2019年12月28日土曜日

富山岩瀬地区ドライブ(3)中島閘門 富岩運河環水公園

富山岩瀬地区ドライブ(2)北前船廻船問屋「森家」の続きで、その後、富岩運河に沿って「中島閘門」に行った。富岩運河は、富山湾から富岩運河環水公園までの区間を神通川に沿って作られた運河である。以前は神通川が蛇行していて富山愛の中心部が洪水で悩まされていたという。そこで、富岩運河を新設し、蛇行している部分を埋め立てて新市街地を整備したという。
























今では、この富岩運河を利用して岩瀬地区から富岩運河環水公園まで観光船(富岩水上ライン)が行き来し、県民の憩いの場となっている。




















 岩瀬地区から富岩運河環水公園までの途中に、上流と下流の水面の標高差2.5mを調整している国指定重要文化財「中島閘門」(こうもん)がある。



















 この中島閘門は、長さ86mのパナマ運河方式の複扉室(ふくひしつ)閘門で、運河掘削と同時に建設され1934(昭和9)年に竣工した。建設後は運河上流部にある工場などへ原材料や資材・製品などの運搬をする船を通していたという。  





























二つの門扉の開閉により、水位を上昇させ標高の高い所へ簡単に船を移動させることができる。この仕組みは金沢の大野庄用水の「三社どんど」と同じである。




「パンフレット」より














 閘門と放水路に挟まれた中洲敷地には閘門操作所がある。この建物は、閘門と同時できたものでレトロで洒落た外観である。この建物の中に門を開け閉めする新旧の操作盤が置かれており、捜査員が24時間体制で管理しているという。それで寝泊まりできるように8畳の和室や台所も完備している。



















さらに運河に沿って上流の方に行くと「富岩運河環水公園」がある。ここは、富山市の新たな息の場所となった公園で、水を通した人と人とのつながりと世界とのつながりの原点を願って、「環水公園」と名付けられたという。ここにある「天門橋」は泉と滝の広場と並んで「富岩運河環水公園」のシンボルとなっている。




















両端のエレベータを備えた展望台からは環水公園が一望でき、立山連峰の眺めは最高であるという。下図の写真は展望台に上がらなかったので、下から撮ったものだが、天気が良かったので剣岳と立山雄山がくっきり見える。




























近くの広場では噴水が高く上がったり低くなったりしていて、子供たちが楽しそうに遊んでいた。



















運河クルーズの「富岩水上ライン」は、岩瀬からここまで運航している。外の眺めがよさそうな「スターバックスコーヒー店」があったのでコーヒが飲みたくなったが、残念ながら本日は休みでした。



2019年12月23日月曜日

富山岩瀬地区ドライブ(2)北前船廻船問屋「森家」

富山岩瀬地区ドライブ(1)の続きで、「大町新川通り」の中ほどに「国指定重要文化財」となっている「森家」の屋敷がある。



















この「森家」は、代々四十物屋仙右衛門と称し、明治以降は名字を森とした。文政の頃より北前船で栄えた東岩瀬の廻船問屋の様式を残している屋敷である。特徴は、当地から積み出す船荷のため玄関から裏の船着き場まで、通り庭(土間廊下)が通じ、表から母屋・台所・土蔵と並んでいる。



















母屋の「オイ」には暖炉が切られ、吹き抜けの梁・差物・帯戸などは豪快な見事なものである。雪の重荷にも耐える三段重ねの重厚な梁組で、能登のクロマツが使われているという。
























座敷や控えの間を広げた大広間には、北前船で大きな富を得られたときに集められたものが展示されていた。



















 鴨居には、「東岩瀬町鳥瞰図」が架けられていたが、東岩瀬港と街並みや日満アルミなどの工場群などが描かれた「吉田庄三郎」の昭和11年の作である。佐渡島や東北、北海道なども書かれている。



















梁の中央には「亀」をかたどった「釘隠し」があった。



















天井には見る角度によって、龍の姿が現れるという樹齢1000年以上と言われるエドヒガンザクラが使われた独特の木目模様が素晴らしい。



















座敷の床の間には、掛け軸や花瓶に花、香炉などが置かれていた。
























「船箪笥」は船が転覆しても沈まないことから貴重なもの
が入っていた。
























茶室は、ここも加賀藩ということから壁は紅殻色で、床の間には「船絵馬」が描かれた掛け軸が架かっていた。横には明治6年の大火に見舞われた後、取り入れられたという防火金庫があった。ここにはボランティアガイドさんが一生懸命説明されていた。



















2階は「番頭部屋」(男性)や「女中部屋」(女性)となとなっている。



















屋敷の裏にある土蔵には航海に使う道具や衣類が保管されていた。扉には漆喰で作られた家紋と龍の鏝絵が施されている立派なものである。この龍は火事などの災いを防ぐ願いを込めて左官職人が手掛けたという。
























「北前船寄港地」が日本地図に描かれていたが、日本海側の特に北陸地方に多いのが分かる。金沢の金石や大野、粟ヶ崎そしてこの岩瀬地区もそうだが、最近「北前船寄港地」の多くが「日本遺産」の登録されている。


2019年12月19日木曜日

富山岩瀬地区ドライブ(1)展望台 岩瀬街並み

今回は、天気も非情に良かったので1時間ちょっとくらいで行ける「富山岩瀬地区」にドライブした。北陸自動車道「西富山インター」で下り、まず「富山港展望台」に行った。この展望台は、富山湾の南西に建立されている金毘羅社内の常夜燈をモデルにしたもので、北前船時代の繁盛記には燈台の役目をしていたといわれる。現在のものは昭和60年に建てられたものだという。
























高さ25mという建物の内部の階段を上ると、富山湾の向こうには能登半島が大きく見える。江戸時代の北国街道の参勤交代や奥の細道の芭蕉たちは、このあたりをずっと歩いているが、海の向こうには能登半島が いつも見えたであろう。



















反対の山側には、今日は立山連峰がきれいに見えた。こんなにきれいに見える日は珍しいらしいという。中央が「剣岳」で、右手の高い山が 「立山の雄山」であろう。下の写真では見えないが、左手の奥の方にはすでに真っ白な「白馬岳」も見えた。なんと素晴らしい眺めであろう。



















続いて岩瀬の町並みを歩いた。岩瀬は江戸時代から明治にかけて北前船による廻船問屋が多く営まれた。明治初期の大火により多くの家屋が焼失したが、当時は廻船問屋業が全盛を極めていたので、その財力により岩瀬独自の家屋様式「東岩瀬廻船問屋型などの家屋として再建されたという。
現在の家屋の多くは「岩瀬大町・新川町通り」を表構えにし、河岸を背にして建てられたという。



















北前船の廻船問屋の土蔵を利用した大きな酒屋さんの建物は奥行きが深く、後方にはガラス工房や陶芸工房、レストランもあるという一大文化施設となっている。



















この通りある「岩瀬大町公園」には、岩瀬が大正期に日本でいち早くコンクリートやガス灯などの西洋建築物を取り入れた街で、大正期の岩瀬の町並みを今に伝えるガス灯があった。また、中央に北前船のブロンズ像が置かれていた。



















町屋を利用したレトロな建物を利用した銀「旧岩瀬銀行」から「北陸銀行」になった銀行や「北日本新聞」の新聞社があった。






























ここは防火土蔵造り型の町家で、2階は黒漆喰で開口部は重厚な窓枠である。1階は大戸の横は出格子(スムシコ)となっている。



















「佐藤釣具店」の看板は、太い枠の中の細い金網に店の名前と釣り竿や魚が絵が貼られている面白い看板である。



















昼時になったので、この通りにあった喫茶「アップリコ」でランチとコーヒーを頂き一服した。



















さらに歩くと、大きな杉玉が玄関の上に架かっている「「枡田酒造店」があった。明治26年創業の造り酒屋で、富山を代表する吟醸酒「満寿泉」がある。



















「大塚屋製菓 」では、丸いのが普通だが岩瀬だけという三角の「どらやき」があり食べてみたら、そんなに甘くなく優しいおいしさだった。地元の人もよく買いに来るらしい。


2019年12月15日日曜日

北信越ドライブ(7)飯山②

北信越ドライブ(6)飯山①の続きで、「展示試作館・奥信濃」の建物は高台にあるので、前に出ると眺望が良い。奥の山並みの手前にある小高い山は「飯山城」があった所である。飯山城は、戦国時代に上杉謙信が建てた城だという。その奥には「千曲川」が流れているが、先日の台風19号で決壊した所は長野市の方であるが、この辺りは「千曲川」に流れ込む支流が氾濫し、その近くの商店街は泥だらけになったという。テレビでは長野県では「千曲川」だけを放映していたが、この辺りでもあちこちで浸水被害を受けたという。



















 続いてその隣にある「常福寺」に行った。高い階段を上ると山門があり、その奥に本堂がある。
























ここは、飯山藩主・佐久間備前守が城下町の経営のために、市内小境から寺領を与えられ移転させたという曹洞宗のお寺であるが、藩主の信仰の厚さがうかがえるという。



















またここは、「いいやま七福神」の大黒天も祀られており、付近のお寺を巡って御朱印を集めて色紙を完成させる「七福神めぐり」ができるようになっている。



















山の懐に点在する寺々の歴史に触れ、飯山を訪れた文人墨客の足跡をしのぶ散策に適した「寺巡り遊歩道」がある。もっと時間があれば、じっくり歩いてみたいところだ。



















ここから下へ降りると「高橋まゆみ人形館」という人形作家の館があったが、その向かいには蔵の中で楮を手漉きによる和紙を纏った「内山紙作り」のアクセサリーが並べられていた。飯山独自の工芸品だろう。



















家内が記念に手頃な値段の「内山紙作り」のイアリングを買った。



















歌にもある「銀座の柳」の2世だという木があった。
























昼時になりお腹が空いたので、その隣にあった食事処に入った。ここで「伝統郷土食」という笹の上にコシヒカリのこめにゼンマイやシイタケ、卵など載った昔ながらの作り方というものを食べた。




























 その先には単線の「JR飯山線」のレールが走っていた。

2019年12月11日水曜日

北信越ドライブ(6)飯山①

北信越ドライブ(5)野沢温泉②の続きで、その後、117号線を通って、飯山市に入った。飯山は城下町の面影が残る静かな町という。北陸新幹線も止まる駅であるので、ぜひ見たいと思っていた。まず、飯山藩主の菩提寺である「中恩寺」を訪ねた。



















階段を上がり山門をくぐると、広い境内があり、参道の両側に灯篭が並んでいて、その奥に本堂がある。浄土宗のお寺で、飯山藩主であった松平氏、本多氏の菩提寺で、歴代藩主の墓所がある。屋根はやはり金沢のお寺のとは随分違う。



















本堂横に立派な玄関屋根を持った庫裡がある。



















 その庫裡の玄関の上に「中恩寺」の扁額があった。



















本堂の上には、本多廣考が徳川家康より拝領した黒本尊は護国殿に安置し秘仏として毎年8月15日にのみ開扉していると案内板に書かれていた。
次に、商店街のある通りに行くと、ここは雪の深いところであるが、「雁木」という店の前の歩道の上に、雪よけの屋根が付いている。新潟県の豪雪地帯の商店街によくあるもので、雪が多く降っても店の前の所は歩けるようになっている。



















この辺りの店はやけに「仏壇屋」が多いが通称「仏壇通り」と言われている。この辺りは浄土真宗のお寺が多く、金箔をたくさん使った仏壇が多いが、「金沢仏壇」もそうである。



















この先の上を上がると「展示試作館・奥信濃」という所があった。ここには、地元の工芸品や民芸品などが並べられていた。また、金沢のひがし茶屋街の金箔屋さんにもあるが、ここのトイレも純金箔製のトイレがあり、びっくりした。
























 ここに、廃業した寺にあったという仏像の「不動明王」の両側に「歓喜天」と「尊皇王」(?)の三像が置かれていた。この像は室町時代の作だと、ここの案内人が言っていたので、貴重なものだろう。