2018年12月29日土曜日

加賀橋立(3)蔵六園 出水神社

加賀橋立(2)の続きで、その後、北前船の屋敷「蔵六園」へ行った。酒谷長平の船頭であったであった橋本宗七が分家して酒谷を名乗っために「山崎酒谷」と呼ばれたが、大聖寺藩藩主前田 利鬯公が、庭で亀にそっくりな石を目にとめて「蔵六園」と命名されたという。蔵六とは亀のことで、亀は頭と手足と尾の六つを甲羅の内側にしまい込むので蔵六という。



















ここの屋敷は、その後に古物商の人が買いっとって、代々集めた古物品が北前船主の豪華な部屋に所狭しと展示されている。



















大勢の人は集まることができる広々とした座敷も古物品が展示され、縁側を通して庭も鑑賞できるようになっている。欄間や各部屋の装飾、床の間の掛け軸や金屏風の絵などどれも素晴らしいものである。



















庭園は、灯篭や石など能登滝谷石や佐渡紅石、鞍馬石、出雲石など全国の名石が置かれ見ごたえがある。ここの敷地も「酒谷長平邸」と同じ1000坪あるという。



















この庭の木々は岩盤をくりぬいて植えたものだという。
藩主の御成りの部屋から見る庭も、鶴石や亀石、寿老人石など名石が多くみられる。



















藩主の御成りの部屋は銘木ばかりで作られた部屋だという。その襖に大聖寺藩主14代藩主前田 利鬯の歌が張られていた。この藩主は能好きで、宝生流の「三雪」の「青雪」として呼ばれた人でもある。ちなみに宝生流「三雪」は、宝生流宗家宝生紫雪と波吉宮門(紫雪の弟子)の紅雪を合わせて言う。

































他の部屋には、珍しいかごや木箱に入った藩政期の美術品と思われるものも置かれていた。



















喫茶室でコーヒーをいただきながら、ここの女主人と会話した。明治時代にこの人の先祖の古物商を営んでいた人が北前船主「酒谷家」からここを買ったという。女主人が現在の「蔵六園」を管理しており、時間が空いた時は、喫茶室前の「山野草の庭造り」をやっているという。すべて自分の好みでやっているので、誰かが触るとすぐわかるといっていた。よっぽどこの庭の世話に凝っているのだろう。庭師が手入れしている昔からあるもう一つの立派な庭には、あまり関心がないようだ。



















さらに奥に入ると「出水神社」に出た。

























ここは北前船主達の守り神で、船主達が航海の安全祈願や、無事に公開を終えたことを感謝し、船絵馬などが奉納されているという。



















「出水神社」に奉納されている「船絵馬」 幸徳丸・幸甚丸・卯日丸





「北前船の遺産」より

2018年12月25日火曜日

加賀橋立(2)北前資料館②

加賀橋立(1)北前資料館の続きで、「北前船の里資料館」になっている「酒谷家屋敷
」は1000坪もある広大な敷地で周りは高い塀で覆われ、広い庭には2000本のガクアジサイが6月中旬~7月上旬ごろにみごとに咲くという。



















屋敷から廊下を通して2階建ての蔵があったが、ここには8棟の土蔵があるという。



















庭に置かれている石は北前船で運んだもので、全国の銘石を配している。



















「函館山」の絵図が描かれた掛け軸があったが、橋立の大船主である「西田家」は、明治になって北前船の衰退を察し、函館にて北洋漁業に転身したという。今を時めく観光地のなっている「函館山」の所有者であったと聞いたが?



















ここ加賀市には「九谷焼」の発祥の地であるが、九谷焼のすばらしい「色絵金彩」の平鉢や「赤絵」の急須など展示されていた。



















橋立の北前船主邸では大小二つの仏壇が置かれいる。主人が船の商売で留守の間は、小さい夏仏壇を使用し、主人が戻ると冬になると大きい仏壇を使用すると言われている。酒谷家の仏壇は三国仏壇で加賀市の指定文化財になっている。







「北前船の遺産」より











大正5年の全国雑誌「生活」に橋立のことが、北前船で巨額の富を築いた「日本一の富豪村」と紹介された。このことから「西田家」が「函館山」を買い取ったことや「小樽のレンガ倉庫群」をつくったなどということもありうる話だと思う。



















北前船の「積荷と利益」が下図に乗っているが、文久2年の酒谷家幸貴丸では、1航海で約2000両以上だから、今のお金に換算すると約2億円の稼ぎになるという。



















船乗りの1年を見ると3月の春祭りの後に徒歩で大阪に出向く。船の修理をした後4月ごろに大阪を出航する。瀬戸内地方で塩、紙、たばこ、砂糖などを積み込む。日本海に回って境野哲也小浜の縄筵などを買い、橋立に上陸して家族と別れを惜しんだ後に、日本海側を北上し貞、酒田、深浦などを経て、江差、松前、小樽などに着く。各地で荷物を問屋で売り払い、鰊、〆粕、数の子、昆布などを買いこむ。9月上旬までに瀬戸内海に入れるように出発し、瀬戸内海各地で売り周り大阪に着くのは晩秋になる。大阪からまた徒歩で橋立まで帰る。そして次の出発まで約3か月間は、家族と過ごしたり、加賀の温泉三昧の生活だったという。



















「北前資料館」の隣で、食事をとり一服した。付近の道には人影がほとんどなかったが、この店の中だけは人でいっぱいだった。








2018年12月21日金曜日

加賀橋立(1) 北前資料館①

今回は、仲間と加賀市の橋立を巡った。ここは、江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落があり、伝統的建築物保存地区になっている。船主屋敷の母屋は切妻妻入りで、屋根は赤茶色の瓦葺で、周囲には板塀や土蔵がある。敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石が使われている。
























外観は日本海から吹き付ける潮風から家を守るが如く船板で覆われている。ここ橋立は、命を懸けて北の荒波に乗り出し、その才覚によって巨万の富を築いた北前魂が息づいた街並みであるという。



















その橋立の町の様子が窺えるという「北前船の里資料館」に入った。ここは、酒谷家7代長平が明治9年に建てたものだという。



















玄関を入ると北前船に使われていた「四爪錨」がまず目に入った。



















屋敷の中に入ると30畳敷きの大広間の「オエ」は、8寸角のケヤキの柱、巨大な松の梁、秋田杉の大戸など最高級の建材を使った建物で、船主の往時の豪華な生活ぶりがうかがい知れる。



















天井の梁などは何層にも漆が塗られており、130年前の建物とはとても思えない。



















北前船の模型や船額、船宿看板などが飾られていた。



















重要書類や衣料などを入れるのに用いた「船箪笥」は、扉には模様の入った金具が取り付けられ、鍵なども付けられ盗難にあわないようにされていた。外側はケヤキで内部はキリ材を用い、海難で海に投げ出しても水が入らないように作られているという。高級な「船箪笥」は、酒田、小木(佐渡)、三国など主に日本海側で作られていたという。



















大聖寺藩10代藩主 前田利極(としなか)の位牌で、橋立で最も財力のあった久保彦兵衛星屋敷内に同公を祀る祠があった。大聖寺藩と橋立の北前船主との関係を示すものだという。また、北前船主内の屋敷の仏壇の中にあった御本尊も飾られている。



















沿岸を遠く離れて航海するのではなく、北前船の船乗りたちは「山を見る」という「沿岸航路が多かったので、「遠眼鏡」は貴重な器具であったという。当初オランダから伝えられたが、日本で独特の発展を遂げ、筒を紙の一閑張りにし、漆塗りの表面に金で装飾したきらびやかなものが展示されていた。他に方向を示す「和磁石」もあった。

2018年12月18日火曜日

大野界隈(5)ヤマト醬油味噌 大野お台場公園

大野界隈(4)の続きで、橋を渡り右に曲がると、大野川の丸く曲がった川岸に沿って小径があるが、建物が少しづつ向きを変えて丸く曲がった道に沿って建っている。ここは「ヤマト醬油味噌」のさまざまな建物である。




















建物の奥には、高くそびえた「ヤマト醬油味噌」の煙突が見える。醤油づくりには大豆を蒸す、麦を炒る、生醤油への火入れなどの多くの加熱工程があるため、醤油蔵には必ず煙突がある。大野には、レンガを積んだ四角いもの、丸い士官をを鉄鋼フレームで支えたものなど、いろいろな形の煙突が大野にある。
























ここの広い敷地には、醤油の製造工場や蔵などいくつかの建物が建っている。




















ここは、創業当時からのレンガでできたボイラーか?




















ここの「ひしほ蔵」では、この蔵元で作られた醤油や味噌をはじめ、いしる、塩麴などいろいろな調味料をそろえ、麹甘酒なども販売している。ギフト商品など多くの商品が並べられているので、お土産として買うにも迷ってしまう。




















蔵を改装したと思われるレトロな雰囲気の「発酵美人食堂」では、「もちもちに寝かせた玄米」や季節の実たっぷりの味噌汁など酵素がいっぱい入った麹料理でおもてなすという。この壁に「麹」と「」の字が貼られていたが、「麹」は麦、大豆にコウジカビを付けて発酵させもので、「」はコメを発酵させたものということが分かった。また、テイクアウトコーナーでは、多くの人が「しょうゆ」と「玄米甘酒」味のソフトクリームが食べていた。




















麹の学習室「麹蔵」では、「麹手湯」が体験でき、私もやってみるとよい湯加減で気持ちがよく、麹の酵素でしっとりすべすべの手になる。これが「発酵美人」と言われる所以である。




















醤油桶の中をのぞくことができ、何リットルだったか忘れたがすごい量を製造でき、桶の端に昔の醸造時のカスが付着していて、いい匂いがした。また、発酵料理を体験できる料理教室も定期的に行っているという。




















外に出ると近くに大野川に出る小路があるが、ここは、「創業の小路」といわれ、ここの初代「山本藤松」は船乗りで帆舟を使い、ここから北海道まで行き来して商いを起こした名が始まりという。社名の「ヤマト」は初代の屋号「山藤(やまと)」に由来するという。



















また、この近くに「四校漕艇部」のボート置き場があったという記念碑が建っていた。四校、金沢大学のボート部は学校からかなりの距離があるが大野川のここまで来て練習をしていたということだ。
























この近くの「大野お台場公園」には、幕末に加賀藩が異国船の来航に備え海岸の要所に砲台を築き藩兵を置き海防に努めたが、その砲台の跡地で資料に基づいて復元された砲台が園内の一角に設置されている。



















また、この公園の中央の池に大野で活躍した北前船が模型が置かれている。この池は金沢港の潮の満ち引きにより水面が上下するという。

2018年12月14日金曜日

大野界隈(4)大野町屋

大野界隈(3)の続きで、その後大野川方向に歩くと、大野の町屋が多くみられる。「山守家」は二階が低く「低町屋」で、二階は袖うだつが両側にあり古格子の上下に長押、腕木がある。一階は二段構えの出格子で、細格子と荒格子がある。庇の下にサガリがあり、出入り口は繰り上がっていて、今はガラス戸だが、以前は大戸とくぐり戸があったと思われる。



















「笹島家」は三段構えの出格子である。



















金沢の中の寿司屋としても有名な「宝生寿司」の建物も典型的な大野の町屋づくりで、壁は洒落た「紅殻色」に塗ってあり、高級感を持たせている。一度はここでお寿司を食べたいものである。



















「山守家」の向かいには、浄土真宗大谷派のお寺「名聲寺」がある。ここは、もと金沢鍛冶町にあったが、明治43年に今のところに転じた。大乗寺の塔頭で徹通が開山したもので、後年大野に再興して尼寺としたという。



















このお寺の本堂側面の屋根下は、この大野の北前船の船主の屋敷や醤油蔵と同じように押縁下見板になっていて、大野の町らしいお寺である。



















その隣にある「大野こまちなみ公園」の中のトイレの建物もここの街並みにふさわしい木造で、上の時計台は洒落たデザインのトイレだった。



















ここの公園に北前船で活躍した「丸谷伝兵衛」の旧居跡の石碑があった。



















その横に、大野の北前船で活躍した「丸屋伝衛門」について説明書きがあった。藩政期の寛政~文政(1789~1829)のころに盛業を極めた「丸屋伝衛門」は、大野港を拠点として北は北海道、東北から、西は下関を経由して大阪へ、東は江戸へと航路を広げて、大いなる富と豊かな文化を大野にもたらした。丸屋のほかに川端屋、浅黄屋など大野を代表する船主達の名は、今も日吉神社の御神灯や鳥居に見ることができるという。



















大野川沿いにある角の家「喜楽屋」も三段に分かれた屋根で、庭もきれいに手入れされていて洒落た町家である。ここは現在は使われていないように見えたが、誰か住まわれているのか気になった。



















ここの「喜楽屋」が保管している「蓮湖真景の図」は、幕末の絵師佐々木泉景作で幕末の大野の街並みが描かれているが、この頃すでに多くの家が並んでいたようだ。



















大野川にかかる「みなと橋」は、金沢港工事用の連絡橋だった。金沢港建設により、大野川は昔私が子供のころに見た様子とすっかり変わってしまった。この橋から眺める山並みは、手前の金沢市の低丘陵だけでなく奥の高い山もくっきり見える。先日の新聞に内灘からくっきり見える「立山連峰」の雪山の写真が掲載されていた。

































この橋から海側を見ると「大野灯台」が見える。白色、四角形でたかさが26.4mという。1878(明治11)年に大野町の浅勘七が私財を投じて新川の河口左岸に灯竿を建てたのは始まりで、その後1897(明治30)年に、下金石日和山灯竿が点灯されたという。現在の灯台は昭和28年に設立されたもので、日本の灯台50選にも選ばれているという。大野こまちなみフェスタなどで特別公開されるという。