今回は「兼六園」の4月中旬(4月16日)と1週間後の4月下旬(4月23日)の様子を紹介する。
4月中旬には、ソメイヨシノはもう既に終わっていたが、遅咲きの桜(八重桜)がかなり咲いていた。しかしピークは少し過ぎたようでもある。
噴水付近の「楊貴妃」
今回は「兼六園」の4月中旬(4月16日)と1週間後の4月下旬(4月23日)の様子を紹介する。
4月中旬には、ソメイヨシノはもう既に終わっていたが、遅咲きの桜(八重桜)がかなり咲いていた。しかしピークは少し過ぎたようでもある。
噴水付近の「楊貴妃」
山中温泉(3)九谷焼美術館 久谷赤絵の極致①の続きで、その後も「九谷焼美術館」内を見物する。
下図は伝統的な九谷焼の釜(登窯)のイメージ図である。上絵が描かれる前の磁器を焼くための窯で、九谷では複数の焼成室が連なるもので、斜面を利用して築かれた。下の方の焼成室から順に上の焼成室に移していく方式である。横の扉から製品の出し入れをする。炎が直接当たらないよう釜が二重構造になっている。
昨日の「久谷古窯跡」に行った時には、周囲が雪に覆われたいたので見えなかったが、下図のように「古九谷窯跡石碑」や案内板がある写真が展示されていた。
「後藤才次郎」は大聖寺藩主前田利治に命じられ久谷の山林に金鉱をを求めたことが記されている。久谷村には「後藤才次郎」の住居跡と釜場所が残っていて、多くの素焼きの破片も出土したとある。
上部の写真は「後藤才次郎碑」である。
古九谷は、肥前国有田で陶芸を学んだ後藤才次郎が、1655(承応4)年ごろから最初に窯を開いてから約50年間で姿を消し、その後、100年ほどは藩内で時期は生産されなかった。陶磁器の焼成が再びはじまったのは1807(文化4)年に京都の陶工青木木米が加賀藩に招かれ、春日山(卯辰山)に窯を開いた。木米は1年余りで帰郷してしまったが、木米の弟子の本多貞吉が小松に開いた若杉窯を始め、次々と釜が興された。これを総称して「再興久谷」と呼び、現在の久谷焼に繋がっている。
九谷焼ができるまでの工程は、造形(轆轤や鋳込み型で形を作る)、素焼き、下絵付け(染付)、釉釉薬がけ、本焼き、上絵付け、錦窯、といくつもの作業がある。
花粉症の私にとって杉花粉が過ぎ、ヒノキ花粉がまだ少しあるが、天気が良かったので久しぶりに「大乗寺丘陵公園」を散歩した。(4月12日)
これからこの公園は黄色い対さな花がどんどん咲いてきて華やかになる。
山の上の方は杉林なっており、その下には新緑などの木々があり、さらにその下はツツジのまだ葉の状態であるが、もう2週間程すると一面にツツジの花でいっぱいになるはずだ。ここの遊歩道は上の方まで何重にもあるが、そんなに歩けない。
この3本に別れた大木の上の方は桜の花が咲いているが、下の方は緑の葉がいっぱい木にまとわりついていた奇妙な姿である。
ここの高台の公園からは眺望がよく、日本海も見え気持ちがよい。