2020年1月30日木曜日

ひょんの木(町家 九谷焼工房)

今回は、北國新聞社のビルで講座があるということで聞きに行く前に時間があったので、近くにある町家の中で九谷焼の工房があるということと、築150年という武士の家の中を見せてもらいたいと思い訪ねた。ここは、住宅街の中にひときわ目立つ古い建物である。



















玄関前の土塀には「薦がけ」されており、屋敷もアズマダチの典型的な武家屋敷である。「登録有形文化財」も銘鈑が貼られていた。



















実は以前にも時間の合間に、ここに入り女主人と話しをしたことがある。私より3歳下で、小・中学校が同じであり、昔話に花を咲かせたことを思い出し、今回は仲間と一緒の来た。



















ここでは、九谷焼の絵付けの体験や見学などもできるという。そして販売もしているという。



















縁側にも古い棚の上に多くの九谷焼の作品が並んでいた。















風情のある庭があり、大きな松の木に周りにくねくねに曲がった枝が絡んでおり、灯篭、飛び石、石組みなども見れた。





















お座敷には、仏壇と床の間に鶴の掛け軸が掛かっており、床の間の横の上下に小さな棚の襖が金色であり、障子の模様も洒落ていた。畳の真ん中の板敷きの所は「ふまんといてね」と金沢弁で描かれていたが、ここに炉が切ってあり、たまにここに茶釜を置いて茶会もやるらしい。



















前庭には、笠に苔が生えているいろいろな形の灯篭があった。



















ここにあった手水鉢に彫られた棒状の形がいろいろあるが、すべて4本である。兼六園の内橋亭前にある方形手水鉢に彫られたものはすべて5本だったが、これらは何か関係があるのか?
























ここのシンボルの木の「ひょんの木」はかなりの古木で、マンサク科の常緑高木である。この木にアブラムシが寄生して葉に大きな虫こぶを作り、子供がこれを笛にして遊ぶので、方言で「ひょんの木」という。































今回も時間がなく「工房の部屋」を見ることができなかったが、また改めて訪れたい。

2020年1月26日日曜日

犀川大橋から桜橋

今回は、「神明宮」に「左義長」に行った際に、犀川大橋から桜橋の右側を歩いた。(1月12日)
今年の「神明宮」の「左義長」は4日間あり、今日は2日目である。
「神明宮」に着いたのは午前9時15分ごろで、始まって間もなくだったので、まだ火は小さかった。



















 「左義長」の元祖であるこの神社で、「健康で居れますよう」丁寧にお参りした。



















続いて犀川大橋を渡って、桜橋方向に向かって川沿いを歩いた。向こう岸に高いポールの上方に円盤型のものが立っていた。これは、犀川上流にある「犀川ダム」や「内川ダム」などが放流した時に、急に水が増える可能性があるので、それを知らせるサイレンを鳴らすものだという。



















その説明版が手前の岸に掲げられていて、サイレンの流し方も描かれていた。
















ここにある大きな水門は、河川敷に下りられるようになっているが、洪水警報などの発令時には閉めると描かれていた。その時はどういう手順で閉めるのか気になった。
10数年前の浅野川の氾濫で水門が明けたままであったことで、被害が大きくなり、もめていたことを思い出す。



















さらに歩くと対岸には、「センチェリーカレッジ」の建物の上に高級料亭「つば甚」そしてレンガ色の建物「金沢モリス教会」の建物の上に「谷口吉郎記念館」の建物が見える。



















川沿いの道にはレトロな「ガス灯」があり、春にはきれいに咲く桜並木がずらりとある。
























さらに歩くと金沢榮譽市民第一号の「谷口吉郎」が建てたという「室生犀星文学碑」が建っている。後ろには「徳田秋声文学碑」と同じように武家屋敷塀がある。



















昔、市民が子供たちの疫病払いに犀川に流したという流し雛を型どった赤御影石の碑には、犀星自筆の「小景異情 その六」の「あんずよ花着け・・・・」の詩が刻まれている。春になると後ろの塀の屋根の上にはあんずの花が咲くという。
























高浜虚子の弟子「杉原竹女」などの句碑もある。



















「室生犀星文学碑」の裏からは「桜橋」が見える。「とみ子夫人」と出会った最初の場所が「桜橋」あったことが、「つくしこいしの歌」の作品に出ている。



















金沢大学名誉教授で、歌人でもある村上賢三氏の「犀川の雪消の水の音高く 遠ざかれども なほもきこゆる」と彫られた句碑もあった。
























 俳句雑誌「ホトトギス」の二代主宰の高浜虚子とその息子の句碑がある。”北國の時雨日和やそれが好き” 虚子、”秋深き犀川ほとり蝶飛べ” 年尾

2020年1月22日水曜日

杉浦町、水溜町、池田町界隈

十三間町、杉浦町界隈(1)の続きで、その後、「水溜町」方向に歩いた。ここで古風な木戸を持った玄関の両側に,
下方は石組みされ、中が土塀で板材覆われた立派な武家屋敷があった。中の建物も大きな屋敷のようだ。



















さらに歩いていくと、玄関はやはり木戸があり、中は土だと思うが、石かコンクリ(?)で覆われた大きな武家屋敷があった。中は樹木で覆われており、市指定の樹木もある。



















その向かいに「旧水溜町」の標柱が立っている。「犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名がついた。元禄年間、60メートル余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った」
























向かいの角の家も小さな武家屋敷であるが、ここは現在「ビストロユイガ」というレストランになっている。
























その隣も武家屋敷で、この辺りは足軽組地かそれ以上の武士が住んでいたとこだ。門の所には大きな松が生えていた。
























裏の駐車場から庭が見えたが、武家屋敷の小さな庭の面影が残っており、大きな木々、灯篭や石組みが見られた。
近くの家に椿の赤い花がたくさん咲いていた。



















またそのそばの赤い小さな実は「ナンテン」か?密集した住居地に、こういう花や実を見ると、また情緒がある。
























さらに片町方向に歩いていくと、「池田町」や「十三間町」の小路であるが、藩政期からある狭い道路に小さなマンションやアパートなど住居が密集している。














そうゆう中には、古くなった住居なのか空家なのか分からないが、ショベルカーが入り、建物を解体したようだ。世の中は少子高齢化社会が急速にくるようだが、今後、街はどうなるのであろうか。

2020年1月18日土曜日

十三間町、杉浦町界隈(1)

片町1丁目界隈(旧河原町、旧大工町)(2)の続きで、その後「十三間町」の細い通りを歩いた。大橋近くには飲み屋が多いが、奥に入ると住居やアパート・マンション、小さな店、駐車場などが混在している。藩政期には、手前は商人のエリアだったが、奥の方は足軽の組地だったところだ。
























ここの通りにも新しく改修された「金沢町屋」の銘鈑が貼られたきれいな建物が2軒ならんでいた。



















この十三間町の長い通りは400mも続く長い道である。さらに歩いていくと、商家の趣がある「毛利質店」がある。玄関には黒い暖簾が掛かり、その上にサガリが付いている。板塀の上にガラス戸があり二重の屋根が付いていた平屋のレトロな建物である。隣には下の方は石造りであるが、周りは板塀の蔵がある。



















今は、宝石、貴金属、時計、骨董品、OA機器など高価なものの買取を行っている。 片町での飲み会の前の資金作りのために来る客も多いらしい。



















さらに通りを直角方向に曲がっても、やはり細い小路が続く。
























その角に「杉浦町」の標柱があった。「藩政初期、加賀藩士、杉浦仁右衛門の預り足軽の組地であったことからこの名がついた」という。そういえば「十三間町」といい、この辺りの町は住所変更のなかったところだ。
























歩いていると時々、古い家が建っている。ここは、屋根に鳥兜をもったアズマダチの武士系の立派な建物である。



















ここもな立派な屋根に漆喰壁と板塀に格子窓が付いた武士系の和風住宅である。



















一番犀川寄りの通りは「中川除町」で、途中から犀川の川沿いの道になり大橋のところまで続く。
























桜橋の横は「川岸町」といい、以前は大通りの向かい側も「川岸町」であったが、そこは今は「幸町」に組み込まれ、ここの狭いエリアだけが残った。20~30年前までは、ここに「国民金融公庫」の建物があったのを覚えている。この「中川除町」も「川岸町」も住居表示の見直しがあったがここは旧町名のまま残っている。



桜橋の上から犀川上流側を見ると、遠くの高い山のみがうっすらと雪が被っているが、手前の低い山には全く雪がない。もちろん平地もないが、この時期には珍しい光景である。

2020年1月14日火曜日

片町1丁目界隈(旧河原町、旧大工町)(2)

片町1丁目界隈(旧河原町、旧大工町)(1)の続きで、さらに歩いていくと、大きな町家があるが、ここが有名な「立野畳店」である。建物は金沢市して文化財で、明治初期に建物だという。表構えは2階に袖壁を備え、窓には古格子が付いている。1階は庇下にサガリを設け、開口部には蔀戸が入り、「スムシコ」と呼ばれる金沢特融に格子戸も復元されている。



















現在は洋室化が進んでおり、畳の部屋が少なくなっている。ここは代々畳屋を営んでおり、畳屋はだいぶ少なくなっているが、現在もずっと続けている貴重な店である。金沢には町屋が多く残っており、従来のやり方の畳づくりを伝承している職人がいる店である。



















ご主人がおられたので、いろいろ聞きたかったが、忙しく仕事をしていたので遠慮した。

































さらに先を歩くと、また「中央通り」にでるが、その角に「旧大工町」の標柱が立っていた。「寛永の大火のあと、ここに拝領地を受けて藩の御大工衆が住んだことからこの名がついた」とあった。享保と宝暦の2回の大火により、多くの大工は他に移転したという。
























中央通りができる前の「河原町」、「大工町」付近の様子で、まだ「石置き屋根」の家が見える(昭和36年)。この頃のことは私もよく覚えているが、私が住んでいた近くには
「石置き屋根」はもう既になかったと記憶している。
























大通りを渡りさらに小路を歩くと、右側に以前によく入ったおでん屋「美幸」の店があった。最近は観光客も増え、さらに多くの人でごった返しているのではと思う。
























「海遊亭」は「北王子魯山人」が修行したという高級料亭「山の尾」の姉妹店であり和食の店である。随分前に入ったことがあるが、どんな店だったかあまり記憶がない。



















さらに歩くと玄関は木戸になっていて、1階も2階も広い格子戸がある立派な町屋があった。「古流家元花庵 華林苑」とあったが、生け花関係の屋敷か?



















「旧大工町」の小路をまっすぐ行って、ぶつかったところに長い小路「十三間町」があるが、その通りに出たところに1階の2階の庇の間に小さなガラス戸がある町家風の店があったが、店はシャッターが下りていた。看板には「松本紙店」とあったが、店前にメニューが描かれているのを見ると現在は夜は小さな飲み屋のようだ。