2015年11月26日木曜日

兼六園の紅葉 山崎山 瓢池

今回は、兼六園の紅葉が見ごろということと、明後日から天候が荒れると聞いたのであわてて行ってきた。(11月23日)
兼六園では、山崎山と瓢池付近が特に紅葉がきれいということでそこを中心に行った。
山崎山の下の苔庭








































紅色、黄色、緑色のモミジの葉が混在している。




















ここは辰巳用水が山崎山の下をくぐって兼六園にはいってくる所である。




















ここから兼六園内を曲水となって流れる。この辺りは深山の趣があり、6勝のひとつの幽邃の呈をなしている。




















下の木橋付近から山崎山の上にある茅葺の御亭方向を見る。




















御亭から曲水方向を見る。




















小立野口付近から山崎山の登り階段方向を見る。深紅に色づいた葉



























瓢池の翠滝付近の紅葉。まだ少し早いのか?ここのモミジは11代藩主冶脩が京都の紅葉の名勝の滝田、高尾、小倉山などから移植したものだという。




















豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に加藤清正が持ち帰り、豊臣秀吉に献上され、その後、豊臣秀吉から前田利家に送られたという説がある海石塔と翠滝と紅葉




















深紅に染まった葉越し見える霞が池と内橋亭




















霞が池に浮かぶ蓬莱島の紅葉

2015年11月23日月曜日

東外惣構堀(3) 材木町 禅福寺

東外惣構堀(2)の続きで、材木町の通りは大変古く、藩政期以前からあったという。金沢市東南部の二俣、若松といった農村地帯の住民が青果物を売りに来たり、ここで買い物をする場所で商店も多かった。




















この通り沿って細い道があったが、堀と土居の城側にある「内道」と思われるが、その脇に土塀に囲まれた古い建物があった。ここは、もと加賀藩定番馬廻組の山森氏の邸宅で、庭には老木もあり、門や土塀とともに妻入りで大きな白壁が堂々とした構えを見せていて武家屋敷の景観を表している。金沢市の指定保存建造物となっている。




















「下土橋」がある所に、「東外惣構堀」の標柱があったが、藩政期には「下材木町橋」と呼ばれていた。




















「人見橋」の横に木橋が並んでいたが、これはいつ頃のものであろうか?以前はこちらに道があったのであろうか?




















この近くに、浄土真宗の古刹として名高い。専光寺、瑞泉寺とともに藩政期に加賀藩内宗院の触頭をしていたという「善福寺」がある。ここで有名なのは本堂が土蔵造りで、土壁の厚さは1尺もあり、漆喰塗りで、軒先まで塗りこめ、開口部の引戸や扉も土塗りで耐火性を高めている。宝暦の大火後の金沢の寺院の復興を物語る貴重な建物という。








































本堂の玄関の柱の両側に、キバをもった龍か象か分からなかったが、すごい形相ものが彫刻されていたが、これも火から寺を護るためか?




















その後直角に曲がり「小鳥屋橋」をくぐり、大橋近くの浅野川に注いでいる。









































下図は文化8年の「町方絵図」の中の橋場町店舗町並である。浅野川大橋と枯木橋の間には「古手、呉服」(使い古された衣類)と記された小さな店がすらりと並んでいる。

2015年11月18日水曜日

金沢マラソン2015

初めてのフルマラソンになる「金沢マラソン2015」が開催された。金沢の町中を12、000人の参加者のマラソンはどうなることか非常に気になっていた。
周りでいろいろ聞いたら「フルマラソンは走ったことがないので不安だ。でも金沢で初めてやるマラソンに何としても出たい」という人が多かったようだ。気持ちはよく分かる。私もできる事なら出たいが、とても無理だ。私くらいの年齢の人も多く出ているようで、最高齢は86歳というからすごい。
コースは下図どおりで、金沢の町中をほとんど網羅しているようだ。ランナーは金沢の町中の景色がどんな風に見えるか興味がある。

http://www.kanazawa-marathon.jp/com/img/course/img_01_b_0216.gifより

スタート前は自分の家付近はひどい雨だったが、9時ごろになるとすっきりやみだした。
早速私は、自分の家から一番近い「泉ヶ丘通り」の円光寺付近へひと目見ようと足早に歩いていった。通りの手前で警備員に止められ曲がる車が何台かいた。あれだけ報道していても知らない人がいるものだ。通りに着い時にはまだランナーは来ていなかった。
9時30分ごろであろうか、トップの選手が来たのでカメラを撮ろうとしたが先導のバイクで見えなく、すぐ近くで姿が見えてシャッターを切ったが、時間遅れでトップランナーは写っていなかった。その後、かなりの時間が経ってからトップ集団が来た。




















その後は、続々とランナーが走っていく。沿道の人たちが「ガンバレー」の声援をしきりに送っていた。20~30分見ていたが、同じ光景を見ていてもしょうがないと思い、家に帰ることにした。途中ヘリコプターの音が聞こえ、見上げると2,3台飛んでいた。金沢の上空でヘリコプターを見るのは、あの新幹線開通日(3月14日)以来である。上空からの町の様子を撮影をしているのだろう。




















家に帰って、早速テレビで「金沢マラソン」の放映を見た。いつも見慣れた広阪通り、金沢駅周辺、石川門周辺の通りがランナーで埋め尽くされている光景は異様な感じがした。




















東山付近では和菓子が振舞われ「落雁」や「きんつば」などが並べられていたという。金沢らしい趣向だ。他の場所では、石川県米を使った「おにぎり」や「金沢カレー」、そして「五郎島金時のさつまいも」などが振舞われたという。
百万石和菓子スポット(以下すべて、金沢マラソン フェイスブックより)


http://j-town.net/images/2015/quote-all/town208649_pho1.jpgより
また、小坂付近では伝統芸能の「加賀鳶の梯子のぼり」や木越付近では「加賀獅子舞」が披露され
このイベントを盛り上げていた。

午後になってもう一度見たいと思って、交通規制を避けてどこで見ようか考えた末、車でイオンタウン示野まで行って、松村3丁目で見ることにした。




















ここでも沿道にメガホンを持って「ガンバレー」や「あと2,3キロよ」の声援が飛んでいた。大勢のランナーが来るので、知っている人を探すのは大変だし、何時間も待っている人もいただろう。目立つように被り物をしたり、変わった服装などした人が結構いた。中にはポールにビデオカメラを持って走っている人もいた。ユーチューブでリアルタイムで沿道の風景を流しているのだろうか?








































後でテレビや新聞などで知ったが、ランナーにとっては途切れない沿道の声援が非常に励みになったということや、沿道の人とのハイタッチが元気をもらったと言っていた。




















完走をした知り合いの人に感想を聞いたところ、出発前の激しい雨は大変だったらしい。東山で和菓子を食べようとしたがもうなかったらしい。県外から来たランナーがいくつも持っていき、ポケットに入れて走りながら食べる人もいたらしい。結局、おにぎりも金沢カレーも終わっていて6時間以上走ったので、お腹がすいてしんどかったと聞いた。
でも参加者はそれぞれ楽しみながら、達成感や感激があり、よい体験したと思う。

いずれにしても時折雨模様の中、初めての金沢マラソンで大きなトラブルもなく終わって、山野市長をはじめ関係者と多くのボランティアで手伝ってくれた方々はご苦労様でした。
次は、今回は初めてのことで課題がいろいろあったと思いますが、改善してよりよい大会にしてもらいたいものだ。

2015年11月14日土曜日

尾山神社 七五三

今回は、孫の七五三のお参りで尾山神社に行った。
11月15日に1週間早かったが、神社には七五三のお参りで多くの人が来ていた。そういえば、11月15日は第一回の「金沢マラソン」の日で尾山神社の前の大通りが交通規制になるので、相当混雑するのではと考えられる。




















予約ができなく当日受付なので、社務所の中には行列ができていた。




















受付に藩政期時代の金谷御殿の絵図が貼られていた。興味があったが、人がいっぱいでよく見えなかった。


























大勢の参拝客に混じって拝殿に座ると両親のほかに爺ちゃん、婆ちゃんもたくさんいた。拝殿の天井には金谷御殿から移築したもので、格天井づくりで「うどんげ」という花が描かれていた。




















早速宮司さんのお話があり、今回お参りする七五三や初宮の対象の子供たちの名前が読み上げられた。




















その後、本殿に向かって順番に両親や子供たちが玉串を奉げお参りした。そして参列者全員がお祓いを受けた。




















帰りに,孫が千歳飴を受け取った。


























境内には、ガラス張りの新しい授与所が出来たばかりで、正月などの参拝者が多く訪れる時期に対応して造られたという。2023年に迎える創建150年に向けた環境整備の一環らしい。




















境内にある「おまつさん」の石造の後ろにある庭園は少し紅葉しているのが見えた。



2015年11月11日水曜日

金沢城 アメリカ楓通りの紅葉

今回は金沢城に行った時に紅葉がきれいだったので紹介します。
三の丸から石川門横付近を見る




















三の丸広場から本丸方向を見る




















二の丸広場から鶴丸倉庫へ行く通路から本丸北面石垣方向を見る。




















本丸北面石垣下の通路から橋爪門方向を見る




















二の丸広場から玉泉院丸庭園方向を見る




















二の丸広場から極楽橋、本丸付段方向を見る




















土橋門から切手門、旧第六旅団司令部付近を見る。





















市役所前から「アメリカ楓通り」を見る




















市役所前から旧四高記念館を見る


2015年11月7日土曜日

東外惣構堀(2)賢坂辻 材木町

東外惣構堀(1)の続きでその先を歩いていくと「賢坂橋」(藩政期は八坂総構橋)があるが、ここで「源太郎川」と合流する。
坂になっているので土居があった名残だろうか?




















その「賢坂橋」の近くの石垣の内角にここにも「延命地蔵尊」があった。




















書家で有名な「北方心泉」の「常福寺」の裏を通り、「兼六大通り」の下を流れている。ここも緩い坂になっている。藩政期にはここに「剣崎辻橋」があった。




















この大通りの脇に「賢坂辻」の標柱があった。久保市乙剣神社と椿原神社の氏子の地境であり、また丘陵地の先端であることから昔は「剣先」と呼んでいたが、明治になって「賢坂辻」と改めたという。



























「敬愛病院」の間を通り抜けている。この東外惣構堀は、現在はどこも大変狭くわずかな流れとなっている。




















「梅の枝橋」辺りには「徳田秋声生家跡」があり、加賀八家横山家の下屋敷があった所である。




















徳田秋声はこの地に3歳まで居て、その後、東京に行くまでに金沢の中で4回も転居している。




















その先に「上土橋」があるが、ここは藩政期に「備中橋」があった。




















この辺りは「材木町」というが、その名前の由来は元和2年に紺屋坂付近にいた町民が城郭修築用木材を宮腰港から運搬した功で材木を与えられ、この地に移転したことからこの名が付いたという説と、藩政初期の大火で焼けた後に藩から賜った木材を使って町立てをしたからという説がある。


























ここに「材木町小学校」があるが、ここは来年「味噌蔵町小学校」と合併することになっている。発足はかなり古く、明治6年に市立椿原小学校として始まったが、明治22年から材木町小学校となり、戦後までここは男子ばかりの小学校で、女子は味噌蔵町小学校であったという。
私が何といっても記憶にあるのは昭和31年のここの火事である。小学生だった私は家の前で真っ赤な炎が真っ直ぐ上のほうまで上がっていて、その中に満月の月が橙色になっているのを今でも覚えている。そして全焼した材木小学校の6年生が私の小学校に一時通っていた。今の建物はそのとき建てたものだからもう60年近くになる。