2017年7月29日土曜日

扇町、暁町、横山町界隈(2)兼六湯 兼六大通り

扇町、暁町、横山町界隈(1)の続きで、「西光寺」のすぐ近くに銭湯の「兼六湯」がある。ここの銭湯を目指して初めてくる人にとっては非常にわかりにくい場所にある。また、建物の玄関を見ても銭湯だと人目では分からない。



















今日は定休日で閑散としていた。大人440円とリーズナブルな値段である。銭湯好きの人にとっては、のんびりと入って憩いの場所だろう。



















中には、昔なつかしい番台があり、扉の向こうに洗い場、窓の外には小さな庭と露天風呂がある。街中で露天風呂が味わえるので、近所の人だけでなく遠くの銭湯好きの人、観光客など結構人が多いと聞いている。



















裏に回ると、銭湯の長い煙突が見え、駐車場には銭湯を守る地蔵さんが祀られていた。
























大通りに戻ると「旧九枚町」の標柱があった。「加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた」とあった。
























この前の大通りは、昭和に入ってから「公園下」から「賢坂辻」辺りまで、その後「田井町」、「旭町」まで通じ、住宅街が広がった所である。



















大通りの向側には「旧火除町」の標柱があり、「藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた」とあった。「旧馬場崎町」の標柱も、この近くにあり「藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた」とある。
























この付近に「田井用水」が流れている。この用水は田井町交差点付近から始まり、前回のブログで紹介した「西光寺」の前を通り、住宅地の裏を通り横山町と暁町の境から、材木町緑地脇を抜けて浅野川に注いでいる。この用水は、本来農業用水だったが、今では完全に住宅地になり、いつも水量は少ないという。
























大通り沿いには、もう一つの銭湯「みろく温泉」があった。ここも地元密着型の天然温泉で、神経痛や筋肉痛などいろいろなものに効用がある。

2017年7月25日火曜日

扇町、暁町、横山町界隈(1)広済寺 西光寺

今回は、「公園下」から「兼六大通り」の扇町、暁町、横山町界隈を歩いた。
まず、大通りの左側に「旧御小人町」の標柱があった。藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた」とあった。
























その先を右に回ると大きな寺の「伊佐山 廣済寺」があった。
この寺のパンフレットによると、創立は、文亀元年(1501)3月15日に蓮如上人の命を受けた江州広済寺十代厳誓房祐念の二男祐乗坊が、本山の別院尾山御坊の看坊職として派遣せられたのが初めである。
看坊祐乗房に引続き二代祐念房、三代祐盛房にいたる八十余年間は、加賀は浄土か極楽かと、他国からうらやまれる平和な善政が続いた。



















天正八年(1580)となった時、本願寺を敵とする織田信長の命を受けた柴田勝家が、越前から軍を進め、先陣佐久間玄蕃盛政のため、御坊は陥落したのである。看坊祐盛房は逃れて内川郷の山中に難を避け、村民と共に宗門を守った。今も山川・別所・小原・平栗・新保等に残る檀家によって昔の名残を留めている。



















尾山御坊の陥落で、内川郷に難を逃れた三代看坊祐盛房。四代祐玄房を経て五代祐益房の時、即ち寛永十七年(1640)に、三代藩主前田利常公から安江郷に寺地を、次いで現在地を賜って移転し、毎年蓮如・実如両上人の追悼法要を営み、御坊から伝わる宝物の開帳を行ったので、人々は「武佐の御忌」と呼んだ。この御忌には、石川門の外で百間堀上にある御坊の遺跡「おちょぼが井」からその昔朝夕仏に供える水を汲んだ当寺の侍女おちょぼが、雲を呼び雨を降らし、蛇体となって宝物にお詣りすると言われ、三月一日から三日間の御忌には必ず天気が悪くなり雪が降ると伝えられ、多くの善男善女が門前市を開いたと言われている。






















この寺にはお宝がいっぱいありそうなので、3月2日、3日の御開帳には、そのお宝などを見せてもらえるということなので、忘れずに行きたいと思う。
本堂の玄関の扉周りの彫刻は、私が最近見たお寺の中でも特に素晴らしいものであった。
























境内にある梵鐘




















「広済寺」のお寺の横の通りの向かいに、国登録有形文化財に指定されている築80年の町屋を改造した「あかつき屋」はゲストハウスとして外国人に人気がある。ここで泊まった外国人が隣の寺を訪れることもよくあるという。このお寺の玄関の彫刻を見ただけで、中に入りたいと思うことだろう。




















さらに奥に歩いていくと、玄関に大きな松の木はある武士系の「町屋」があった。




















続いて、近くの「西光寺」に行った。この寺は真宗大谷派のお寺で、越前西光寺永存に嫁した蓮如の妹栃川尼公が、その三男蓮実とともに河北郡に創立し、天正中ごろに金沢に移ったといわれる。以前は、寺の前に用水が流れていて「橋の上の御坊」と呼ばれていた。
津幡から藩命でここに移されたが、ひとつは一向一揆を起こさせないための予防であり、ひとつは家臣がたむろする住宅の真ん中に伽藍を置いて城の防備に役立てたという。




















金色の「西光寺」の扁額と梁が印象的である。



















山門横の土塀の裏に、俳句が描かれた石碑と菩提樹、小さなお地蔵さんと手水鉢があった。


2017年7月21日金曜日

雲竜寺

今回は、「医療センター」下にある「八坂五山」のひとつである「雲竜寺」に行ってきた。ここは観光・見物など謝絶であるが、お盆にお寺でお参りしてきた後に境内を廻ってきた。



















中央が本堂、右側が手水場で左側が庫裏




















本堂の玄関はかなり古めかしく、所々細かい彫刻がされている。



















鐘楼は昭和40年代にできたもので、小さいが立派に見える鐘もまだ新しく高岡銅器製造と描かれている。



















その横に「石川製作所」、「北日本紡績」や関連会社の従業員物故者の慰霊碑が建てられていた。



















庭もきれいに手入れされていて、池に鯉が泳いでおり、風流な趣がある。



















崖には石段があり、所々に灯篭や石仏が置かれている。上は「医療センター」となる。



















崖の石垣があるところに、一筋の水が坪石に落ちて音が聞こえ、やはり風流さが伝わってくる。辰巳用水の分流から流れてくるのか?
























大きな五輪塔などもある墓場



















墓の向こうの「安楽寺」側に竹林があり、その間を「源太郎川」が流れている。
















2017年7月17日月曜日

壮猶館(2)鈴見鋳造所 七尾軍艦所 

壮猶館(1)の続きで、加賀藩の軍事産業としては「五箇山の煙硝製造、土清水の製薬所、上野弾薬庫、小柳製薬所(鉄砲銃火器用火薬製造所)、鈴見鋳造所などがある。
下図は「鈴見鋳造所」の翻刻図である。



















上図の「物置」辺りが、山側環状線の「鈴見」交差点から鈴見台1丁目に入ったすぐの右手のコンビニ辺りだという。その横に「錐台所、水車」があり、その上部に「鋳造炉 5挺」が見える。この場所に石型を置いて鋳造を行っていて、できあがった砲身を錐台所に搬出されたという。



















近くの「鈴見どんぐり公園」の横には、水路の「いぞうば川」が流れている。
「土清水塩硝蔵跡」は説明板があったり、再現されているところがあるが、この「鈴見鋳造所跡」は、その遺構がほとんど残っていない。




















また、このころ江戸幕府が外国船からの防衛のために計画した台場と呼ばれる砲台を装備したように、加賀藩でも藩士の河野道義は、高島流砲術を勉強し、打木浜で大砲の試射を行ったという。



















「七尾軍艦所」は1861(文久元)年に、幕府より英国艦船が測量のために加賀藩に入ることもあると警告を受けて、壮猶館の組織の中から航海部門だけを独立させて、所口と西町に軍艦所を作ったという。金沢西町は公開学術学科中心で実習はなかった。今の尾﨑神社のある所と聞いた。七尾は艦船実習と軍艦根拠地になった。




















七尾軍艦所内に、加賀藩は「七尾洋学所」を設け、教師として「オズボーン」を招いた。
その当時に「道済館」という英仏学塾所があったが、日本人によるヒアリングやスピーキングを無視した文書中心の教育であったので、実際の外国人に接した教育が必要ということで「オズボーン」が選ばれたという。刀を差した侍姿の写真も残っており親日家であり、金沢時代に余暇を利用して金沢城内外の建物や庭園を見学したり、近郊で狩猟を楽しんでいる記録を残している。























「オズボーン」から教えを受けた語学生には、後に世界で活躍した化学者の高峰譲吉や理学博士の桜井錠吉などがいる。桜井錠吉はのちに「分かりやすい教え方で語学が非常に上達した」と言っている。



七尾軍艦所は加賀藩の軍港で、俗に「梅鉢海軍」の根拠地として、艦船の保守管理と操縦や測量などの実施訓練を行っていた。そして、ここにヨーロッパから購入した7隻の艦船の基地であった。
その中で、英国から買った艦船「発起丸」が宮腰の港に来た時に金沢の大勢の民衆が見に行ったことや、将軍が上洛するときの随行船として使われたことや、その修理が大変だったことなど、面白おかしく描かれた本「軍艦発起丸と加賀藩の俊傑たち」徳田寿秋著を2年位前に読んだことがある。軍艦発起丸には佐野鼎が搭乗しており、艦船の費用は、現在のお金に換算すると24億円に相当するという。


















2017年7月13日木曜日

壮猶館(1)

今回は、石川県立歴史博物の「れきはくゼミナール特別公演会」で、金沢星稜大学の本康宏史先生の「加賀藩壮猶館」の話を聞いてきたので紹介する。
加賀藩は、1794(寛政4)年に創設された明倫堂と経武館という藩校が陪臣とその子の教育機関として重要な役割を果たしてきた。しかし、19世紀初めになると欧米などの列強の進出が相次ぎ、13代藩主前田斉泰は海防のために能登を視察したり、1854(安政元)年に加賀藩洋式兵学校として「壮猶館」を創設した。
「壮猶館」は現在でも柿木畠の知事官舎の横に門だけ残っている。



下図は、藩政期の風俗画で知られる巌如春(明治、大正、昭和の画家)が描いたもので、上半分は「壮猶館」、下の半分は明治初期の洋学校で、金沢城内にあった致遠館である。左端に橋と用水が見えるが、西外惣構えの「宮内橋」付近にあった。
「壮猶館」は、もとは加賀藩士800石の大橋作之進の自邸に設けた私設研究所だった。大橋作之進は天文学の達人の西村太中に学び、西洋砲術などにも関心を持っていた。



















そして、長家の河野久太郎、菊池家の家臣の加藤久太郎や医師の黒川良安らが関与して、建物が整備されて「壮猶館」が設立された。
黒川良安は、13代前田斉泰の蘭医師となり、金沢で最初に種痘を試みた。「壮猶館」では翻訳校合方に任命され、蘭医師とともにオランダ医学書を呼んだ。これが西洋医学研究の始まりとなった。























教師には、鹿田文平、安達幸之助(大村益次郎の「鳩居堂」の塾頭、後に大村益次郎とともに京都で暗殺された)、佐野鼎などそうそうたるメンバーがいた。佐野鼎は西洋砲術師範として加賀藩に招かれた。また、英語力を生かして遺米使節団に随行し、帰国後「奉使米行航海日記」を13代前田斉泰に献上している。
























「石川県立歴史博物館」で、「壮猶館」の当時に使わていた書類などが展示されていた。
砲術に関しての生徒のノートの写し



















砲術洋式のテキストの一部



















「壮猶館」で使われていた「長押」



















「壮猶館」で使われたいた「拍子木」



















自然科学の英語本で、「壮猶館」の洋式兵学は翻訳から始まった。



















「壮猶館」での歩兵演習の教科書

2017年7月9日日曜日

ビタルコーヒー(俵町)

今回は、医王山スキー場近くの俵町にある「ビタルコーヒー」という店に入った。医王山スポーツセンターを超えてすぐのところだ。「見上山荘」の看板が掛かっていて、学生時代に医王山にハイキングに何度か行ったが、ここが出発点であった。



















その看板の後ろには全面に葉で覆われた池があり、隅の方に赤い「スイレン」が咲いていて、周りは自然豊かなところである。



















その脇に大きなログハウスがあり、そこが「ビタルコーヒー」の店である。



















店内にはすでに何人かのお客さんが入っていたが、常連客のようだ。この立派なログハウスは後で聞いたらもう20年以上経っているという。

































ここでは、医学博士と工学博士が共同開発したという「遠赤外線焙煎コーヒー」や「水素焙煎コーヒー」が頂ける。
「ビタルコーヒー」の特徴は生豆の厳選や不良豆を徹底的に取り除き、戸室石使用の遠赤外線機を使って焙煎を行い、コーヒー豆に均一に熱が伝わり、豆の組織を壊すことなくやきあがり、特にコク、キレの良さが特徴という。
「水素焙煎コーヒー」は、水素でコーヒー豆の酸化を防ぎ、水素を入れることで豆本来の香味・風味 が出てくるという。



















コーヒー博士が開発した健康に良い、右が「テアニンコーヒー」、中央が「水素焙煎コーヒー」、左が煎餅の「プラ煎」で、生姜風味で「カルシウム」、「マグネシウム」を多く含んだ骨粗鬆症や便秘の予防になるという。



















この店にいたのは名物先生の「イグ・ノーベル賞」も受賞したというコーヒー博士の「廣瀬幸雄」金沢大学名誉教授で、この人と話することができた。
小さい時から、疑問を持ったことは解明したいという探求心があり、発明のヒントは、日々の生活の中で、それを見逃さないよう、気になったことはノートに書き留めているという。40歳から始め、ノートは今では年に120冊以上になるという。以前のヒントを読み返し新たなものができるというすごい先生だ。



















この人の研究で思い出されるのは、兼六園の「明治紀念之標」の「日本武尊」の銅像になぜカラスが止まらないのかを解明して、カラス撃退法を開発したことで「イグ・ノーベル賞」をもらったことである。銅像の下に「三すくみ」の「へび」、「がま」、「ナメクジ」とよく似た自然石があるが、「へび」が「ナメクジ」にやられるのが分からないということで、実験をし、「ナメクジ」が通った道に「へび」を通らせると、次の日に木の上で本当に死んだという面白い話がある。


店の後ろの敷地にいくつかの建物があったが、ここで「赤外線焙煎コーヒー」などをつくっているのであろうか?