2016年3月31日木曜日

小諸、上田 バス旅行(1) 小諸「万酔園」

今回は、私が所属している団体で、今放映している大河ドラマ「真田丸」のメッカの上田城へ行くということで、久しぶりのバス旅行に参加した。
金沢駅西口6時50分に集合して約40名でバスで信州に向かった。バスの中では、以前バスガイドをやっていたという人が、途中の景色の説明や歌などを唄ってくれたので楽しく過ごせた。
バスの中から立山連峰、妙高山、黒姫山、戸隠山、後立山連峰などの白い頂が見えた。
11時ごろマンズワインの小諸ワイナリーに着いた。そういえば、30数年前にまだ東京の会社にいるときに、忘年会で山梨県の石和温泉に行ったが、次の日にマンズワインの勝沼ワイナリーの工場見学したのを思い出した。
小諸ワイナリーでは、早速、オリエンテーションルームで、案内係からここの施設やぶどうの話、ワイン造りの話などを聞いた。




















この後、時間があまりないということで、ぶどう畑や熟成庫、タンク群などは見れなかった。それですぐに日本庭園の「万酔園」に入った。入口の門は茅葺の屋根で、柱は杉のサビ丸太で、袖垣はサラシ竹の鉄砲垣だという。




















ここは、3,000坪の広さの日本庭園で、マンズワインによると「ワインに酔い、景色に酔い、全てに酔う日本庭園」だそうで、木曽路をイメージした木々のところには「島崎藤村」の歌碑がある。
「島崎藤村」といえば「小諸なる 古城のほとり・・・・」は何とも懐かしい。




















近くの川から水を取り入れた池や築山を作っているという。




















池には二つの滝があり、正面の大きな滝を「男滝」といい、左側の滝は「女滝」という。案内人は「まるで鯉が滝に上るように見えるでしょ」と言っていた。




















下図の石は、夫婦道祖神、ワイン道祖神というもので、マンズワインの「夫婦でワイン」を表しているという。




















26種(ドウダン、トガ、ツゲなど)で約4,000本の混植大刈込があり、植木のコントラストが楽しめる。秋の紅葉にはグラスワインが白、ロゼ、赤へと変化しながら溢れ出す様を表現しているという。
その横には、枯山水式庭園で五島、七石で大海に浮く島を表現している。




















物見岩から庭が一望でき、小さな池付近に自然石(ぶどう石)は形がぶどうの葉、または房に似ているという。




















日本庭園を出て再び建物が並んでいる方向に戻った。




















そして試飲コーナに行った。こういう所を見学すると必ずあるお楽しみのコーナである。数10種類の試飲ワインが並べられていて、私も7,8種類のワインを試飲し、少しいい気分になってしまった。どれも飲み心地がよく、どれを選んでもよいという感じだった。




















帰りに重たくなると思い1本だけ土産として買った。ヨーロッパ風の味だが、いつも飲んでいるワインより少し甘かった。小諸ワイナリーは、勝沼ワイナリーに比べて生産量は少ないが、高級なワインを造っているという。


























その後、マンズワインの近くのお蕎麦屋さんに入り、昼食として「信州そば」を食べた。やはり、いつも食べている蕎麦とは一味違うようでおいしい。
今回は入らなかったが、30数年前に小諸へ出張できた帰りに、小諸城址の「懐古園」に行ったのを覚えているが、その時の正門の大手門とその前に掛かっている「懐古園」の看板は今でもイメージがあるが、中はどうだったか全く覚えていない。

2016年3月27日日曜日

寺町台地と犀川沿い(4)宝集寺

寺町台地と犀川沿い(3)の続きで、寺町通りの一番奥にある倶利伽羅山高野山真言宗「宝集寺」に行った。ここは河北郡倶利伽羅山の長楽寺の僧・弘誉を開山に迎え1652(承応元)年に創建された。そして加賀藩主10代重教のころより前田家の祈願所になったという。




















山門の右横にお数珠と花を持ったお地蔵さんが安置されていた。




















正面の本堂の建物には玄関の扉や屋根瓦の下方部の先端部、また、屋根の天辺の「のし瓦」にも多くの「梅鉢紋」があった。前田家ゆかりのお寺であることがすぐに分かる。




















ここの境内で写真を撮っていると、若い住職らしい人が親切に扉を開いてくれて、「中にどうぞ」と言って見せてくれた。しかし、すぐに去って行ってしまったので詳しい話は聞けなかった。

本堂の中には不動明王の弘法大使が祀られている。弘法大使は名前が「空海」で、高野山真言宗は弘法大使の御廟(ごびょう)を信仰の源泉とする宗派である。高野山真言宗の教えは「いのち」の平等と尊厳を悟り、大日如来の知恵をこの世に実現するために「生かせ いのち」を実現し、共存共生の世界を目指すことにあるという。




















その左側の部屋の床の間に多くの観音像が描かれた掛け軸が掛けられ、壺や小さな観音像が載っていた。横にきれいな模様の着物が飾られていた。




















また、本堂の横にある、前に鈴を鳴らす紐が掛かった古いお堂には、「勧喜天」、「毘沙門天」、「千手観音」などが祀られていた。




















お堂の右側には「毘沙門天」が祀られ、四天王のうち北方を護る多聞天の別称で、四天王中の最高の神として、平安時代のころより単独で信仰されるようになったという。そういえば、東山にある「宇多須神社」は「毘沙門さん」と呼ばれている。


中央には「出世大聖勧喜天」が祀られている。


左側には「千手観音」が祀られている。実際にはもっと手が少ないが、千の手があるというのは、どんな人達でも漏らさず救済しようとする無限の慈悲の心を表現しているという。





















この古いお堂の前には、赤戸室の灯篭が2つあった。




















また、山門の近くにある大仏が入っている六角堂は有名で、周りに観音像が多く並べられて、頭の後ろに光っている輪がある、座っている大仏様が見られた。このお堂は12代斉広の産母・貞淋院の発願により建立されたという。









































ここのお寺はそんなに広くはないがいろいろな観音菩薩像や大仏様などが見れた。

2016年3月23日水曜日

寺町台地と犀川沿い(3)清川町、長良坂

寺町台地と犀川沿い(2)の続きで、さらに上流の方向に歩くとレンガ風の洒落た建物があった。ここは「フォーリーフ金沢・清川」という「サービス付き高齢者向け住宅」で、こういう景色のよい、静かな所で暮らすのもよいと思うが、まだもう少し世話にはなりたくない。これからは,高齢者が増え、更にこのような施設が多くなってくると思うが、あと5~10年後はどうなっているのだろうか。




















さらに歩くと、シックな近代和風住宅の典型的な家があった。雪吊された木に白い梅の花が咲いていた。そういえば今日(3月15日)から兼六園の雪吊の取り外す作業が始まった。園内で最初に取り外すのは「明治記念の標」の横にある「手向けの松」で、最後に取り外すのは、園内随一の枝ぶりを誇る「唐崎の松」だ。




















この付近から見る犀川の「下菊橋」、戸室山そしてまだ白く雪の被った医王山が見え、素晴らしい眺めである。




















下菊橋の前の角に緑地があったが、そこにピンクのきれいな梅が咲いていた。




















この緑地を右に曲がると「長良坂」という坂がある。昭和54年に「下菊橋」ができる前は、小立野と寺町台を結ぶ重要なルートだったが、今は「こんな所に坂があったのか」と思うほど影が薄くなり、歩行者専用の坂になり、閉静な生活路に生まれ変わったという。




















坂の上り口に「長良坂」の石柱と料亭「金茶寮」の看板がある。「旧長良町へ上がる坂なのでこの名がついた」と刻まれている。この辺りには長柄槍の足軽が住んでいたから、長良は長柄が転じたものではないかともいわれている。




















延長188m、高低差15.4m、平均斜度5度、最大斜度8度で、スロープと石段が併用され手摺もある。




















長良坂の下の方向から「金茶寮」に入り、階段を上った。
ここは、昭和8年に元加賀八家だった横山男爵が建てた別邸を譲り受けて創業したという。40mの斜面を利用した1000坪の庭園の中にそれぞれ趣の異なった5つの離れは点在しているという。中でも「御亭」は江戸時代末期の建てられたもので、今では珍しい楓でふかれた天井、栗の木に細かい細工をした手すりなど当時の粋を凝らした建築技術が窺い知れるという。




















加賀料理に京都の粋を取り入れた洗練された味わいのある料理で地元の旬の食材をふんだんに使い、見た目にも楽しむことができる盛り付けや九谷焼、大樋焼、輪島塗などの器を使い、料理を引き立てているという。
ちょっと敷居が高そうで、私はまだ入ったことないが機会があれば入りたいものである。




















皇室、歴代首相らが泊まった由緒ある宿で、創業以来「一客一亭」をモットーとしている。玄関や古めかしい趣のある建物、庭などを見ると、明治、大正のころに尾小屋鉱山の開発と経営でいかに大きな富を得てたかが窺い知れる。




















「金茶寮」の隣にはここも横山家の別邸であった「辻家庭園」があるが、ここは以前にこのブログでも紹介している。
http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2013/12/blog-post_22.html


2016年3月18日金曜日

寺町台地と犀川沿い(2)清川町

寺町台地と犀川沿い(1)の続きで、「桜坂河岸緑地」から上流に向かって歩くとすぐに「清川地蔵尊」があり、そこには中央に弘法大師をはさんで、左側に5体、右側に9体の地蔵が安置されている。大小さまざまさまざまだが、錫杖は4体で他は手を合掌に組んでいる。




















伏見寺より伝来したという不動尊や観音像、他に百度石、亀石、犀川の句碑などがある。
急な階段を上ると「桜坂」に出る。




















また、そのすぐ近くに「北陸近代文学発祥の地 選定の記」という説明書きが石垣に埋め込まれていた。尾山篤二郎や室尾犀星、表樟影ら数人の文学者と「北辰詩社」などを結成し、この上の「旧桜畠」のほうにたまり場があったことから、この地を発祥の地としたということらしい。




















その横の茂みをかき分けると、篤二郎の遺族や、結社「鶴林」、文学館と協力して、初代の文学館館長の「新保千代子」さんが代表となって建立した尾山篤二郎の歌碑があった。




















少し歩くと、犀川沿いには3階、その後ろの崖に5階ある高い建物で「金沢の宿 由屋るる犀々」という宿屋がある。あまりに大きいので、道の前からは全体を写すことができなかった。玄関には電気自動車用の充電スタンドが装備されていた。将来的に電気自動車が増えるだろうと見込んでつけたのだろうが、まだあまり利用されていないという。




















ここのフロントでこの宿のことをいろいろ聞いた。片町の繁華街や兼六園にも近く、歩いて行ける距離だという。しかし、この辺は繁華街の近くにありながらたいへん静かでのんびり過ごせるという。部屋からは犀川や遠くの戸室、医王山などが眺められる絶景の場所である。




















客室は15室で、建物の大きさの割に少ないが、これは1室に居間(10畳以上)と寝室(10畳以上)の大きな部屋が二つづつあるからという。「秋声」(群青の間)や「藤五郎」(土蔵造りのコンセプトの間)など金沢の趣を凝らした部屋、シニア向きのバリアフリーの部屋、子供家族の部屋など、どれも和風建築に快適性をプラスしてゆとりある部屋だという。











「由屋るる犀々」のパンフレットより














そして、食事は金沢の四季にに合わせた日本海の幸や加賀料理が出てくるという。部屋食でなく1階の「お食事処」で食べることになっている。個室もある。
よく知られた駅前のホテルやビジネスホテルと違って、温泉宿と同じようにのんびり観光をし、ゆっくり食事をして泊まる人にはうってつけだ。こういう趣向の人も多くいるはずだ。
1週間や2週間くらいの滞在型で、のんびり観光できて、食事はたまに地元の御馳走があるが普段食べるようなもので宿泊費用を抑えたものがあってもいいのではと思う。




















また少し歩くと、ウィンドーに水引で作った洒落た兜のオブジェが飾ってあったギャラリー「自遊花人」という店があった。




















この店に入ると、すぐに店の人が出てきていろいろ説明してくれた。金沢では「津田水引店」が有名で、伝統的な方法で作っているが、ここはそれと違うと言っていた。
芯に強い紙を縒った上に色がついたシルクの糸を巻き付けた紐でいろいろな形状を立体的に作るものであるが、見た目にきれいであることもさることながら非常に丈夫であるという。
店の人はアクセサリーとして衣類につけてあって、洗濯機に入れて洗ってしまったが、何ともなかったという。また、踏みつけてもいくらか形状は変わるが、ちょっと手で直すとすぐに元の形になるという。




















店内には、かばんに水引の模様を付けたもの、壁にかけるインテリアとして、いろいろな色の水引を付けた簾、あるいは和紙の上に朱色の水引で模様を付けた明かりなどが飾ってあった。周りの照明を消してこの明かりを付けてもらったら、いつもの雰囲気と違った異様な趣を醸しだしていた。

2016年3月14日月曜日

寺町台地と犀川沿い(1) W坂

今回は、寺町台地と犀川を結ぶ坂と町並みを散歩した。
まず、寺町通りの寺町3丁目を歩くと、「町屋」のプレートが貼られた古い風情のある家があった。




















ここの庭には、木々の中に灯篭など、いろいろな形状の多くの石塔がずらりと並べられていた。ここは庭師の商売をやっているらしい。




















少し広小路方面に歩くと「寺町3丁目緑地」がある。寺町通りには所々にこのような緑地があり、ちょっと一服できる憩いの場所だ。




















緑地から少し歩いて細い道を曲がると、左側の塀の向こうは「本因寺」というお寺で、その隣には「長久寺」がある。この辺りは昔「石伐町」といって、藩政期には、戸室山の石を伐りだす藩の石伐職人の組地があったという。




















この細い道を歩いていくと、急に視界が開け、左側に「新桜橋緑地」という場所がある。この緑地からの眺めは最高で、左側には片町の繁華街のビルや犀川大橋、中央のビル群の向こうに金沢城、兼六園の木々、そして眼下に「桜橋」が見える。





























































この緑地の下にW坂の文字通り、鋭角に折れ曲がりながら降りる急坂がある。平均斜度14度、最大斜度20度に近いという。




















下から上がっていくと、アルミの手摺がジグザグになっていて、坂の途中にある木々によって、階段の下や後ろの石垣が見え隠れし、立体的な風景を演出するという。獣道のように折れ曲がりながら歩くこの道は結構面白い。




















この坂の途中に、現代日本を代表する文豪の一人の「井上靖」の作品の「北の海」の一部が描かれた石碑がある。
「北の海」は沼津中学校を卒業した主人公が受験生のまま、夏の四高柔道部合宿に参加するという設定で、友人の四高生の下宿に泊めてもらうが、その下宿は桜橋を渡ってW坂の上の寺町台にあった。この台地から見下ろす犀川の印象が描かれていた。
このW坂は四高生が名づけたといわれている。




















「井上靖」は「闘牛」で芥川賞、そして新聞小説に多くの作品を出しており、歴史小説「天平の甍」や茶人利休の死を主題とした「本因坊遺文」などの作品がある。
東大の名誉教授で「おひとり様の老後」の作者で知られる上野千鶴子さんが高校時代の3年間、この坂を上って通学したという。
W坂のアルミの手摺には桜の模様が付けられていた。


























坂の下の桜橋から見て右側にはやはり「新桜橋緑地」があるが、そこには「水辺之詩」という裸婦の銅像があった。




















そして左側には「桜坂」と「桜坂河岸緑地」がある。「桜橋」といえば、まだ「新桜坂」がない学生時代に、車の免許を採ったばかりの時に、車の練習で、ここ桜橋から桜坂に曲がるとき急激な曲がり角に遅れをとったようで、同乗者から「危ない」と大声を上げられたことを覚えている。




















この坂に沿って立っている石垣は異常に高い石垣であるが、いつ頃作られたものであろうか?




















この下の「桜坂河岸緑地」には「愛のプレリュード」という石像が立てられていた。