2022年6月30日木曜日

早朝の兼六園(1) 山崎山周辺

 今回は、梅雨が明けて昼間は毎日30℃以上なので、涼しい午前6時ごろに久しぶりに山崎山周辺を歩いた。歩いている人はわずかしかいなかった。

放生池












スイレンは峠を過ぎたのか、わずかしか咲いていなかった。












随身坂











この山崎山の木々は「カエデ」や「トチノキ」など落葉樹が多く、秋には真っ赤なカエデなどで兼六園の中でももっとも紅葉のきれいな所である。











「小立野口」への道の脇には、明治42年に東宮殿下(のちの大正天皇)が行啓の際に宿泊する成巽閣の改修工事の時に設置されたレンガ塀の一部が残っていたが、耐震性がないので壊すがどうか議論されたいたが、塀の後ろに鉄製の支え板を付け残すこととなった。












築山の裏に回るとケヤキの大木が多い。その根元部分が横の木と重なり合っている。




















「辰巳用水」から兼六園に入る入口にある「沈砂池」の水もほとんど流れがない。


















京都の仁和寺にある五重塔を模した「御室の塔」の石塔
























築山の頂上には一服できる「御亭」が立っている。




紅葉の時期に「御亭」から見る景色は絶景となる。


















「御亭」前の斜面には大きな石が置かれている。(滝沢石)


















梅雨時期がすぐこの間終わったばかりで、まだ苔の緑が美しく見える。


















「唐崎松」のように横に大きく広がった「槙の木」(?)


















石組が素晴らしい「辰巳用水」からの取り入れ口で、穴の真ん中の石が「水分石」と呼ばれている。


















曲水には現在ほとんど水が流れていなく、底にある小さな石ころが丸見えである。最近「杜若」の生育が悪いので、その整備のため水を流していないのだという。


















「鶺鴒島」前あたりからみると「花見橋」が水面に映っていた。


















「花見橋」の下流側は、いつもなら「杜若」が咲き乱れているはずだ。


















わずかに咲いていた白い筋をもった「杜若」














2022年6月26日日曜日

野町界隈(2)旧三間道  諸江屋 少林寺

 野町界隈(1)の続きで、「川北整形外科医院」の横を曲がると、元の「諸江屋」さんの家の前に「旧三間道」の標柱が立っている。「上つるぎ道 下北國道」を描かれている。この標柱は、昭和43年の町名改正の折に、諸江屋初代以来住み続けた町名三間道が野町1丁目に替わるときに、「旧三間道」の名を惜しんで、店の前に戸室石の「旧三間道」の標柱を建てた。

蛤坂が土砂崩れで通行止めになった期間は、幕府巡見使を迎え、三間道をとおって北国街道に出て、城下に向かうルートとして使われた。

























以前は、ここに諸江屋の店があったようだ。下図の左下に「旧三間道」の標柱が見える。諸江屋の先祖が落雁屋としてこの地に移り住んだのが、1849(嘉永2)年という。初代畑野嘉平は足軽から内物屋(落雁屋)を志し、京都大徳寺御用達の亀屋某からその製法を学び、後に石川郡諸江村住んだようで、諸江姓もここから出たようだ。落雁というのは、糯(もちごめ)を原料とした炒粉を糖蜜で固めて木枠に入れ、方形にした総称である。本願寺5代綽如上人が北陸へ巡錫の折、この菓子を供されたところ、白地に黒ゴマが点々とあるのを見て、雪の上に雁の落ちるように似ているので落雁と付けた言い伝えられている。



















さらに先に、現在の「諸江屋」の当主の住宅がある。



















家の前に「五木寛之」の金沢の思いを描いた「加賀路」という文章が額に描かれていた。



















さらに右手には「少林寺」というお寺がある。臨済宗で開山は千岳宗じん禅師で、1638(寛永15)年に伝馬町に小庵を結び、それを少林寺と名付けた。1646(正保3)年に
現在地に移り、1653(承応2)年に3代利常から大きな寺院に建て替えるよう命じられた
千岳禅師の隠居所でったという。。


















山門脇にはめ込まれている「地蔵尊」は、外縁をそのままにした自然石に浮き彫り型の合掌体で連座に立つ石造である。
























寺宝として十一面観音像や菅原道真の象があり、本堂には13代前田斉泰から授かったとみられる「前田斉泰公奉納」の文字が刻まれた常夜灯がある。



















ここは三十三観音巡りの第二十七番所である。
























ここの鐘楼は「宮崎寒知」作で、名器のため太平洋戦争で金属回収を免れることができた。高さ138cm、口径77cmの梵鐘は音色がよく、毎土曜日6時からの一斉に鐘を鳴らすひとつである。


















鐘楼の銘文には「冶工 宮崎彦九郎義一」と刻まれているが、初代「宮崎寒知」であり、鐘楼のほか、茶の湯窯、仏具など数々の明器を残している。
























墓所には「宮崎寒知」や酒井直政の妻のお墓がある。酒井直政は13代斉泰の御奥小将横目として仕えた。



















さらに進むと「米永仏壇店」の看板がかかった町家があった。1階は古めかしい木戸が何枚も並んでいた。


2022年6月22日水曜日

野町界隈(1)因徳寺 中初商店

この辺りは随分前に野町通りの向かい側を紹介したが、今回は有松に向かって野町の通りの右側を歩いた。こちらの方は道を広げるために順番に後ろに下がっている。金沢で唯一「石置き屋根」が残っている「森紙店」は、「曳家工法」で後ろに下がった建物である。













その先には「因徳寺」というお寺があるが、ここも後ろに下がったおかげか、山門と本堂の建物が残っているが、塀が片側に少し残っているだけで、以前のお寺の様子とは変わっているように思われる。



















山門・本堂ともに六本柱で創建の年代に近い江戸初期の様式を残している。本堂の向拝虹梁および蟇股が趣深い造りになっている。本尊は一尺七寸の阿弥陀仏であるという。


















本堂の左には立派な鐘楼があるが、野町・寺町地区で毎週土曜日の午後6時に一斉に鳴らす鐘の一つである。











































境内には狂歌で一世を風靡した瀬波屋鶏馬の墓がある。


















さらに先には、金沢の藩政期からの有名な和菓子屋の「諸江屋」の新しく改装された店がある。一階屋根上に「落雁」の古めかしい看板がかかっている。


















屋根下の「サガリ」の下に赤い暖簾で「らくがん」と描かれている。店前には「金澤西會所」の標柱が立っていたが、藩政期には西町にあった「町會所」の西支所のようなところだったのか?藩政期の地図では見たことないが。


















その隣には、「天祐」と描かれた看板を見ても分かるようにかなり古い味噌醤油などを醸造・販売している「中初商店」という店があった。ここの店の前で写真を撮っていると、女将さんが出てきて「どうぞお入りください」と言われた。


















店の間を通り、その中には今まで見たこともないような吹き抜けの天井で、太い梁のほかに縦横無尽に張り巡らされた細い梁の奥に小さく明り取りの窓が見えた。ここは文政年間に建てられたものだというから200年くらい前のものだ。これまで見たものは幕末の約160年前のものが多いからさらに古いものである。その横には囲炉裏などがある居間で、トオリニワの奥には蔵があるという。今の店は3代前くらいの先祖が明治時代に買ったものだという。
























囲炉裏のそばに鎌倉彫のような立派な木で作られた衝立が置かれていたが、これは先代が中国などで買ってきたものではと言っていた。その上に家紋入りの提灯箱と大福帳が掛けられていた。


















店の間の2階には部屋があり、壁には障子窓が見えた。茶の間の上は廊下になっていて、さらに奥の部屋とつながっているという。ここは、藩政期の「北国街道」沿いだから、古い商家の建物が残っているのだろう。


















茶の間の囲炉裏跡の横の板の間を開くと、戦時中に作られた立派な「防空壕」が残っていた。金沢の町中で、こんな立派な「防空壕」を見るのも初めてだ。現在、ウクライナが戦争状態だが、こういう「防空壕」のもっと大きいものがたくさんあるのだろう。


















この建物も道を広げるために下がらなければならないが、女将さんは建物を残したいので、「曳家工法」で下がることを希望しているという。珍しいものを見せていただいた。
帰りにここの天祐味噌と醤油を買ってきた。


















2022年6月17日金曜日

スターバックス 有松

今回は、先日オープンした「 スターバックス 有松店」に行った。ここは家から歩いても15分くらいで来れる場所である。全国的に有名なカフェが近くにできるのもうれしい。以前は「ツタヤ」だったが、テレビの録画やスマホなどでも簡単に再生してみる時代になり、レンタルDVDやCDを借りる人もだんだん少なくなったのか?












駐車場の広さに比べ、店は小さいように見えた。












しかし店内は、販売スぺースやテーブル席の間隔も結構ある。


































店の外にも席があり、外国には多い外でコーヒを飲むのも気持ちの良いものだ。もっと席があってもよさそうだ。


















郊外の広いスペースがあるので、今はやりのドライブスルーも完備している。
























道路の向かいには、いつもお客さんが多い「丸亀うどん」の店がある。リーズナブルで、うどんに載せるてんぷらなどを自分好みに選べるので、大流行である。


















隣には、以前は私もたまに利用した「ココイチカレー」などいくつかの店がなくなり、大きなスペースで「スギ薬局」の建物を作っている。こんなに作っても大丈夫かと思うくらい店を作っている。


















さらにその隣には、洒落たレンガ造りが素敵な「ノバール」というかなり古くから頑張っている喫茶店がある。知人の娘さんがやっていると聞いたことがある。すごい立派なパフェを食べたことを覚えている。いつも車がたくさん止まっているのだが、常連さんがたくさんいるのだろう。


















その向かいには100円寿司で有名な回転ずしの「スシロー」の店がある。「南大通」も通りができたころは、かなりにぎわっていたが、最近はかなり静かになってしまったが、これを機会にまた賑わいを取り戻してほしい。