2016年8月29日月曜日

里見町、水溜町界隈(2) 水溜町 国際交流サロン(ランマ展)

里見町、水溜町界隈(1)の続きで、その後、竪町商店街から中央通りを渡って「中田天狗本店」の横の細い通りに入り「水溜町」のほうに行った。ここにも武家屋敷の土塀がいくつか残っていた。




















ここの通りにある「河村家住宅」は、「こまちなみ保存区域」にあって街並みを象徴する貴重な歴史建築であるという。




















曲がり角には、武家屋敷の塀が見事に張り巡らされていた。その中の庭に樹高23m、幹周1.8mという2本のモミの木があり、武家地としての歴史的風情が残るひっそりとした街並みの中で、ひときわ目を惹いている。














































その塀の通りの向側に「水溜町」の標柱があり、その由来は「犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名が付いた。元禄年間に60m余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った」と記されていた。


























その後、広阪にある「城南荘」(旧横山邸)の裏にある「石川国際交流サロン」で「明治、大正、昭和のランマ展」をやっていたので見に行った。














































ここには、透かし彫りを施した彫刻欄間が多く並べられていたが、加賀藩や石川県にあったものとは違い、太平洋側のものだろうということであった。日本海側のものは、積もる雪に耐えられるように太い木で作られているが、ここにあるのは薄いものだという。昔は糸鋸を手で動かしながら彫ったというから大変な作業だったろう。非常に細い部分があったが、ちょっと下手をすると折れてしまいそうだ。








































下図の作品は、100年前に福井の料亭にあったものだと言っていた。花瓶とカニが刻まれていた。




















座敷の2部屋は、ビデオ撮影をやっているところで入ることはできなかったが、ここに展示されている欄間は富山の井波の木彫師が作ったものだと言っていた。井波といえば、日本でも有数の木彫師がいるところで、太平洋側のものとどう違うのか見たかったが。




















次に金属に異種金属を埋め込んだ「加賀象嵌」は藩政期から「金沢の伝統工芸」の一つでよく知っているが、「木象嵌」というものを見た。一枚の木に違った種類の木を隙間なく埋め込んで、ある図柄を作るもので、ここではテーブルやイスに魚が埋め込まれていた。木の色合いの違いや木目によって、よく魚が表現されていて、面白いものを初めて見ることができた。




















2016年8月25日木曜日

里見町、水溜町界隈(1) 里見町

金沢の中心部は、藩政時代に作られた道路や用水といった町の骨組み、武士の町、町人の町の区分を残しながら、その上に現代までの市街地が積み重ねられ形成されたきた。市内のあちこちにかっての町の歴史を色濃く残す町並みが金沢の魅力となっている。
金沢市では、市内でもとりわけ歴史的な町並みが残る茶屋街(ひがし、主計)と寺院群(寺町、卯辰山麓)を「伝統的建造物群保存地区」と指定しているが、これ以外でも、裏通りを歩いていると「こんな町が残っていたのか」と思うような町が残っている。このような「歴史を感じさせるちょっとしたいいまちなみ」を「こまちなみ」と名付けて、金沢市では保存地区としている。(金沢市のパンフレットより)
今回は、「こまちなみ保存地区」となっている武士系の屋敷が残っている「里見町、水溜町界隈」を歩いた。
まず、柿木畠から里見町方向に歩いていくと、築150年という武家屋敷風の「旅館中むら」がある。昔ながらの和風の雰囲気を懐かせる店構えである。外国人観光客は、こういうところに泊まりたいと思うのであろうか?




















そのすぐ先に「鞍月用水」が流れていて「あかねや橋」という藩政期からあった橋がある。この辺りに、茜屋(あかねや)理右衛門という染物師が軍用の旗や指物を染めていたことから付いたいう。




















今日の「鞍月用水」は水の量が多く流れていると思ったが、それでも最近は水の量が減ったと聞いた。


その先を左に曲がると「里見町」の細い通りである。




















通りの左手に、古そうな佇まい家の前に「染」のマークに「加賀友禅 奥田」と書かれた茶色の暖簾が掛かっていた。(藩政期の長屋門を改修したらしい)




















その隣の屋敷の前に「里見町」の標柱があり、「加賀藩士、禄高1200石の里見氏の屋敷があったことから、この名は付いた。享保のころまでは、竪町・竪町後丁と呼ばれていた」と刻まれていた。


























この屋敷は「中西家」の住宅で、「建築時期が昭和初期の建物であるが、入母屋の屋根形式など、かっての武家屋敷に匹敵する格式高い姿を示すとともに、武家に準じた堅固な門および塀を巡らして、その中にゆったりとした前庭および土蔵を備えている」と看板に記されていた。




















門の屋根の下にも格子が付いていた。




















その斜め向かいにも、大きな屋根を持った「アズマダチ」の屋敷が2軒並んでいて古そうだ。門や塀は新しく改装されていた。




















門の隙間から前庭をのぞくと、たいへん大きな灯篭が見えた。




















里見町から竪町方向の通り屋根下に欄間のように彫刻された門を持ち、きれいに改修された土塀を持った武家屋敷風の家もあった。




















竪町商店街に入り、「金沢アートの新名所」としてプロジェクトマッピングを見せるカフェ店があったが、最近はこういう店もあるのかと思った。





2016年8月21日日曜日

超雲寺(旧中川家)(2)

超雲寺(旧中川家)(1)の続きで、その後、土蔵の前の上方を見ると「カゴ」が置いてあった。平士以上の武士は「藩主のお目見え」が許されていたので、登城の際などに使われたいてのであろうか?




















土蔵の扉は格子戸になっていた。




















写真の植物は町中では見れない珍しいものだという。


























土塀は藩政期当時のもので傷んだら補修しているが、金沢市の助成金はわずかだと言っていた。重要伝統的建造物保存地区と違うので、助成金も少ないのか?維持するのも大変らしい。




















庭園の隅に井戸があったが、昭和30年ごろまではよく使っていて、すいかなどを冷やしていたと住職さんが言っていた。




















座敷は普段使われているので見れなかったが、座敷から縁側を通して庭を鑑賞するようになっている。




















廊下には片側が「蔀戸」になっていて、下側の取っ手を持って上に引き上げて、引っ掛けることにより扉が開き、外の風を全面的に取り入れることができる。現在はお客さんの控室から本堂への通路となっている。




















大通りの横の小道には、長町武家屋敷に2,3軒残っているのと同じような「長屋門」があった。




















その玄関の右側には、外の様子を監視するための「武者窓」があり、門の下方は長町武家屋敷の長屋門と同じように戸室石が使われていた。




















長屋門の内側から見ると、左側には「中間部屋」があり、右側には2頭がいたと思われる広さがある「厩」があったが、ここも現在は物置として使われているので中は十分に見れなかった。




















本屋は、藩政期は平屋だったが、明治になって2階にしたらしい。




















敷地の裏側に「大野庄用水」が流れているが、ここに橋が架かっており、「超雲橋」の名前が付いていた。




















長町武家屋敷の平士の住居として「旧高田家」が観光客に見られるようになっているが、現在は屋敷はなく、庭園も再現されているだけだが、ここは江戸時代の住居、庭園がそのまま残っているので、よっぽど見ごたえがあると思う。


2016年8月17日水曜日

超雲寺(旧中川家)(1)

今回は、芳斉にある浄土真宗のお寺の「超雲寺」に行った。
ここの住職さんのお父さんとは、随分前から知っているので、あらかじめ連絡をし、仲間と一緒に尋ねた。




















超雲寺は一向一揆時代には、寺井辺り(?)にあったらしいが、江戸に入り金沢に移り、江戸時代は3か所場所が移ったという。幕末には、東末寺辺りの極楽橋の横にあったのが古地図に載っている。




















明治に入って、今の玉川図書館辺りに移ったが、明治の中頃に専売公社を作るというころで、現在地の「旧中川家」の敷地に移ったという。「旧中川家」は今の「松枝緑地」にあった「中川八郎衛門」の分家で、400石の平士であった。
写真は本堂で、その裏に檀家さんのお墓がある。




















境内にある梵鐘は戦前に供出されたが、戦後すぐに作られたという。




















門の横には見事に「百日紅」のピンク色の花が咲いていた。




















住職さんの住居の玄関の横には藩政期の「旧中川家」の本屋の玄関であろうか?その両側の白壁に「花頭窓」の古めかしいデザインがなされている。




















家の中に入り、90歳を超える住職さんのお父さんから説明を受けた。




















まず、400坪を超える広大な「旧中川家」の庭園を見せてもらった。江戸時代からの松や椿の木、石や灯篭が置かれていた。これを維持していくのは大変なことであろう。








































建物は本屋が間口9.5間(17.2m)、奥行き9間(14.5m)あり、独立した茶室がつながっている。








































茶室は半鴨居四畳半本勝手という。小さな障子のあるところが「躙り口」であろうか。現在も普段使っているところである。

2016年8月13日土曜日

歴史博物館 デジタルアート

今回は、本多の森の「歴史博物館」で、コンサートと光のデジタルアートをやっているということで孫二人連れて、五人で行ってきた。(8月5日)



























午後6時ごろに着いたら、歴史博物館の建物の間にはすでにコンサートが始まっていて、何人かの人が聞き入っていた。。トランペットやホルン、トロンボーンなど金管楽器の演奏である。クラッシック音楽であるがよく聞いた曲も何曲かあった。




















美術館側の広場には、ビールやラムネ、かき氷などの屋台や小さな車での店が並んでおり、孫たちはそちらのほうが興味があるようだった。




















午後7時を過ぎると周りが少しづつ暗くなり始めつと、プロジェクトマッピングの器械で建物に移しテストを始めていた。








































さらに暗くなり、通りの手前側の建物は前面だけで、奥側は前面と側面が映されていた。







































さらに暗くなってくると、色鮮やかな幻想的な雰囲気になってきた。このような建物に映しだすプロジェクトマッピングは「金沢城の五十間長屋」や「東京駅丸の内」、「姫路城」など最近はよくやっていると聞いている。建物にやるのを「アーキテクチャープロジェクション」といわれる。





























































最近でも各地で行われる「花火大会」は若者達にも根強い人気があるが、映像技術が発達してプロジェクトマッピングもよくやるよになった。このプログラムを作る人も大変な作業なのだろう?




















この映像を長く見ていると飽きてきたので、今日は「県立美術館」もそうだが、常設館は午後9時まで開いていたので、歴史博物館の中に入った。金沢の中心街の「ジオラマ」が置いてあったが、孫たちがボタンを押し、どこにライトが点くか面白そうに遊んでいた。








































歴史博物館を出ると2回目の「コンサート」を暗闇の中で照らされて演奏していた。最近金沢ではこういうイベントがよくあるようになった。いろいろ巡ってみるのも面白そうだ。