2015年2月27日金曜日

西外惣構堀(3) 玉川公園 升形 極楽橋 小橋

西外惣構堀(2)に続き、玉川公園前から西外惣構堀沿いに歩いた。この玉川公園、玉川図書館の敷地は、藩政期には加賀八家のひとつの「長家」の上屋敷があった。その後、専売公社の工場などがあった広いところである。




















玉川公園の前の通りの長町側には、通りの両側に堀があったが、堀の幅が9mあったというから、どちらも惣構堀の一部であったのか?




















藩政期に、今の南町へ上がるところに「中ノ橋」という橋があり、そしてその先は暗渠となっている。少し歩くと、今の「宗林寺」に上がるところあたりに「図書橋(ずしょばし)」という橋があった。この名前の由来は、この橋のすぐ前に「加藤図書」の屋敷があったからという。









延宝の「金沢町絵図」より










その先の安江町の通りの手前付近で開渠になり、住宅の間を細くなって流れていた。




















安江町の交差点の向かいの空き地に、このブログの「西福寺 西外惣構堀 升形」を掲載したときにも紹介したが、ここは金沢城下と宮腰(金石)の港を結ぶ宮腰往還と西外惣構掘が交差する交通の要所だったので、堀と土居を曲げた方形の区画を持つ施設「升形」があった。









































この「升形」を再現するという計画は、以前予算が取れなく流れていたが、最近の新聞に出ていたが、これを復活し、再現することが決まったようだ。金沢駅と武蔵地区を歩いて巡る観光客も増えるだろうから、「西福寺」の住職さんもさぞ喜んでいることだろう。




















その先は現在の「東別院」(俗に東末寺という)の裏を流れている。






















そして、現在の横安江町商店街の端(以前に林屋の茶店があった)の裏に藩政期に「極楽橋」があり、今は「極楽橋跡」の石碑が建っている。「東末寺」と「西末寺」の間にある橋で、一方の寺にお参り後にもう一方の寺にお参りに行くときにこの橋を渡るので、この名前がついたとか、ここを渡ると極楽浄土ができるとか聞いたことがある。




















その先は、立派な建物の「明成小学校」の前の通りを通っていてずっと暗渠となっている。ひとつ手前の道とはわずかな坂となっているので、やはり堀と土居との名残だろう。





















そして、「小橋」の手前の藩政期の「前田主膳」の屋敷付近で「堀どめ」になっていたという。(浅野川までつながっていなかった)










延宝の「金沢町絵図」より





















久しぶりで「小橋」に行ったが、下流側は以前とはずいぶん変わっていた。その先で川が蛇行しているが、数年前の洪水で蛇行している先の「昌永町」付近がだいぶ被害を受けたと聞いている。それで、この付近を大改修したのだろう。

2015年2月22日日曜日

西外惣構堀(2) 香林坊橋 せせらぎ通り 玉川公園

前回に続いて、柿木畠から香林坊交差点の方に歩いた。ここに藩政期に「香林坊橋」が架かっていた。今は車が激しく通り、橋があった面影は何もない。




















昭和30年代ごろまではここに橋が架かっていた。橋があったことは薄ぼんやり覚えている。









「昭和30年代の金沢」より










藩政期の頃は、北国下街道の枯木橋とともにここは北国上街道の交通の要衝で重要な橋であった。下図は土屋又三郎の屏風「農業絵図」で、橋の右側は片町の通りで、左側は「西外惣構堀」に満々と水が流れ、「香林坊橋」と金沢城が見える。そして片町側に木戸が描かれている。ここでは許可された人しか入れなかったようだ。




















「109」の建物の裏側に「西外惣構堀、鞍月用水」が流れている。香林坊交差点側の正面より低い位置にあるので、この辺りの「109」の店は地下1階となる。ここにスーパーマーケットの「マルエー」が入っていた。郊外に大きな駐車場を持ったスーパーマーケットがたくさんあるが、まちなかにあるのは珍しく始めて見たが、駐車場がないから小さなマーケットのようであるが、この辺の人にとっては貴重な便利な店なのであろう。




















少し歩くと、用水の流れる音が聞こえることから「せせらぎ通り」と呼ばれる飲食店などが建ち並ぶ商店街がある。「せせらぎ縁結びまつり」などイベントもある。




















この商店街に、郷土料理の冶部煮などが味わえる創業明治30年という老舗の「魚半」がある。以前は香林坊交差点の今の「大和アトリオ」がある場所に、香林坊のシンボル的な正面が丸い建物であった「魚半ビル」の中にあった。




















北国新聞会館に上がるところに藩政期の頃からあった「右衛門(えもん)橋」がある。この橋の上の方に加賀藩家臣「富田右衛門尉直治」の屋敷があったからこの名が付いたという。橋の向こう側は結構急坂であり、土居であったことが分かる。





















この先に、今は石垣の上は駐車場になっているが、この辺りを「高岡町上藪ノ内」という旧町名であった。このことから雑木や竹薮があったことから名が付いたという。もっと下のほうに「高岡町中藪ノ内」もある。そしてここに、この付近の説明書きをした看板があった。




















次に、この用水沿いに「貴船神社(明神)」がある。
ここは、藩政期の加賀八家のひとつの村井家の当主が浮気しているので、奥方が櫛、手鏡などを祠に納めて浮気相手との縁が切れるようにとお参りしたのが始まりという。(村井家は否定しているが)
今は二つの祠があり、縁結び、縁切りにご利益があるという。縁結びは川下(高岡町側)から神社に入ってお参りする。縁切りは川上(香林坊側)から神社に入ってお参りするという。
縁結びは、人に見られないようにして、祠の裏に回りそっとお参りする。縁切りは、人に見られないようにして、正面から橋を渡りお参りする。夜にお参りしなければ御利益がないという。
縁結びは、裏から回ってお参りするとあるが、裏は急坂でどうやって神社に入るのか私はまだ理解できていない。誰か教えてください。




















この辺りは、つい20年ぐらい前までは用水が暗渠となっており、車優先の道路になっていて、店の前には駐車できるようになっていた。
前市長の「山出保」さんが、金沢の町は用水の町であることを強調し、昔の景観を守るために用水を開渠にすることを進め、地域住民と話し合い1軒1軒に風情のある橋を架けた。そして、歩道は用水の上をせり出したところに設け、そぞろ歩きをしやすいようにした。この町並みを作り上げたのは「山出保」さんのおかげであろう。




















「中央小学校」の前には、藩政期からある「四ツ谷橋」がある。ここにも検番があり4人おり、またこの付近に4軒の町屋があったらしい。
































延宝の「金沢町絵図」より








そして「中央小学校」(村井家跡)を過ぎたところで「鞍月用水」は左に折れる。「西外惣構堀」は通りをまっすぐいき、「玉川公園」(長家跡)の前を通っている。




















2015年2月17日火曜日

西外惣構堀(1) 本多町 広阪、柿木畠 

今回は、金沢城の周りにある東西の内、外の惣構堀のうちの西外惣構堀沿いを歩いた。
惣構堀は、城防備のために作られたもので、1599(慶長4)年に藩祖前田利家が亡くなり、2代藩主利長が金沢に戻され、徳川家が前田家つぶそうとしているのを防備するするために、高山右近に命じて東西に内惣構堀(内堀)を作らせたのである。
また、1610(慶長15)年の3代利常が篠原出羽守一孝に命じて外惣構堀(外堀)を作らせた。












「金沢之絵図」金沢市立玉川図書館所蔵






惣構堀は城防備の堀ということで、堀の内側には土を6~9mの高さに盛り上げて土居(どい)とし、雑木や竹などが植えられていたという。




















西外惣構堀の源は、現在の「本多町園地」か「旧中村邸」裏あたりでろうか?




















本多町通りから21世紀美術館と知事公舎の間のところにその堀が見え、現在は辰巳用水の分水が「美術の小路」からつながって満々と水が流れている。




















ここの通りにアーチ型の「宮内橋」があるが、この橋名の由来は延宝の「金沢城下図」にも出ている小幡宮内の邸宅があったからで、橋は板橋で番人が常駐していたという。

































「金沢城下図」金沢市立玉川図書館所蔵






この辺りは、西外惣構堀跡がどんなだったか見せられるようにきれいに整備されていて、堀の内側の石垣の上に雑木や竹が植えられていたことが分かる。









































この堀沿いの通りの向こう側に、金沢市役所南分室(以前は北陸学院短大などの建物であった)があるが、建物も老朽化して耐震性の問題もあり、第2庁舎として建て替えられるという。




















先日の新聞に本庁舎とこれから建てる第2庁舎を地下道で結ぶという計画であるというから、外惣構堀の下を通ることになる。そして、一般の人が外惣構堀の水の流れを間近で見ることができる憩いの場を作るという。また、現在ある本多町にある職員会館を移し、21世紀美術館から鈴木大拙館までつながる「緑の小路」、「美術の小路」を含めた本多町歴史文化ゾーンの散策空間を作るという。また、今日の新聞にこの辺は茶室が多く残っていることから「茶の湯空間」として整備するという。楽しみがまたひとつ増えそうだ。




















その後、商店街の裏を通っているが、狭くなっており元の惣構堀は幅9mあったというから、現在の商店街と通り辺りまで堀であったらしい。


























「うつのみや」の前で、「鞍月用水」と合流している。




















「うつのみや」の横に橋が架かっているが、その橋を渡ると坂になっており、土居であったことが分かる。
そして、老舗の「蛇の目寿司」の前を通っている。




















下図の写真は昭和12年ごろの「蛇の目寿司」であるが、現在もその面影が残っている。学生の頃の今から50年近く前にここへ入って、大変おいしかったことを覚えている。




















その後、ビルの谷間を流れて香林坊橋に至る。





















2015年2月12日木曜日

石川近代文学館 島田清次郎

今回は、広阪にある洒落たレンガ造りの旧四高の建物の中にある「近代文学館」に行った。




















建物の中の左半分は「旧四高記念館」になっており、以前に中に入り、このブログでも紹介しているが、今回は右側は半分の「石川近代文学館」の方に入った。




















通常展示されている三文豪をはじめ石川県関係の文学作家については後日、紹介するとして、今回の特別展示として「彷徨の作家 島田清次郎」が開催されていた。私が特に興味のある作家の一人であったので、詳しく知りたいと思ってきた。




















この日は私しかお客さんがいなく、「少し詳しく知りたい」と受付で言ったら、学芸員の人が来て「マンツーマン」で説明を受けた。
島田清次郎は石川県の美川の廻船問屋の家で生まれたが、2歳の時に父が亡くなり、母と一緒に祖父が経営している西茶屋街の「吉米楼」の2階に住むようになった。














島田清次郎が住んでいた「吉米楼」は現在の「西茶屋資料館」となっている




金沢商業時代には、弁論大会では学校の体制を批判し退学されているが、その頃、友人からドストエフスキーの小説を勧められ、これをきっかけに小説家になることを志す。
そして、若干20歳で評論家の生田長江に認められ、新潮社より「地上」を出版すると、忽ち30万部が売れるという当時の大ベストセラーとなった。そして、この小説は、特に若い世代に読まれたという。
「地上」は島田清次郎本人の分身の「大河平一郎」が主人公で、地上から「貧乏」という悪を一掃するために、自ら政治家になりたいという考えと、また一方、彼の少年時代の恋の破綻も描かれた青春小説として、大正時代の代表傑作であるという。
また、当時暮らしていた「西茶屋街」の様子も詳細に描かれ、郭小説の先駆をなすものであるという。














西茶屋街入り口にある石碑





時代の寵児となった清次郎は若い女性からもファンレターが多くきたり、欧米へ視察旅行に行ったりなど、有頂天になり、傲慢になっていた。そんな中で、彼のファンであった父が金沢出身の軍人少将の令嬢とのスキャンダルに遭うことになった。
彼は少年時代に「にしの郭」という特殊な環境で育ったことから、女性への偏見があって、その疑われる行動と、貧乏に対する反感から政治や官僚の不満、軍人などの考えと真っ向から対立していたし、そして時代の寵児となっていた流行作家ということで、恰好のスキャンダルとして取り上げられ、世間からたたかれることとなった。
世間でもうらやむ人が何か事件を起こすと、ジャーナリストがたたき、いじめたたく風潮は今の時代でもよくあることである。
後日、少将側の告訴は無実であることが分かったが、この事件はマスコミで大きく取り上げられ、裁判で多額の弁護料の支払いも重なり、心身ともに凋落した。
以後も奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳の若さで肺結核により亡くなったという。


























精神病棟に入ってからのことはあまり知られていないが、ここの学芸員の話によると、そんな精神異常者が描く文章ではなかったという。あまりにも世間がたたきのめたからあろうと言っていた。




















若干20歳で時代の寵児となった人格の未熟さが命取りになったということであるが、このベストセラーの「地上」もさることながら、その31歳で亡くなるまでの、天と地の人生を味わった生き様が、人々の感動を与えているという。




















その後、七尾出身の作家の杉森久英が、この島田清次郎の人生について「天才と狂人のあいだ」という本を出して直木賞をもらっている。

昭和32年に放映された映画「地上」では金沢でロケがあり、仲の良い二人の演技が評判となった「川口浩」と「野添ひとみ」がその後結婚した。













「西茶屋資料館」より






また、昭和50年代には漫画雑誌「ジャンプ」でも題材となり、連載され多くの人の読まれし、平成に入ってからもテレビドラマにもなった。











「西茶屋資料館」より








最近の若い人は「島田清次郎」ついてあまり知らないかと思いきや、学芸員の話によるとマニアの人のなかでは評判で、「地上」や島田清次郎の人生に関しての書籍が電子書籍などでよく売れているらしい。