はお土産屋に、2階がお食事処になっており、金沢城の石川門や高石垣が眺められる景色のよい場所にある。おみやげは「金沢名産」の地酒や金箔を施した工芸品など数多くある。また、九谷焼の器など専門に売っている店もある。
この「茶店通り」は平成元年に茶店の改築にともなって、埋蔵文化財発掘調査をおこなったところ「江戸町」の遺構が確認されたという。「江戸町」とは、1601(慶長6)年に、後に3代藩主となった前田利常のところへ2代将軍徳川秀忠の娘珠姫(たまひめ)が輿入れ(嫁入り)したときに、江戸からお供してきた大勢の武士たちが、長屋を建てて移り住んだ町並みのことである。








































この日は、早朝の6時ごろのために人はほとんどいなかったが、この兼六園の「桂坂口」は金沢城の石川門につながった所で大勢の人でごった返す所だ。兼六園にはいくつかの入口があるが、ほとんどの観光客はここから兼六園に入る。




















料金所の前は、いつも行列になっているが、門の開くのが午前7時なので、この時間はひっそりしている。この時間は早朝散歩している人だけで、混雑していないので、のんびり見るにはうってつけだ。(蓮池門口、随身坂口は開いている)




















この「桂坂」は門の中の右側の崖際に桂の大木があることからその名前が付いているという。この桂の木は相当の古木のようであるが、春先に葉に先立って小さな赤紫色の花をつける。初夏の新緑、秋の黄葉も美しく、根元から次々と「ひこばえ」が生えてきている。




















この先は「桜ヶ岡」といって、4月上中旬には桜の花が一面に咲き競う場所である。ソメイヨシノをはじめ、コヒガン、エドヒガン、コシノヒガン、オオシマザクラ、サトザクラなどの花が咲き一面桜の園となる。
ここは、藩政期には田んぼで米を作っていて、藩が全国の稲の品種を撒き、どれがおいしいかを調べていたという。




















「桜ヶ岡」の右手の方に百間掘へ下りる坂があるが、これを「不老坂」という。ここの坂に藤棚があるが、この藤の旺盛な成長ぶりからその不老の樹木にあやかって名づけられたという。樹齢は高く、若葉の頃、花房がたわわに垂れるという。




















前回紹介した「蓮池門跡」の多きな石段を登ると正面に幅広い坂道が続く。この坂道を「松濤坂」(しょうとうざか)と言い、松籟(しょうらい)(まつかぜ)を濤(なみ)(大きな波)に例えて坂の名称を付けたと言われている。また、ある書物ではこの坂を表坂とも言い、蓮池門の正面にある坂と言う意味である。シイノキ、モミ、アカマツなどの大樹があり鬱蒼としている。




















石川門から「桂坂門」に上がらないでまっすぐ行くと、お食事処「さくら亭」や軽食の「白鳥」などの店が並んでいて、ランチ時は非常に繁盛している。




















ウィンドーに並べられたメニューを見ると金箔の入った「のどぐろうどん」、「鴨なんばんうどん」、「治
部煮とおさしみ」など郷土料理がたくさんあり、たいへんおいしそうだった。




















2015年9月9日水曜日

兼六園 黄門橋 獅子巌 白龍たん 蓮池門口 


噴水前から右側にせせらぎ沿いに歩いて行くと、「黄門橋」がある。この橋は青戸室石の反り橋で長さが6.2m、幅1.1m、厚さ0.4mのアーチ型の曲線を描いた1枚岩である。桁と橋板を2枚石のように見せているが、実際は1枚板の単調さに工夫がなされ立体感を持たせている。また、台座の中央に直角に据えられるのが通例であるが、ここは大きな台座の端に115度の角度で斜めに取り付けられているのも面白い。





















「黄門橋」という名称は明治になってから付けられたもので、古図によると「石橋」となっている。これは謡曲「石橋」の舞台を想定して千秋万歳を寿ぐこととして作られたものと思われるという。「黄門橋」の名前の由来についてはいくつかの説がある。「黄門」とは「中納言」の「唐名」であるが、この橋を作ったのは、兼六園を最初に「蓮池庭」を造った5代綱紀であるが、「中納言」になった4人の藩主のうちの綱紀に一番近い時代の「利常」の橋として「黄門橋」と名付けたのではないかといわれている。「利常」は庭園作りに非常に貢献した殿様である。(玉泉院丸庭園など)
手取川上流の鳥越村に「黄門橋」があるが、ここの雰囲気と似ているから、その名が付いたともいわれている。いずれにしても、この付近は木々が生い茂り。六勝のうちの「幽邃」、「蒼古」の趣のあるところである。




















「黄門橋」を渡ったすぐ左手に、兼六園の「三要石」の「獅子巌」(ししいわ)がある。犀川の青黒い滝坂産の自然石で獅子の形をしているのでそう呼ばれている。「虎石」、「龍石」とともに兼六園の守護する魔除石といわれている。この三つの石は金沢城玉泉院丸庭園にあったものを移したといわれている。




















「黄門橋」からの流れと霞が池から「さざえ山」北部方向の流れが合流し、水量を増し「白龍たん」といわれる急流となって「瓢池」に注いでいる。この辺はマツ、モミの木や低木の茂み、小鳥のさえずりなど、さながら深山の趣を呈する所で、町中に居るとは思えない所である。


























お堀通り(百間掘り通り)に面して幅広い石段がある。ここが「蓮池門口」と言い、兼六園の表門(正門)で、江戸時代の古い図には石段を登った右にやや大きな番所があった。両側に部屋が付いた2階建ての、大きな門で三十人組と呼ばれる番人が守っていたといわれる。




















この門には奥州白河藩主松平定信が揮毫したという「兼六園」の扁額が掲げられていた。藩政期にはこの扁額は、門の内側に掲げられていた。現在は石川県立産業工芸館に展示されている。以前「兼六園」の名前を付けたのも松平定信といわれていたが、疑問点がいろいろあることから、現在、まだ誰が名前を付けたかはっきりしていない。










「こども金沢市史」より









石段の右手には「特別名勝兼六園」の石標が建てられている。(昭和61年3月建立)
現在、特別名勝・大名庭園としては、岡山の後楽園、高松の栗林公園など7つが指定されている。

2015年9月4日金曜日

兼六園 虎石 サンザシ 噴水

数回前のブログの続きで、「ことじ灯篭」を見て、霞が池に沿って右側を少し歩くと「虎石」がある。霞が池の北岸のシイノキの木陰の前にあって、ちょうど虎が前足を低くしてほえている姿に似ているから、その名が付いたという。自然石で能登外浦の曾々木辺りの石である。3代利常が七尾から運ばせて、金沢城の玉泉院丸庭園にあったものを。後年、現地に移したと伝えられている。この石は獅子岩、龍石とともに兼六園の「要石」(かなめいし)で、兼六園を守る「魔除けの石」として知られている。他の要石に比べて一番、その虎に似ている石だと思う。




















その先に、私が好んで休憩する場所がある。人気の「ことじ灯篭」からすぐ近くにありながら、ここまで人があまり来なく、夏の暑いときでも木陰ができて涼しい所なので、のんびり休憩するのに格好の場所である。




















ここから「桜ケ岡」方向に歩くと、いくつも園路が分かれている角に「サンザシ」の木がある。この木はバラ科サンザシ属の落葉低木で、中国より持ち込まれたという。熟すると赤くなる果実は生薬、果実酒、ドライフルーツとして用途があり、盆栽の素材としても好まれているという。5~6月に白い花を咲かせ、黄色い実をつけ秋に赤く熟するという。高血圧、コレステロール、高脂血症など成人病の予防に良いとされる。そういえば、十数年くらい前に片町の「エルビル」の裏に「山査子」という居酒屋で飲んだことがあるが、今でもやっているのかなあ。






















http://www.ootk.net/shiki/TZ~RL/tokiwasanzashiQ3.jpgより

「ことじ灯篭」から「噴水」の方に緩く下る路に沿っていくと、左側に小滝(布滝)と浅瀬がある。ここは小鳥たちの格好に水飲み水浴び場になっているという。夏場は木陰があって、涼しげな場所である。


























この浅瀬の流れの先に、1861(文久元)年につくられた現存する日本最古の噴水がある。この噴水は上にある霞が池を水源にして、自然の水圧で上がっている。水の高さは通常約3.5mで霞が池の水位によって変わる。金沢城の二の丸に噴水を上げるための試作であったともいわれている。13代斉康は、庭園に噴水を楽しむという、従来にはない(欧米にはあったらしい?)新しい庭園の姿をやって見たかったのであろう。




















この噴水を上げている原理的なものは、下図を見ていただければその仕組みは分かると思う。霞が池の水面と噴水がある水面との高低差は5.1mあるが、噴水をどこまでどのように上げようとしたかは、ヒューム管の径やノズルの本数、絞りの組み合わせによって決まるという。その技は必要な噴水量や水頭バランスを計算して各部位を施工したのだからかなり技術レベルは高かったと思われるという。ノズルの周りの筒形台が外形は八角で内径が丸型になっているのも面白い。








兼六園研究会「きくざくら」より











噴水がある池の向かい側に、一面苔で覆われた平地があるが、ここが時雨亭跡である。時雨亭という蓮池庭の上屋敷があったところで、5代綱紀が政務を執ったところである。その跡地に6代吉徳が規模を小さくして蓮池御亭の改修を行った。この御亭では、観楓(紅葉鑑賞)、観月、茶の湯などの宴が開かれていた。この地は綱紀の起居していた所として遺徳を偲び、大切にされた所という。今は往時を偲ぶカシの古木がそびえている。この御亭は廃藩後撤去されたが、2000(平成12)年に長谷池のそばに当時の資料を基に再現されている。