2022年1月28日金曜日

アールヌーボ展 国立工芸館(2)

 アールヌーボ展 国立工芸館(1)の続きで、その後、この建物の中央階段を通った。ここは総ケヤキの階段と柱の上部の漆喰による装飾レーリフが明治時代の面影を残している。












天井のシャンデリアとその周りの漆喰レリーフもレトロだ。














階段を上がると、石川県出身の人間国宝「松田権六」のアトリエが復元されている。2畳の畳敷き+アルファ程度の狭い部屋で、手を伸ばせば座ったまま必要な道具、材料などがすぐ取り出せる配置となっている。上に裸電球がぶら下がっている。

















 







蒔絵用の粉や道具を収める「粉箪笥」は、上部の引き出しは内部が黒漆になっていて、粉を処理する紛盤(蒔絵をする際に粉を受けるための大きな盤)としている。粉や道具は下部の引き出しに納めている。



















コンパスも含めた様々な太さの筆やいろいろな形状の彫刻刀や権六が愛用していた帽子・万年筆やメガネなどが展示されていた。
























その隣には権六の作品の器・皿・お盆や棗などが展示されている。























「松田権六」の再現したアトリエの裏に権六の作業風景がビデオで映されていた。ここで、ゆっくりビデオを見せてもらった。いろいろな大きさの彫刻刀や漆を塗る筆がさまざまあって模様によって使い分けていた。よくぞこのような細かい作業をやって、きれいな作品を作ったものだと感心した。




















江戸時代からあった型染に使う日本の染型紙の特集がヨーロッパの出版物で紹介され、それをヨーロッパでは実際の染織品ではなく、産業美術に応用さるための図案の参考とされ、様々な工芸品のデザインに取り入れられたという。



















大正時代の杉浦非水の美術誌「三越」や「芙蓉」の表紙デザインで、よく見ると当時のいろいろなものがモチーフとなっている。



















杉浦非水の図案集のなかで異色なものが「非水百花譜」で、野山に咲く花を写生して、それをもとに一流の彫師と摺師によって多色摺りの木版画にしたものという。



















三越呉服店 春の新柄陳列会に展示された杉浦非水の作品

















2022年1月24日月曜日

アールヌーボ展 国立工芸館(1)

 今回は出羽町にある「国立工芸館」で、「めぐるアールヌーボ展」を見に行った。(1月2日)「国立工芸館」に入るのは、できてすぐに入った時以来で2回目である。

この二つの建物は、明治時代に建てられら陸軍第九師団司令庁舎と偕行社で、現在は登録有形文化財になっている。




















1月2日ということで隣の石川県歴史博物館や美術館もやってないので、こちらもまだやってないと思っているのか人は少なかった。また、65歳以上無料ということでラッキーだ。



















フランス語で「新しい芸術」を意味するアールヌーボは、19世紀末から20世紀初頭にかけて広くヨーロッパで流行したもので、それに影響されたのが日本の美術であったという。日本人にとってアールヌーボは、最先端の芸術運動でであるとともに、西洋モードの(新しい様式とその流行)に還流した、自らの姿を映し出す鏡でもあった。アールヌーボの時代を代表するアンリ・ヴォンド・ドヴェルドやアールフォンス・ミュシャの作品、そしてアールヌーボ風の表現を取り入れた初代宮川香山や杉浦非水など、同時代の日本の工芸やデザインの展開を紹介するという。
























入ってすぐに、大きなタッチパネルに陶器が映されていて、指でいろいろ触ると器の裏側など自由に見ることができる。また向かい側にあるディスプレイにはいろいろな作品が映っていて、作品に触ると作家の紹介や作品の解説文が見れる。



















「金森宗七」の「花鳥紋様象耳付大花瓶」で、高岡銅器を使った作品
























エミール・ガレのガラスにエナメル線や金銀彩を文様を付けた作品



















ルネ・ラリックのブローチ「翼のある風の精」は金、七宝、ダイヤモンドを使っている。



二代横山弥左衛門の「菊花文飾壺」
























ガラスに描かれた植物の葉や水の中を泳ぐ魚の絵と色合いが素晴らしい。
























初代宮川香山の「色入菖蒲図花瓶」
























アールヌーボ様式の巨匠である画家「ミュシャ」が描いたパーティーのポスターで、くねくねうねる髪がアールヌーボの特徴である。



2022年1月20日木曜日

鼠多門(3)

 鼠多門(2)の続きで、門を出て階段を上り、「玉泉院丸庭園」側から鼠多門櫓の左端の入口から中に入った。


早速体温を測り中に入ると、1階は見学者はなぜか入れなくなっていた。本来の手摺のない急な階段が中ほどに見えた。


















そして現在の人が昇りやすいように緩やかな階段から上る。
























その横には、車いすの人も上がれるような昇降機もついている。
























階段横の柱や梁は木目を見てもケヤキで作られることが分かる。またはめ込みがしっかり分かる。












2階に上がるとかなりの広さがある。三十間長屋の建物の内部の幅は3間であるが、ここは4間だという。そして倉庫だと聞いているが何が置かれていたのかはっきりしていないらしいが、橋の向こうは金谷出丸なので武器もそんなに必要ないだろう。

















2階から尾山神社(金谷出丸)側を見ると橋の幅がかなり広い。


玉泉院丸庭園側を見る


石川門や三十間長屋と同じように上の方の梁は湾曲した松材を使っている。直角方向の長い梁は溝の中に入り込んでいる。



















屋根下は三角形の構造にした小屋組み、さらにその下は組物が縦横無尽に組まれており、釘がなくはめ込みでできている細かい作業である。



















壁板は地元産の「能登ヒバ」だという。


建物の端部は特に重さがかかるので、長い梁の下には壁を突き抜けた太い支え棒に支えられている。



















窓付近の作りは五十間長屋などと同じである。


2022年1月16日日曜日

鼠多門(2)

 鼠多門(1)の続きで、渡櫓の正面の門は現在ある金沢城の他の三御門に比べると、かなり違う点がある。瓦の下には銅板が貼ってあるのは同じだが、桟梁の下に肘木がある。その下の門や側面はケヤキの板に鉄板が貼られ補強され、見た目にも頑丈そうだ。










ここの門は、屋根を支える細い「樽木」があり、その下に太い「腕木」でささえられているが、その間は漆喰が塗られているだけである。












他の三御門(石川門、河北門、橋爪門)は腕木の間に等間隔に湾曲した「支輪」という化粧板が冠木と床梁を結んで強固にしていて、格式が高い門ということである。一般的には社寺で使われるが城郭では珍しいらしく、これは金沢城の門の特徴のひとつだという。

橋爪門の椀木と支輪



















石川門の椀木と支輪


















門扉は四方の枠に縦格子をはめ込み、横に貫を通して固定し、表面に厚い板を張ったものである。また、その表面に薄い鉄板を鋲でとめている。そして門扉は肘壺と呼ばれる金具(今でいう蝶番)を用いて鏡柱に吊られている。鏡柱には肘金を背面から打ち込んで貫通させ、側面から目釘を打ち、その先端を乳金具で隠す。門扉の裏側には、門を閉めるためのに閂が利用されるが、そのために鎹が取り付けられている。これを隠すための乳金物が門扉の中央に打たれている。




門の中はすべてケヤキで、天井には何本もの梁が縦横に張られ、その下に非常に太い梁や柱が組まれている。











ケヤキの木目がはっきりわかり、これがまた美しく見える。















柱の穴にはめ込まれた貫にくさびが打ち込まれているが、これは経年変化による木材のひずみを吸収するようにするためか?



















また、門の中の両側の石垣は、戸室石で切り石積みで積まれているが、城壁の石垣とまたちょっと違う積まれ方になるだろう。ここは従来の石垣と新しい石垣が混在している所で、黒づんだ石垣は古い石だといっていた。


2022年1月12日水曜日

鼠多門(1)

 今回は、1年半くらい前に復元された「鼠多門」について、オープン3か月後に描いた「下書き」が残っていたので、時期が遅れたがここで紹介する。

コロナ禍の影響で金沢の観光客が少なくなっていたが、9月末の4連休以降少しづつ人が戻ってきているようだ。鼠多門と橋がオープンしてから3か月ほどになるが、今でもまだ建ってまもないということで、県外の人や地元の人が見に来ることが多い。(2020年10月)

歴史上では、1630年代に建てられたというがはっきりしない。金沢城のほとんどの建物が焼失した宝暦の大火(1759年)ではここだけ焼けていなく約240年間残っていた。橋は明治10年に老朽化のために撤去され、櫓は明治17年に焼失した。


金谷出丸は、藩主の子供たちや正室、側室などが病気の場合の静養の場所、あるいは元藩主や藩主の母の隠居所として使われた。二の丸御殿は人が多くゆっくりできないが、ここは静かで落ち着いて過ごせるので、この橋は、藩主が二の丸御殿から金谷出丸に行くときに渡った橋だから、藩主が最も利用した橋だったという。5代綱紀が病気の娘の「豊姫」を何度も見舞いに金谷出丸に行ったという古文書ものこっているらしい。












また、藩主が兼六園や鷹狩などに行く時も、この橋を渡り金谷御門から行ったという(?)。金谷御門は今の旧四高記念公園側にあった。
















鼠多門の謎であるなまこ塀の漆喰の色が「ねずみ色」ということで、いろいろ議論が伯仲している。鼠が多かったという説や勝手口だからという説、他に宝暦の大火以前はすべての建物がねずみ色をしていたという説や4代藩主光高が権現堂(今の尾崎神社)を建てたときにけばけばしい朱色など極彩色の建物を建てたので、3代藩主利常は家康が嫌いだったので、あえて武骨な色の門にしたという説など、いろいろ空想するのも面白い。実際に見た人は、今は誰もはいないので何でもありだ。










金沢城の建物の再現は約10年おきで、最初に五十間長屋そして河北門そしてこの鼠多門である。次は仕上げだという二の丸御殿を建てる予定していて、まず政務をつかさどったという「表向き」からというが、まだわからない部分も多く、予算取りも大変なことだろうから、いつから始まるかわからない状況である。今回の鼠多門の完成が、谷本県政の集大成であろう。

それにしてもこの現在の鼠多門は、きれいすぎて不自然な感じがある。三十年もすれば威厳のある門に見えるようになるであろう。「玉泉院丸庭園」もできたすぐはきれいすぎて不自然な感じがしたが、五年経つと少し昔の大名庭園らしく見えてくるようになってきた。金沢城の三御門は。升形になっており、一ノ門と二の門がある格式高い門であるが、ここは少し雰囲気が違う。













両側の石垣に門が入り込んでおり、その上に渡り櫓としては珍しく2階建てになっている。建物の左右は非対称で左側が長くなっている。また、金沢城の特徴となっている黒い隅柱は、ここにはない。














石垣は、建物の前面に沿った石垣と、その前に小さな石でなだらかな傾斜がある石垣と2段になって、他の城内の石垣に比べてとてもきれいな石垣とはいえない。






屋根は平瓦と丸瓦が交互に仰伏させて葺いていく「本瓦葺」で、金沢城のほかの建物と同様に「鉛瓦」すなわち中は木で薄い鉛を貼ったものである。丸瓦の先端に「梅鉢紋」が鋳造で形どられている。
塀も金沢城特有の「なまこ壁」で、平瓦のすきまに漆喰をかまぼこ状に塗ったものである。ここで違うのはほかの建物のような白漆喰ではなく、白に炭を混ぜた薄黒いものである。この炭を混ぜた黒漆喰は、粘り気があり、かまぼこ状に塗るのに非常に苦労したと聞いている。