2021年2月27日土曜日

金石界隈(8)海禅寺 銭五公園 涛々園

 金石界隈(7)専長寺の続きで、その後、海沿いの道を少し行って、右側下曲がり小路を歩くと「西ノ宮神社」がある。歴史的には詳しく明記されたものはないが、727(神亀4)念創始といわれる大野湊神社の場外末社のひとつで、100年以上前より、漁師の町の身近な祠として古くから地域住民に親しまれている。




















神社拝殿正面に建つ灯篭には、銘文「献灯」と刻まれている。石材は瀬戸内地方から北前船で運ばれたものだという。
























この手水鉢は拝殿右側にあり、「元治元年 奉納」と刻まれている。



















「西ノ宮神社」から小路を少し歩くと浄土宗「海禅寺」がある。ここは数度の災害に遇い開山の年代は不明である。元来男僧寺院であったが、1911(明治44)年住誉法上人老和尚が僊化した後、女性が住職を務めるようになり、1922(大正11)年に現在の堂宇が再建されたという。
ここには、藩政期に宮腰で盛んであった人形浄瑠璃、竹本派の義太夫節の語り手太夫の墓や句碑などがある。この寺の裏の下に舞台の部材が保管されていたという。



















お寺の隣には「菅原社」と描かれた神社があった。その間に二つの観音様が置かれていた。

































このブログで紹介した犀川河口付近の「波除地蔵尊」がある付近は「金石海禅寺町」の名前があるが、以前にその辺りに「海禅寺」があったことからその名前がついている。





















さらに歩くと「金石銭五公園」があり、非常に大きな「銭谷五兵衛」の銅像がドーンとある。
金石の町ではいかに大きな存在の人物であったことが分かる。
銅像は航海服に身を包んで、懐にはそろばんを入れ、後ろ手には望遠鏡を持っている。昭和8年に津賀田勇馬が制作した。そして黒本稼堂がモデルとなっているという。黒本稼堂は五兵衛の一族として金石で生まれた漢学者で、五兵衛に一番似ていることからモデルとなったという。
























前面の銅板の「銭谷五兵衛翁銅像」の文字は16代当主前田利為によって描かれたという。
また右横の碑文は尾山神社の宮司で銭五研究の第一人者・鏑木勢岐氏の作だという。


















また公園内には、ここが以前松林であったが、2万本のクロマツを植林して砂防林を造成した金石の「唐三郎」氏の石碑が建っている。

「金石銭五公園」の向かいの大きな敷地に「金石小学校」のグランドと建物が見えた。



















ここにあの「粟崎遊園」に対抗した金石電鉄の「涛々園」があったところだ。1926(大正15)年に開業し、1931年まで閉園されていたが、戦後も再開されて1951年までやっていたという。大浴場や水族館、ミニ動物園、演技場などがあった。「粟崎遊園」に関しての資料などは「内灘歴史館」で見たが、「涛々園」に関してはほとんど見かけない。





「昔の金沢」より









「昭和初期の金石涛々園付近の絵図」より

2021年2月23日火曜日

金石界隈(7)専長寺

 金石界隈(6)大野湊神社 秋葉神社 妙覚寺の続きで、その後「専長寺」に行った。山門は、軸部が一間一戸控え柱付き棟門で、屋根は側面に唐破風をもつ平唐門であるで市内では珍しい。桟瓦葺きせ赤褐色の瓦だが、痕跡から当初はこけら葺きで、建築年代は江戸後期と推定されている。
















「専長寺」は、真宗大谷派の寺院で、開基は平家の末裔・波佐場次郎衛門賢周が、戸水村に無量寿寺を起こし、1465(寛正6)年、宮腰に移り仲之道場と称したことにはじまる。1472(文明4)年に本願寺八世蓮如上人より「法運専ら長久なるべし」として「専長寺」の寺号を賜った。たびたび類焼したが、加賀八家の横山家の浜屋敷を譲り受けて仮本堂とし、1795(寛政9)年隣地に本堂を再建し、現在に至っている。座敷と庭は横山家所有当時のものだという。本堂の屋根は緩やかな勾配で赤茶色っぽい見た目にも立派なものである。



















1927(昭和12)年専長寺20世住職の長女が長野県須坂市勝善寺の井上演良師のもとに嫁入りの折、親鸞聖人の頂骨を専長寺に分骨していただき、三重の小塔に納めて本堂に安置されているという。
























「〇〇和歌三郎之碑」が建っていたが、金石では歌舞伎が盛んであったが、その有名な役者の碑であろうか?
























本龍寺にもあったが土台が石で、上が金属で作られた灯篭もなかなかすばらしい。
























ここのクロマツは金石地区では初めての金沢市指定保存樹である。
























庫裏



















本堂・庫裏とは廊下で結ばれている茶室「松帆しゃ」(しょうほんしゃ)は、旧御塩蔵町にあった銭谷五兵衛の隠居所の茶室を移築したと伝えられている。南方の樹木の化石と伝わる特異な石を沓脱石に据えるなど、海運業を営んだ銭谷五兵衛にふさわしい演出がみられるという。




「パンフレット」より

法宝物文化財「絹本着色方便法身尊影」は、正面を向き青蓮花の上に立ち、摂取不捨印を結び、四十八の光芒を放つ方便法身尊影である。






「パンフレット」より

2021年2月19日金曜日

金石界隈(6)大野湊神社夏季大祭社殿地 秋葉神社 妙覚寺

 金石界隈(5)金石こまちなみ通りの続きで、その後「金沢港」から海側のほうに歩いた。

犀川の河口付近に「波除地蔵尊」が祀られていた。この地蔵尊は長州下関の「石工万石屋定五郎」の作である。藩政期にある漁師が大しけにあった際に、手招きするお地蔵さんに助かったという伝説が残っているという。海上安全と大漁を願う地元漁師たちの拠り所であるという。昭和41年に百年祭が行われた。































さらに海側に歩いていくと、砂浜に出る境界に、海岸線沿いにずっと2重の高い鉄製の柵が付けられていた。一部のみ砂浜に出れる所があり、そこから日本海を眺めた。そしてこの辺りに「日和山灯台」があり、「金石海水浴場」があった。私も小学生の低学年の頃に親に連れられてきたのをかすかに覚えている。





















「昭和初期の金石町の地図」より
















また今は「高校相撲金沢大会」が卯辰山相撲場で毎年行われていて、数年前に「100回記念大会」があったのを記憶しているが、昭和26年まではここの金石の砂浜で行われていたという。今はその面影が全くない。



















砂浜の近くに大野湊神社夏季大祭社殿地があるが、佐那武大神(大野湊神社の祭神)が海から来られたという伝承にちなんで、海の近くのここに仮社殿を作り、毎年夏まつりに神輿が最後にこの鳥居をくぐって浜にお戻りになる行事がある。そしてここで様々な祭典を行い氏子崇敬の参詣を頂くという。



















秋葉神社は文永年間(1264~1274)諸国に火災が頻繁に起こり、鎌倉幕府は畠山某、富樫某を使者として遠江の秋葉の神に鎮火を祈願した。下社の説、ご神体を頂き大野郷の宮腰の地に一社を建立して鎮火社と称した。前田家も祈願を命ぜられ、栄敬も厚かったという。

















ここの境内にある灯篭や狛犬は銭谷五兵衛の長男嘉太郎と船頭が、天保15年に奉納した。石材は北前船により瀬戸内地方から搬入されたものだという。



















この神社の脇に「旧横町」の標柱があった。
























その斜め向かいにある「金毘羅神社」の拝殿前に立つ一対の灯篭も同じ銭谷五兵衛の長男嘉太郎と船頭が、天保15年に奉納した。石材は北前船により瀬戸内地方から搬入されたものだという。そういえば10年以上前に香川県琴平町にある「金毘羅さん」の長い長い階段を登ったのを思い出した。



その後、裏道を歩くと「金石新町」の標柱が建っていたが、宮腰の町が形成されて以来、本町を中心に街並みが整ったが、初期からすると新しく作られた街だからその名がついた。
























その「金石新町」にある「妙覚寺」がある。開基は玄信と称し、石山合戦に出陣した後、七塚町遠塚に一寺を建立した。その後、1618(元和4)年に聖徳太子の絵像と「妙覚寺」の寺号を賜わった。宮腰には1742(寛保2)年に移転したが、天明年間の火災以来2回建立し、現在の本堂は1878(明治11)年の造営された。



















山門横の経蔵には10代住職賢護の手になる一切経の教本が保存されている。寺宝として蓮如上人筆の六字の名号や親鸞聖人の御真筆がある。親鸞聖人の孫の如信上人の作と伝えられる張り子の親鸞聖人座像も保存されている。


本堂前に建つ墓石は10代住職賢護のもので、仏教学ならびに真宗学を深く研鑽された人である。
























蓮如上人と教如上人の「分骨奉安」と刻まれた大きな石造物があった。


2021年2月15日月曜日

金石界隈(5)金石こまちなみ通り 要川 木挽川

 金石界隈(4)金石こまちなみ通りの続きで、さらに進むと町屋が何軒か残っている。こちらの町屋は、袖壁、サガリに玄関の横は格子を持った大きな戸がついている。ここに店があり、何か売っていたのだろうか?2階は低く防火のためか黒壁に分厚い格子戸がついている。側面は一面が下見板張りとなっている。




















こちらも古い家で、屋根の勾配が低く平屋かまたは2階が狭い部屋があるだけだろう。



















こちらの町屋はこじんまりしているが、赤戸室石の石積がなされていた珍しい家である。



















ここは、金石の町の入り口を取り囲むように流れている「要川」で、「元禄年中宮腰町絵図」にも載っていて、犀川に流れ込んでいる。
































昔、木曽街道の続きが松任より海岸筋を通って宮腰に入り、ここ「久昌庵」が終点であったという。この庵で休み、隣の茶店(番匠屋)で休んだという。この前には「南無阿弥陀仏」と刻まれた自然石が建っている。その後ろには、「六道御守護大慈悲地蔵」が安置されている。




















ここも門構えと石と木の塀は古そうだ。また、塀裏の松も立派な木で趣がある。



















こちらの川が宮腰から金沢城下へ木材を運んだという「木挽川」である。城下に入ると「大野庄用水」となり「長町」方面に繋がっている。非常に緩やかな傾斜なので、大野庄用水の水量が少ないときは、「木挽川」には流れが来ないこともあると聞いたことがある。
















「木挽川」と「要川」が合流して犀川に流れ込むところである。



さらに犀川沿いの左側には、「金石港」があり、「金沢市漁協」の建物と「船溜まり」となっていて、漁船が多く停泊している。



















船の中には、上部にライトを付けた「イカ釣り漁船」も停泊していた。