2018年5月29日火曜日

富樫バラ園 2018

富樫のバラ園のバラが見ごろと聞いていたので、これで何回か行っているが、家から歩いても十数分なので、カメラを持ってぶらりと見てきた。



















園内は、赤や白、黄、ピンクなど色とりどりのバラが咲いていて、いつもその見事さに感嘆する。

































「ばら」と言えば、やはり赤いバラが一番であろう。



















































ここのバラは、非常に大きく見ごたえがある。




















ちょっと変わったまだら模様のバラもあった。



















下の写真のばらには「モナリザ」という名前が付いていた。それぞれのバラに名前が付いていたが、簡単には覚えられない。



















「きれいなバラにはとげがある」というが、白いとげのあるばらが見えた。
























今日は天気も良かったので、バラ園の近くの木陰ではテーブルを出してグループで食事とおしゃべりを楽しんでいる人もいた。

2018年5月25日金曜日

鶴来巡り(5)小川幸三墓碑 一閑寺

鶴来巡り(4)の続きで、その後「鶴来レインボーライン」を通り、通りの山側にある「朝日小学校」に行った。この小学校は、まだ建って間もないのか新しく、立派な学校である。かなりの高台にあるので、下の鶴来の街に住んでいる子供たちも登校には大変だと思う。



















この学校の広場に「小川幸三」の銅像が建っている。この人は、1835(天保7)年に鶴来町で生まれ、29歳で亡くなったが、加賀藩の数少ない勤王の志士でる。医師の父のあとを継いだが、「医師は人を救うが、私は国を救うすべを学びたい」と、金沢・京都・江戸などを奔走し、13代藩主斉泰に建白書(藩が勤王方に就くよう勧めた書状)を再度にわたり差し出した。そのため藩は大揺れに揺れ紛糾した。佐幕派と尊王攘夷派を訴える長州藩が、国内紛争と発展していき、二度の建白書を藩に訴えた幸三を江戸や京都の事情に詳しい人物と見込んで、14代藩主慶寧が京都の守護警備に就くと幸三らの藩士に託した。しかし長州藩は京都を武力で攻め、慶寧一向は守護警備の仕事を放棄し、金沢へ帰った。この後、加賀藩の幸三ら尊王攘夷に携わった藩士や商人ら43名を捕らえた。そのうちの最も重罪とされた幸三らを含む4人が、ついに処刑されたという。しかし、その3年後の1868(明治元)年に幸三らが訴えたとおりに江戸時代は終わり、新しい明治時代になった。
ここ朝日小学校では、毎年10月25日に「菊まつり」を行い、小川幸三の遺徳を偲んだいるという。
























続いて、船岡山のふれあい昆虫館近くにある「小川幸三」の墓碑を見に行った。
最初は、この墓碑の位置が分からなく、近くの新しい墓地にお参りに来ていた地元の人に聞いて、ようやくたどり着いたが、杉の木立と石囲いの中にあった。



















正面の「小川幸三墓碑」の右わきには、幸三に寄り添うように「小川直子の碑」があった。幸三が処刑されたため結婚の期間は1年で、自分も自害しようとしたが、父や兄に止められ、学問の道に進んだ。そして、金沢女学校・県立女子師範学校教諭などを経て、54歳の時に、高輪御殿で明治天皇の娘の教育係となり、10年間務めたという。小川幸三を慕い続けた直子は、貞女、節婦と称えられ、鶴来の女性の会の人たちは命日の9月6日に遺徳を偲ぶ墓前祭を行っているという。



















高台を走っている「レインボーライン」からは、鶴来の街並みが一望できる。白い高いビルは銘酒「菊姫」の工場である。

































ここから金沢方向に戻ると、旧鶴来街道と交差する「月橋」の手前の道を曲がると「一閑寺」という、ちょっと変わった建物のお寺がある。ここは、かって曹洞宗宝円寺天徳院触下として、鶴来村拝領の後に開山されたが、今は浄土宗不動山一閑寺として、鶴来・金沢方面からの崇拝者が多いという。旧本堂を模して昭和43年に鉄筋コンクリート造りに改築されたという。町指定の名勝「鶴来八景」となっている。



















この中に入ると、大きな岩に掘られた高さ8mという「磨崖不動明王」がある。
泰澄大師が、月橋付近で目の病気に困っている村人に出会い、気の毒に思った最澄は、今の一閑寺裏の山肌に不動明王の像を彫り、村人に「この不動さんを白山神像と仰ぎ、一心にお祈りすれば、きっと治る」と言い残し白山に向かった。村人は一生懸命に像を拝むと、不思議にも眼お病気が治ったという。この言い伝えを聞いた宝円寺の住職が1631(寛永8)年に、この不動さんを大切にしようと一閑寺を建てたという。その後炎上したが、やはり宝円寺の住職が石工に岩肌の壁面に彫刻させ、高さ8mの不動明王を完成させたという。ここに入るとその大きさに圧倒される。
























この寺の境内の庫裏の裏に、1840(天保11)年に落慶法要が営まれた「一閑院法要搭」がある。この法要搭の中には、経石一つに一字づつ、経文の全巻67304字を書き納めていることや、当時の住職の「民心安定」「七難即滅」の願いが込められて建立したものだという。鶴来の町のこんな分かりづらい所に、このような立派なお寺があることを知らなかった。

2018年5月21日月曜日

鶴来巡り(4)金劔宮

鶴来巡り(3)の続きで、さらに上がると鶴来の中心街を通らないバイパスとしての「鶴来レインボーライン」の広い道があり、その向かい側に「金劔宮」がある。「白山比め神社」は何度か訪れているが、ここは初めてである。



















ここは、古くは「剣宮(つるぎのみや)」と呼ばれ、地名「つるぎ」の由来となっているお宮さんである。紀元前95年創建と伝えられ、鶴来の集落の発生とともにこの地にあるという。



















下図のように、「金劔宮」は古来より白山七社の一つに数えられていた。「白山詣」双六にも載っているところである。



















拝殿は権現造銅板葺きで、入母屋造り大唐破風の向拝を張り出している。

































本殿の祭神には、大国主命や大山昨命、日本武尊、菅原道真などを奉安している。丁寧にお参りしてきた。



















「拝殿」、「幣殿」、「本殿」の建物



















こちらの境内社は「恵比須社」で、社の右側の駒形の「夫婦円満 商売繁盛」の描かれていた立札に触ると御利益があるという。



















「金劔宮」の彦火火出見命(ひこほほでみにみこと)を祀る「乙劔宮」で、金運上昇のパワースポットだという。



















「金刀比羅社」は、崇神天皇を祭る金劔宮の境内社である。



















左奥には護国の英霊を祀る「招魂社」など多くの境内社がある。

2018年5月17日木曜日

鶴来巡り(3)鶴来別院 鶴来遊郭 不動滝

鶴来巡り(2)の続きで、さらにもう1本山側の通りに、大きなお寺の「鶴来別院」がある。




















鶴来の仏教に関する歴史は古く、特に浄土真宗は北陸拠点とした清沢願徳寺の開基や親鸞聖人廟所があることからも分かる。この建物は、地元民の浄財によって1899(明治32)年に落成した。この本堂は、ケヤキをふんだんに使った入母屋式平屋建桟瓦である。
明治期の建物としては県内有数の規模もので、白山市指定建造物となっている。

































伽藍のいたるところに唐様の形式が用いられ、細部に室町時代風の様式、手法が採用されているという。内外部に施した彫刻は、富山の井波から招いた工匠たちによるものだという。



















寺内に祀られている本尊




















「鶴来別院」の隣の小路辺りに、かって「鶴来遊郭」あったらしい。金沢の「ひがし」、「にし」に次ぐ規模のものであったという。鶴来は江戸時代より葉煙草刻み業が盛んだったが、明治になって葉煙草法の改正から転業を余儀なくされ、ここ「日詰町」の数名が「この地は居住地ながら、当町でも端にあり、しかも一方は崖斜地にて、商売は不向き」として貸座敷業の願いを出し、許可されて始まったという。貸座敷業とは「芸妓置屋」のことで、明治の中期には、手取川の氾濫により堤防の工事や七か用水の改修工事などで、人は集まってきて、ここ「鶴来遊郭」も盛況だったという。その後も石川線・金名線の敷設、手取水力発電工事などに関わる人も多く昭和初期まで続いていたという。



















この先に「金劔宮」へ上がる階段が二つあり、「女段」、「男段」がある。「女段」を上っていくと「鶴来節」の記念碑という大きな石が置かれていた。「鶴来節」は、昭和2年に鶴来遊郭温習で初めて紹介されたもので、鶴来の山紫水明・風光明媚さを唄にしようと地元に求めに応じて、金沢市の川柳家でジャーナリストの人が作詞し、遊郭の女将連によって作曲・振付されたものであるという。大正から昭和初期にかけて、県内外の文人墨客で賑わった鶴来遊郭を象徴する民謡で、これを鶴来民族保存会が建立したものである。



















さらにその横に「金劔宮境内不動滝」があるが、長さが15mの滝で、安政年間(1854~60)に福田美楯は厳冬時に不動滝が凍結する光景を「雌坂龍縣氷」として「鶴来十二勝景」のひとつに選んだという。「鶴来八景」として選定され「不動滝氷柱」とされており、古くから名勝地として親しまれているという。























「不動尊」の隣には、「岩清水薬師不動尊」があるが、この湧水は澄んでいて飲み水や洗眼によく、冬は暖かく夏は冷たく枯れたことはないと伝わっている。


2018年5月13日日曜日

鶴来巡り(2)武久商店 横町うらら館 菊姫 

鶴来巡り(1)の続きで、「飛騨屋」の1軒置いて隣に「武久商店」という、やはり「麹」を作っている古めかし町屋があった。



















ここは、「飛騨屋」とは違って店の前には商品が何も並べてなく、業務用専門でスーパーなどに「麹」を出している。店のおじさんが出てきてくれて「麹」についての詳しい説明をしてくれた。この人は若い時は別の所で働いて、60過ぎてから先代の跡を継いでやるようになったが、1人前の職人いなるまでに試行錯誤して納得いくまでには5年以上かかったという。その時の米の出来具合や 発酵させているときの、温度などの条件により随分品質が変わってくるという。
























ここの部屋の床をめくると、全国的にも珍しいという江戸時代からの石室があり、ここの中に長く保管して熟成させるという。こういうものがずっと残っているので、今でも品質の良い「麹」を作り続けているのだという。



















奥には、幕末に建てたものだという囲炉裏や高い天井に天窓と太い梁や柱がめぐらされている。最近は麹を使った肉、魚、野菜料理が見直され、私自身も昨日食べた塩こうじの焼き魚を食べたがいつもよりずっとおいしかったことや、レストランなどで麹を使った一味違った料理を出すことが多くなってきていおり、麹が見直されていることを言うと喜んでいた。
























さらに、その裏手の通りの角に江戸時代の大きな商家を改築した町屋「横町うらら館」がある。ここは、1832(天保3)年に建てられた建物で、現在は白山市の所有になっており、中が自由に見られ休憩できるようになっている。



















ここは江戸時代は、加賀藩の年貢米を管理する「蔵宿」をしていて、質屋、金貸しなど倉庫業と金融業ををセットしたような商売をしていたが、明治になって集配郵便局となり、その後町医者もやり、職業が変わるたびに建物の前の部分が変わったという。何しろこの大きさの家なので、かなりの財力があったと思われる。1階に10室、2階にも8室あり、2階の部屋の窓には、天保年間に建てたときに入れた赤いステンドグラスが、今でもある。囲炉裏のある茶の間やお座敷は紅殻色の壁の部屋や庭もある立派な部屋ばかりである。金沢でもこんなに大きな商家は知らない。



















通路には、「38豪雪」の写真が展示され、鶴来一帯は家々が孤立状態だったことがうかがえる。



















また、奥の蔵の中には、鶴来の「蓬莱まつり」の写真が展示されていた。ここ辺りの一番の祭りで、多くの人でにぎわい、終わった後でこの家の大きな部屋で、関係者が集まって 慰労会が催されるという。



















そこからすぐの所に、「萬歳楽」とともに「加賀の菊酒」として有名な「菊姫」の店がある。「菊姫」は、安土桃山時代天正年間(1570~1600年)に創業して以来酒造りを行っているという。その名前の由来は、白山ひめ神社の御祭神「菊理媛(くりひめ)」からであるといい伝えられている。
この建物自体も、看板や白い暖簾など古めかしい佇まいである。



















左隣には白い大きなビルになっていて、お酒の製造工場があり、全国的にも人気のあるお酒屋であることがうかがえる。



















ここで、「菊姫」についての案内冊子を頂いたが、立派な和紙で作られたもので、歴史やお酒の工程、お酒の商品やお酒についての解説などが描かれていて、お酒についてのいろいろな知識が得られる。
「山田錦」は、兵庫県三木市が発祥の地で、酒造りに適した「酒造好適米」の中でも特に良質の酒米で、「菊姫」は「山田錦」にこだわって使っているという。「山廃」とは、策作りの酵母を育てる「酒母」の作りに一つで、蒸米をつぶす工程を行わないのが「山廃酒母」であり、アミノ酸の旨みが多く残るという。