2019年9月30日月曜日

庄川水記念公園、金屋石、庄川ウッドプラザ

前回の「アユの里」で、アユ料理を満喫した後、すぐ近くにあった「庄川水記念公園」を散歩した。ここの公園もきれいに整備されていて、段落ちの滝があり、池に流れる水に地元の彫刻家「松村外次郎」造ったという石の彫刻「越の川」と「北前」が水の上に置かれていた。




























そこから公園内の階段を上っていくと、思いがけないものがあった。「金沢城」に水を上げるために作られた「辰巳用水」に使われていた「石菅」が置かれていた。「辰巳用水」は、当初はすべて木菅だったが、逆サイフォンなどの部分は湿った土の中のものは腐ったり、水圧が高いともたなっかったりしたことから、ここの「金屋石」が天保時代の完成すると、石菅に替えられていったという。



















「黒部川」付近の丘陵地の開墾のために作られた「十二貫野用水」も逆サイフォンにこの「金屋石」の「石菅」を使うことにより見事完成したという。



















「金屋石」は、庄川をはさんでこの公園の向かいに洞窟の穴跡があるらしいが、江戸時代には盛んに石を掘っていて,石屋が8件もあったという。やわらかく加工しやすい石で「石菅」を作るにはもってこいだったのだろう。この石ができていなければ、「辰巳用水」が「金沢城」に上げるのを維持するためには、もっと大変だったことだろう。



















「庄川水資料館」の前には、やはり「松村外次郎」の作品の「元武」(北の守護神)という亀のような石像が置かれていた。



















続いて「庄川水資料館」に入ると、「流木に生きる先人たち 流木と庄川」と「川を治め、川を利す 川に生きる」をテーマにした展示物を見た。庄川は、江戸時代から昭和初期まで、上流の飛騨の山々から切り出された木々を、川の流れで搬送する流木作業の様子やその作業に携わるきこりや船頭たちの仕事ぶりや生活を再現している。































その近くの「庄川ウッドプラザ」の前には大きな水車があり、その横に庄川清流温泉入りの「足湯」を楽しんでいる人が多くいた。



















プラザ内で、庄川名物の「ゆずソフト」を頂き一服した。また、庄川特産のお土産や特産品が販売されている。木目を生かした「庄川逸物木地」の壺や皿など、素晴らしいものが置かれていた。

2019年9月26日木曜日

庄川 アユの里

今回は、新聞に庄川の子持鮎が入荷し、食べられるようになったと「アユの里」の店の宣伝が載っていたので、久しぶりにアユの店に行って食べてみたいと思い、富山県の砺波市の庄川狭までドライブした。(9月1日)金沢から約50分で、11時30分ごろに「アユの里」に着いたが、すでに店はいっぱいで、順番待ちとなった。



















順番待ちの名前を書いて、付近を少し散歩した。すぐ目の前に「合同ダム」がある。このダムは昭和14年に完成したことにより、二万七千石用水(新用水、山見八が用水、二万石用水)の取り入れ口が変更になったという。
この上流に「小牧ダム」があるが、そこから船でしか行けない秘境の一軒温泉宿「大牧温泉」がある。実は私が小学校6年の時に、学校から修学旅行でここへ来た時の写真が残っている。



















 「合同ダム」より上流は深い急な流れとなる。富山県の大河「庄川」沿いは山と川のエメラルドグリーンの四季折々の景色はさぞ素晴らしいだろう。



















「アユの里」の横には、「庄川水記念公園」があり、ここの噴水が上がっている途中に人の彫刻像があり、目を引いた。



















この公園に庄川の伝統工芸品の「庄川挽物工芸品」が展示されていたので、少し見せてもらった。加賀藩政時代より街づくりが始まり、建設資材として木材が用いらるようになった、この木材の多くは五箇山や飛騨の山奥の求められ、庄川を川下げして輸送され、伏木港から海上輸送により江戸や大阪に運ばれたという。山峡から平野への境となる庄川町に一旦集められたという。このことから、ここに「庄川挽物工芸品」などが盛んに行われるようになったという。





























そろそろ「アユの里」の時間になったので店に入ると、大量のアユが豪快に串に刺されて炭火で焼かれている光景は、圧巻だった。



















店内に案内されて、テーブルに着くと、天井の梁が太く昔の町屋風の造りとなっている。ちょうど子持鮎が出たばかりで大々的に宣伝していたので、ほかにもこのような部屋がいくつかあったが、どこもお客さんでいっぱいだった。



















そして定番の「庄川膳」と「山吹の里」を頼んだ。「お造り」と「ご飯・吸い物・香の物」の違いだけである。これに「子持鮎塩焼き」3尾づつ付く。



















このアユの塩焼きは、焼きたてで、大きくふっくらとした身で香ばしく、独特の苦みはおいしいの一言に尽きる。ビールを飲みたかったが、車なのであきらめるしかない。

2019年9月22日日曜日

金沢城 鼠多門復元工事見学

「色紙短冊積み石垣の発掘調査報告会」に参加した後、「玉泉院丸庭園」前で行われている鼠多門復元工事がどうなっているか見てきた。



















「鼠多門橋」は、江戸時代に「玉泉院丸庭園」と「金谷出丸」とを結ぶ城内最大規模の木橋である。創建時期ははっきりしていないが、江戸時代前期の17世紀中ごろに存在していたことが絵図などからで確認できるという。城内の建物がほとんど焼けた宝暦の大火でも焼失を免れ、修理を経ながら明治まで存在していたという。しかし1887(明治17)年の火災により焼失した。下図は金沢城復元画で有名な「末松智」先生の「鼠多門」の絵である。


「鼠多門」は、石垣の上に二階建ての櫓を備えた構造となっており、門をくぐって坂道を上ると玉泉院丸の敷地となる。城内の他の城門と同じく、屋根は木型に鉛で覆う鉛瓦である。壁の上の方は白漆喰であるが、腰壁は海鼠壁の瓦の目地には黒漆喰となっていて、他の金沢城の門とは違う。



















「玉泉院丸庭園」側から鼠多門復元工事見学台入口があり、そこから内部に入った。



















見学台のスペースは小さいが、ここでの工事の途中経過見学会の様子や梁や柱などの繋ぎの技術などが紹介されていた。



















見学のイベントがある日はたぶん建物の中に入れると思うが、今回は金網越しに土の壁や窓が見え、屋根は鉛瓦の内部の木材と屋根の先端だけが梅鉢紋が付いた鉛が見えた。これから鉛板を貼っていくのだろう。




























この復元整備については、古写真や絵図そして文献などを参考にし、発掘遺構と照らしながら設計されたという。来年の東京オリンピック前までには完成するというから楽しみである。



















ここの通りは現在車が走っているので、江戸時代ものより高くなるというが仕方がない。



















この橋が出来上がると、長町武家屋敷、尾山神社、金沢城、兼六園など加賀藩ゆかりの歴史的な回遊ルートができるので観光客も便利になることだろう。また、それに関連してかどうか南町に「観光案内所」を新たに作ると新聞に載っていた。「観光案内所」には、工芸の体験コーナーや外国人観光客に対応するために多言語もできるスタッフも置くという。

2019年9月18日水曜日

玉泉院丸庭園 色紙短冊積み石垣付近の発掘調査報告会

玉泉院丸庭園の色紙短冊積み石垣付近の発掘調査報告会に行ってきた。(8月25日)この石垣は「見せる石垣」として、全国的にも珍しい貴重な石垣である。
























今回は、「色紙短冊石垣」の右側の方を掘って出てきた石垣について「金沢城調査会」の人から説明を受けた。



















玉泉院丸庭園は3代利常が作庭したもので、5代綱紀がこれを改修しているという定説は以前からあった。玉泉院丸庭園は、高低差が20m以上の立体的な庭園として全国的に見ても珍しい庭園で、非常に見どころがあると思っている。



















今回約2mくらい掘った「色紙短冊積み石垣東面」とその奥の「納谷土蔵下石垣」について解説があった。



















「色紙短冊積み石垣東面」は右手の方が正面と同じ「切り石積み」で、左手の方が「粗加工積み石垣」で構成され、17世紀前半に作成された、刻印のある石材が集中しているが、刻印による意匠的な効果を狙って、古材を再配置したと考えられという。




「金沢城調査会」のパンフレットより













刻印された「粗加工積み石垣」の最下段は表面が平たい(ノミ加工がない)4期製作の切り石古材が根石として転用されている。今回の発掘調査から改めて5代綱紀の大規模な改修で新設されたことが確認された。



















奥の「納戸土蔵下石垣」は上部が切り石積みになっているが、下部は典型的な「金場取り残し積み」となっている。



「金沢城調査会」のパンフレットより














「金場取り残し積み」は粗加工石を転用して、正面を多角形に整形し、その周囲を平坦に整える一方、中央部をこぶ状に残した石材を用いた切り石積みの一種である。こういう積み方の石垣もあることから、庭園に取り込まれた石垣づくりを意識して作られたことが読み取れるという。



















今回の発掘調査により分かったことは、一番下の基礎部まで17世紀後半の寛文年間のころだったことから、5代綱紀が江戸から金沢にきて間もないころに、玉泉院丸庭園のほとんどの石垣が作られたであろうということだ。玉泉院丸庭園の最初に作庭
されたのは3代利常であるが、5代綱紀が大改修を行ったことが確認できたという。(3代利常のころは低い石垣の上は土塁だったろうという)

2019年9月13日金曜日

いしかわ動物園 ナイトズー(2)

いしかわ動物園 ナイトズー(1)の続きで、その後「ネコたちの谷間」のエリアに行くと、お待ちかねの猛獣を見ることができた。まずは「ホワイトタイガー」いしかわ動物園では、「レッサーバンダ」に次いで人気があるという。



















そして「トラ」は大きな口を開けるところが撮れた。



















「百獣の王」の「ライオン」はちょっと小さめだが、ごろりと寝ていた。また「ユキヒョウ」も見ることができた。昼の熱い間は寝ていてなかなか見れないと思うが、涼しくなった夜は少し活動してるのだろう。



















「カンガルー」は広い草原風の囲いの中を独特の走り方で飛び跳ねていた。



















グロテスクな「カメレオン」



















大きさが同じ象の写真があり、お尻の所に像の本物の「うんち」が置いてあった。また「トラ」の写真の前でポーズをとる孫




























また、卯辰山の「ヘルスセンター」時代の懐かしい「デカばあちゃん」のカバの写真が載っていた。(長寿日本一になるまで生きた)



















休憩所で一服した。



















その後も動物園の中を見て回った。「マゼランペンギン」



















亀の甲を楽しそうに触る孫たち



















最も大きなネズミ類である「カピパラ」は南アメリカのアンデス地方の平原に住んでいるという。冬にお湯の中に入ると、気持ちよさそうにじっとしている「カピパラ」映像をよく見る。



















広い草原風の囲いの中に、お互い遠く離れて「キリン」と「シマウマ」がじっと見つめ合っているようであった。