2019年8月28日水曜日

辰巳用水巡り(兼六園~尾山神社)(1)

今回は、「金沢まち博2019」の散歩学「辰巳用水巡り(兼六園~尾山神社)」が抽選で当たり、久しぶりに参加した。(7月27日)
集合は兼六園の「金沢神社」で、約30人くらいの参加者があった。今日の用水巡りの説明してくれるのは、「金沢の用水」の本を出しているおなじみの「笹倉信行」先生で私としては3回目となる。神社の中の畳の部屋で映像を見ながら「辰巳用水」などの説明を受けた。



















まず、先生が体験した隧道巡りの「ツルハシ痕」、「タンコロ」、横穴などの説明があった。



















また、寺津用水、塩硝蔵、遊歩道についても話があった。



















辰巳用水の分水として「花里用水」があり、亀坂分水や石引分水と湧き水の「大清水」と合流して「勘太郎川」の流れとなって鞍月用水に流れる。また湧き水「とどろき」から「木曽坂」を通り辰巳用水の分水「八坂」の流れと合流して「源太郎川」が流れている。



















藩政期前は犀川が暴れ川と言われ、現在の片町付近まで広がる河原であり、二筋の流れであった。藩政期の初期のころの犀川の大治水工事で、中洲を埋め立て町地にしたという。



















文禄のころには、城づくり及び町づくりが始まり、「大野庄用水」は日本海から運ばれた材木を町中に持ってくるために作られた用水であり、「木揚場」で上げられた材木を材木商や木挽などが住んでいた「安江木町」や「木の新保」に運ばれたという。他に「木倉町」や「大工町」などもできた。また石垣に使う石を戸室山から金沢城に運ぶために、真っすぐな「石引通」などが作られた。



















一方、江戸の川や用水について見てみると、徳川家康が入る前は、太田道灌が建てた江戸城(絵図の赤い部分)近くまで「日比谷入江」が入り込み「江戸前島」という小さな半島みたいに出ていた。



















徳川家康が江戸城に入って、江戸城の防備のために堀を作り、掘った土などを使って、町づくりのために浅瀬を埋めていき、人々が住まわせる土地を広げていった。そして飲み水を確保するために「溜池」などとつなぐ水の流れを作っていった。



















また、「神田川」が、以前は「日本橋川」を流れていたが、大雨の時には、埋め立てたところが洪水が多かったので、「本郷台」の今の「お茶の水駅」あたりを掘って「神田川」が「隅田川」に流れるように変えたという。これはすごい労力を必要とし工事は大変なものだったらしい。



「微地形散歩」より















江戸城のもっとも外にある堀にある橋は、枡形を有する城門があり「見附」と言われた。「赤坂見附」や「四谷見附」などはその跡が今でも残っている。



















辰巳用水を金沢城に「逆サイフォン」の原理を使って上げているが、当初は今の兼六園のことじ灯篭付近より取り入れたが、城の三の丸までしか上がらなかった。それで2年間かかって、石引水門から取り入れて二の丸まで上げたという。



















「逆サイフォン」で苦労したのは、木管などのつなぎ目の部分の「水漏れ」は「松脂」や「ヒワタ」などの接着剤を塗り対処した。また、湿った土の中の木管がすぐに腐ってしまい石管に替えたこと。そして、「逆サイフォン」の底に砂がたまると二の丸まで上がらないので定期的に砂抜きを行ったことなどがある。


2019年8月24日土曜日

卯辰山寺院群(10)本法寺 光覚寺

次に「本法寺」にいった。ここは、日蓮宗で「お稲荷さん」のお寺として信仰されている。創建は1587(天正15年)に常唱院日隋上人が開山した。元は越中新川松倉にて圓通寺と称したが、後に金沢下堀川に移転し松倉山本法寺と改めた。3代利常による内証の祈願を成就。祈祷所命ぜられ現在の寺領を賜った。その後、寺領220歩あまりを拝領して現在の地に移転したという。




















山門の左側に建っているのは題目塔で、「南無妙法蓮華経」と刻まれている。
























山門の柱や扉に小さなひょうたんやわらじが掛けられていた。

4月のころに訪れたので、境内には、ピンク、黄色、赤など色とりどりの花が咲いていて境内も華やかな雰囲気だった。













続いて「光覚寺」に行った。広々としたところに山門が建っていた。



















光覚寺は浄土宗西山禅林寺派のお寺で、城内の新丸の内、塩屋町を経て現在地に移転したという。敷地に山腹を取り入れた静閑な佇まいである。本尊阿弥陀如来像は俊寛層都の守り本尊と伝えられている。本堂の永国山の額は、御西院天皇の11皇女宝鏡宮(本覚え院宮)の御筆である。



















鐘楼に梵鐘のほかに昔の鬼瓦が載っている。
























「源光谷長左衛門 牌」と刻まれた台の上に蓮華に載った立派な「阿弥陀如来像」が置かれていた。
























本堂の裏側に行くと山腹となるが、そこに墓地がある。その中に「あめかい供養尊」の地蔵がある。
光覚寺は金沢に四つある一つの「あめかい幽霊伝説のお寺」として有名である。
伝説は、光覚寺門前の坂にある飴屋に毎夜飴を買いに来る女がいた。ある夜今夜が最後と言って店を出た。、店の主人が不思議に思って後をつけていくと、女は光覚寺の墓地に入り、姿が見えなり、掘り起こしてみると、若い女の死体の抱かれた赤ん坊がいた。女は幽霊となり、生まれてきた子に乳の代わりに飴をなめさせていたという「あめかい幽霊」の伝説がある。



















光覚寺の前には「あめや坂」がある。「あめかい幽霊伝説」からその名前があるのだろう。今はバス通りで分断されてしまったが、藩政期のころの坂は長い急坂で、子供たちが荷車を後押しして、駄賃をもらっていたという。写真の大通りの向こうの狭い坂の先が光覚寺である。



















この「あめや坂」を分断している大通りを東山方向に行くと「旧高道町」の標注があった。藩政初期の北陸道は、現道路よりやや西にあったいまの道が山側で高いところを通ったので、この名で呼ばれるようになった」とあった。

2019年8月20日火曜日

谷口吉郎・吉生記念館

今回は、寺町に新しくできた「谷口吉郎・吉生記念館」に行ってきた。建築家「谷口吉郎」は、金沢市の名誉市民第一号
に選ばれており、その生家跡に記念館が建てられた。建築家の記念館としては全国で初めてと聞いている。
場所は寺町大通りに面していて、裏側の犀川沿いからの道から階段を上っても行けるので便利だ。

























この建物を設計したのは、谷口吉郎の長男の吉生氏で、東京や京都の国立博物館や、ニューヨーク近代美術館、そして金沢の鈴木大拙館などを設計している。
1階は、受付とラウンジだけである。地下1階は谷口吉郎が関わった建築の写真やジオラマの展示や解説がされている。ここはカメラ禁止だったので残念ながら紹介はできない。



















2階は、谷口吉郎が設計した迎賓館赤坂離宮の和風別館「游心亭」 などが再現されている。広間は47畳と12畳の2間からなっている。迎賓館本館で執り行われる行事や接待が洋式であるのに対し、和風の意匠や純日本のおもてなしで諸外国の来賓をお迎えするための施設として利用されている。お茶・お花・和食などにより「和」のおもてなしを提供しているという。



















12畳の方には屏風の前が舞台となっており、いろいろなものが催される。広間から広縁の上まで広がる天井は、平天井と斜めの天井から成る棹縁が印象的である。



















そして広間の障子を開ければ、外部の水辺と木々が見える。浅い水辺は、谷口吉生が設計した「鈴木大拙館」をお思い出す。高台から見える金沢の町並みを期待したが。



















その先に「茶室」は、中央にある4畳半の畳席と、その周りにある椅子席から谷口吉生氏創案の茶室で、能舞台のように設けられた小間での点前を周りの椅子から鑑賞しながら、茶を楽しむことができる。




























帰りに行った仲間とラウンジでコーヒーを飲んで一服した。

続いて、谷口吉郎がどんな建物を手掛けたかを「ふるさと異人館」に展示されていたものから紹介する。



















「藤村記念堂」は、木曽街道馬籠宿の藤村実家の本陣跡に、地元民の協力により1947年に建てられたものである。



















「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」は、太平洋戦争の「無名戦士」のお墓で、1959年に皇居のお堀端に作られた。お堀の水面が美しく、樹木の茂みの奥に建てられら六角堂である。
























「森鴎外」・「室生犀星」・「正宗白鳥」など多くの「文学碑」を建てている。
























2年前の秋に見た「十和田湖記念碑・乙女の像」も谷口吉郎の作品だと知った。
























金沢市内にも「徳田秋声文学碑」が卯辰山にあり、秋声が武士の子孫であることから土塀をかたどった碑を建てている。秋声の言葉と犀星の撰文を焼き付けた陶板がはめ込まれている。
























他に、谷口吉郎、が設計した金沢市内にあるものも多くある。

2019年8月16日金曜日

卯辰山寺院群(9)心蓮社

卯辰山寺院群(8)の続きで、その後「心蓮社」に行った。
「心蓮社」の創建は1612(慶長17)年に京都大本山清浄華院法王 休與(能登の長連龍の弟)が塩屋町に建てたのが始まりという。1637(寛永14)年に3代藩主前田利常から現在地に寺を拝領して移った。



















山門前には、右手に巡錫、左手に宝珠を持ち、連座に立つお地蔵さんが置かれている。




















文政年間(1818~1829)に金沢辰巳大火で重要文化財の「阿弥陀三尊迎図」を残し、一切を焼失したという。本堂、山門、築地塀は大火後の文政年間に建てられた。大正年間に本堂が改築された。木造平屋建て、切妻、桟瓦葺き、正面唐派風屋根付き、外壁は白漆喰仕上げの建物である。



















唐破風の屋根の下に立派な龍の彫刻がなされていた。



















「平和記念塔」は平成元年に建てられた方形屋根、銅板葺きで、正面に「平和」の扁額が掲げられている。
























その横の塀の裏に「川口久雄」氏の記念碑があったが、「川口久雄」氏金沢大学法文学部の教授を務めた文学博士で、国文学や日本漢文学などで傑作を残した人物である。彼が描いた文の一説も刻まれていた。



















梵鐘は川口先生が中心になって再鋳したものであるが、鐘楼は古く周りには素晴らしい龍の彫刻がされていた。鐘楼の下に穴が開いていて壺のようなものが埋め込まれていたが、音を響かせるものか?
























本堂の裏手に墓地があり、松尾芭蕉が「奥の細道」で金沢に来た時に、一番芭蕉に付き合った「立花北枝」の墓がある。蕉門十哲のひとりに数えられ加賀蕉門の代表的な人である。墓の斜め手前に「しぐれねば又松風の只おかず」の句碑がある。



















その近くに蕉風の「高桑蘭更」の墓もあるということだったが、どれか分からなかった。墓地の上のほうには「寺島蔵人」の墓もあるという。

ここの庭園は、市の指定庭園になっており、築山池泉式「めでた造り」の庭園で、小堀遠州流といわれている。



















上下二段式庭園は、建物の向かいの崖地に、大小の三尊仏などの石組みや植栽がなされ、下の方に心字池があり、雪見灯篭が配置されている。墓地と一体となった庭には、椎、もみじなど自然林が生い茂り、山の大木の根から湧き出る水が落ちて池を作っている。