2017年8月30日水曜日

鳥越一向一揆まつり(2)

鳥越一向一揆まつり(1)の続きで、その後、イベント会場の裏を歩くいた。暗くなると、ろうそくの灯がともる10,000個あるという「万灯華」のイベント会場があり、幽玄の世界を演出するという。
紙に手作りした絵などが描かれ,中にろうそくが入ったぼんぼりが道の両側に並び、ボランティアの人が待機していた。



















この「万灯華」会場の道を超えると「二曲城跡」への入り口があった。頂上のほうが見えなく、木々が生い茂っていた。近くにいた人に聞くと頂上まで登るのに20分かかると言っていた。往復40分かかり、上でゆっくり見ていると1時間くらいかかることから残念ながらやめることにした。
この 「二曲城跡」は発掘調査が行われ、「鳥越城跡」と同じように一向一揆の最後の砦として国の史跡跡の指定を受けている。





















「鈴木出羽守」と「佐久間盛政」の一族将士遺徳の牌が並べられていた。戦国時代末期1580(天正8)年に、滋賀県の安土城下に一向一揆のリーダ19人の首がさらされたという。これは柴田勝家から届けられたもので、織田信長はご満悦だったという。その中に鳥越城にこもった白山麓山内惣庄旗本の鈴木出羽守の他一族が5人含まれていたという。この多さは山内衆の本願寺への忠誠を示すものだという。
1580年3月に本願寺と信長は講和するが、加賀では柴田勝家と一揆勢の戦いが続いており、金沢御堂を攻め落とされた一揆勢は、白山麓の各丘陵の砦に逃れたが、このとき勝家勢の佐久間盛政一族により鈴木出羽守一族らは殺されたという。



















国内最強の信長軍団が、地方の「農民軍」を一気につぶせなかったのは、武士1人に対し、農民10人が死んだという一向宗徒の命を惜しまない戦いぶりに、その因があるという。「進むものは極楽、退けば地獄」のムシロ旗が今も残っているが、鈴木出羽守らに𠮟咤激励された農民兵の凄まじい戦いであったことが偲ばれる。

























その横に「任誓之碑」があったが、任誓は浄土真宗の僧侶で、白山麓で人気を博し講和によって多くの住民から尊敬された人だという。任誓がなした御講帳「十一カ村御講」は白峰の「林西寺」に受け継がれているという。




















「玉砕 田原中隊の碑」という囲いがある立派な碑があったが、これは昭和に入って中国大陸で友軍を助けようとして玉砕したことを祀ってあるようだ。



















三人の胸像があり、下に「怨〇を超えて鎮まり給え」と記されていた。その横に「二曲村の歌」が記された碑があった。その詩の内容は、戦国時代の一向一揆の戦い、江戸時代の元禄に貢米で貧民が泣いたことや昭和の対戦で田原隊が玉砕したことが載っていた。




















 この辺りは「出合ふれあい公園」といって、景色のよい小川に沿って遊歩道が整備されていて、ゆっくり散歩するのにもってこいの所だ。


2017年8月26日土曜日

鳥越一向一揆まつり(1)

今回は、白山市の旧鳥越村で、一向一揆衆の最後の砦「鳥越城」で織田信長軍と激しい攻防を広げた先人の遺徳をしのぶ「鳥越一向一揆まつり」のイベントを仲間と一緒に見に行った。
まず、鳥越公民館で「一向一揆と白山信仰」という題で、石川県の中世の歴史の第一人者である「東四栁先生」の記念講演会を聞いた。



今年は山岳修行僧の泰澄が717(養老元)年に登って以来、白山が開山して1,300年にあたる節目の年である。
 泰澄が山頂近くの碧が池辺りで座して拝んでいると、池の中から九頭竜王のが現れ、さらに十一面観音が現れたという。このことが、白山縁起の泰澄和尚伝記に描かれているが、実在したかははっきりしないという。





「泰澄の木像」(林西寺蔵)

「ふるさと偉人伝」より
















熊野信仰も白山信仰も阿弥陀如来を本地仏としていて、本願寺八代法主の蓮如さんが吉崎から布教をはじめ、その後、北陸におけ政治的・宗教的世界に大きな影響を与えた。真摯な分かりやすい言葉をもって阿弥陀仏の教えを説く蓮如の教えが、社会不安におののく武士や民衆に受け入れられ、北陸の山野に急速に念仏の声が高まったという。







「蓮如像」(本聖寺蔵)

「ふるさと偉人伝」より















ところで白山の山懐にある山内の荘で最後まで戦った「鈴木出羽守」は本願寺から別格の扱いを受けた門徒の親方で、侍であったという。
また、加賀の「百姓の持ちたる国」の「百姓」とは、一般のコメなど生産する農民でなく、半分は農民を管理する地主と半分は門徒の武士であることを聞いた。
続いて、すぐ近くにある「鳥越城跡」や「二曲城跡」の解説や出土品などが展示されている「鳥越一向一揆歴史館」に行った。



















大日川をはさんで、「鳥越城跡」と「二曲城跡」がある山を表したジオラマがあった。どうしてここに砦を作ったか、非常に攻めにくい地形であったことが分かる。この少し手前は手取川から大日川に分かれる場所である。



「鳥越城跡」から出てきた長い刀と、発掘した時の状態が写った写真が展示されていた。
他にも出土遺物として、越前焼大壺や中国産染付皿なども展示されていて、その出土状態が非常に良いもので出てきたという。



















一向一揆時代の城と主な寺が記された地図があったが、この時代の加賀地方に非常に多くの城や寺があったことが分かる。その代表格が「鳥越城」である。
河北郡、石川郡、能美郡、江沼郡には、一向一揆衆の組が構成され、柴田勝家軍と対峙した城跡として、和田山城(旧寺井町)、波佐谷城(小松市)なども見える。



















下図は「西方寺大阪本願寺合戦絵巻」

























道の駅「一向一揆の里」前ではステージに軽音楽の演奏が行われていて、多くの人が聞き入っていた。他に太鼓演奏や獅子舞なども行われた。この日は最後に花火大会があり、夜の9時まで行うという。
過疎化が進んでいる旧鳥越村としては、多くの人に来てもらいたい村あげてのイベントであろう。

2017年8月22日火曜日

中川一政記念美術館

前回の続きで、「松任ふるさと館」の隣にある「中川一政記念美術館」に入った。中川一政の両親は石川県人で、父の実家は金沢の刀鍛冶の家で、また母は松任の出身である。一政にとっては「母のお里」である当地に昭和61年に「中川一政記念美術館」ができた。



















中川一政は明治時代に生まれ、大正時代に独学で画の道を歩み始め、戦後、神奈川県の真鶴にアトリエを構え、20年に及ぶ(福浦の時代)と呼ばれる苦闘の時期を乗り越えて、還暦を迎えてから独自の画風を確立したという大器晩成の人で有名である。
下図は在りし日の中川一政の写真である。1975(昭和50)年に文化勲章を受章しているが、このとき82歳である。
























常に自己革新を目指して挑み続ける一政が70歳半ばで選んだ箱根・駒ヶ岳は、その対象を見つめ、そこから受ける感動をその場で表現するという現場主義が生涯貫かれ、90歳超えても渾身の作品を生み出し続けた。下の出口の左側の絵が箱根・駒ヶ岳

中川一政といえば、向日葵や薔薇の油絵が一番の特徴であり、多くの向日葵など絵が展示されていた。



















「画の向日葵」と言へば、あのヨーロッパの巨匠ゴッホが有名であるが、ゴッホの向日葵に対しての自分の思いも綴っている。



















一政は油彩を中心に、岩彩や水墨、書、陶芸また挿絵、装丁そして短歌、詩、随筆などの文芸に幅広く芸術活動をしたという。下の書も80歳を過ぎてから描かれたものだという。90歳を超えてからの力強い作品も多く展示されていた。
























この建物の別館から見える日本庭園も素晴らしい。




















「中川一政記念美術館」を出て、松任駅の目の前に「D51の蒸気機関車」が飾られていた。D51はかって国鉄の花型蒸気機関車としてもっぱら北陸本線の貨物輸送に貢献してきた。国鉄の無煙化、電車化によってその使命を終え、ここに昔の雄姿をとどめている。この機関車の全走行距離は1,566,000kmで、地球を39周したことになるという。
昭和59年より駅前緑地広場に移転展示されている。















2017年8月18日金曜日

松任ふるさと館

前回の「千代女の里俳句館」の続きで、その建物の裏に回ると、「松任ふるさと館」と「中川一政記念美術館」があった。
表門は、銅板葺きの平唐門で柱の面取りなどに宮大工の作り方がみられるなど質の高いものだという。



















玄関に立派な春日灯篭がある。この建物の中は無料である。



















「松任ふるさと館」は、明治・大正・昭和にわたり、金融、米殻、倉庫業などの分野で活躍した吉田茂平氏の私邸で、元々は白山市安吉町にあったものを、大正元年に交通の要衝である現在の地に移築され、昭和57年に旧松任市がこの邸地を譲り受け開館したという。
























中に入ると、広々とした各部屋があり、立派な欄間そして朱塗り壁の格式高い書院造りの間や数寄屋風の化粧軒天井など、材料にお金をかけた「普請道楽」ともいえる、大規模で質の高い作りとなっている。
















また、この和室のすぐ近くに、板の間のフロアにテーブル、ソファーや暖房装置を備えたレトロな雰囲気の洋室があり、いかに贅を尽くしたかがわかる。



















和室の横には囲炉裏があり、上に「自在鉤」が掛かっている。ここに掛かっている紐を調節することにより火と鉄瓶の距離を調節する。そしてその下に鯉の木彫りがあるが魚は火の守り神として付いている。その下に鍋や釜、鉄瓶を掛けるものである。
























「紫雲園」は、前庭・側庭・主庭からなる築山池泉回遊式の庭園で、金沢の庭師などが大正元年から12年間かけて作られたという。「紫雲園」の名前の由来は、豊臣秀吉が好んだとされる全国的にも珍しいとされる紫雲石があることに因んでいるという。
池を中心にいろいろな形の灯篭や巨石が置かれている。池の向こうに小さく見えるのは四脚型雪見灯篭である。



















シラカシ、松、ヒマラヤスギなどの高木も茂っている。




















主屋の座敷から縁側を通して見える庭園は四季の移ろいを感ずることができるであろう。



















周りに巨石がある池には多くの黄色い鯉がいた。何も持っていなかったが、手をたたくと競うように寄ってきが、鯉に悪いことをした。



















この建物は、オエと呼ばれる田の字型の加賀地方独特の農家住宅な発達した平面形式だという立派なものだった。ケヤキによる太い柱、指し鴨居、帯戸、貫と白漆喰、上部の縦横の5本の太い梁の構成に、当時の大規模な農家住宅の特徴がみられるという。



















ここは、松任駅前にある便利な場所だが、人がほとんど見かけない。金沢の観光地は人がいっぱいで大にぎわいだが、金沢駅からJRで10~15分、バスでも20~30分で来れるところで、これだけ立派な庭園と建物がある。もっとPRすれば大勢の人が見学に来るのではと思った。

2017年8月14日月曜日

松任運動公園・あさがお展 千代女俳句館

今回は、白山市の松任総合運動公園で「あさがお展」そして松任駅前にある「千代女の里俳句館」を見に行った。
松任総合運動公園は、30年以上前から陸上競技場、プールなどスポーツのいろいろな施設がある公園となっている。



















ここで思い出すのは20数年前に私が勤めていた会社に、お客さんとして大学時代に同じクラブで活動していた者が来たので、久しぶりに会い、金沢市内のテニスコートの予約が取れなれなかったので、ここで社内の他の人も交じって接待テニスをしたことである。



















この公園の一角にある建物で「あさがお展」をやっていた。加賀の千代女が朝顔の句をよく書いていたので、白山市のシンボルの花となっている。



















小さなドームの中に多くの朝顔が展示されていた。



















内の孫も夏休みに入る前に学校で毎日観察していることを言っていた。私もずいぶん昔の小学生のころに朝顔をよく観察した記憶がある。
























ピンクや紫色など大きく開いた朝顔が並べられていた。



















続いて、松任駅前にある「朝顔やつるべとられてもらい水」で知られる江戸時代の女流俳人の「千代女の里」俳句館に行った。ここは、俳句を通した交流・体験活動のための拠点施設として設置されたという。



















千代女は17歳の時に松尾芭蕉のでしの美濃の「各務支考」(かがみしこう)にその才能を認められ、家族が不幸が続く中でも、俳諧の強い思いを持ち続き、非凡な才能をのばしていったという。
















千代女の俳句は、分かりやすい言葉で心の残る句が多く、女性らしい細やかな観察眼をもっていて、植物をはじめ、自然を季語に使うことが多いことが特徴である。
























52歳で尼となった後の10年余りは、間覚ましい活躍を見せ、1763(宝暦13)年に朝鮮通信使の贈り物として21句の俳句をしたためた掛物と扇子を加賀藩に献上し、海外に俳句が紹介された最も早い事例のひとつとなっているという。下図は、朝鮮通信使の行列を挿絵画家が史料をもとに、当時の様子を描いたものだ。
















千代女の居宅の一部の「草風庵」は二畳敷きの茶室の草案で、ここの壁に「朝顔や・・」の俳句のイメージが動画として移されていた。



















建物の裏の庭に「千代女朝鮮通信使献上句碑」が建っていた。