2014年4月28日月曜日

西茶屋街

以前に、このブログで主計町、東山の茶屋街を紹介したが、金沢のもうひとつの西茶屋街を散歩した。
広小路交差点から増泉方向に歩いて、すぐの左の通りに入ると、タイムスリットしたような茶屋街が広がっている。




















通りの入口に西茶屋街の由来を記した石碑があるが、東山と同じで1820(文政3)年に設けられ、今でも芸妓を抱える茶屋や料亭が並んでいる。




















その石碑の隣には、ここで青年期を過ごした大正時代のベストセラー作家の島田清次郎の文学碑が建っていて、代表作の「地上」の一節が刻まれている。




















清次郎が過ごした「吉米楼」跡に茶屋家屋の外観を再現した「金沢西茶屋資料館」に入った。




















観光ボランティアガイドさんが案内してくれ、丁寧な説明を受けた。
2階には壁が紅殻色の部屋があり、螺鈿で模様されたテーブルや棚が置いてあり、お座敷遊びに使われる太鼓などもあった。床の間を背にして客が座り、屏風の前で芸妓が舞を見せるところである。








































ガイドさんの話では「壁の紅殻色は周りを薄暗くして見ると、芸妓さんの白い化粧をした顔が引き立ち、艶かしく見えるからだ」と言っていた。
「一見さんお断り」の敷居の高いところで、なかなか入れないが、最近では「さくらフェア」の時などイベントがあるときは、いつもより安い値段で踊り、料理、芸妓遊びなどが楽しめるという。
ここの芸妓さんは、従来の慣習にとらわれず、新しいことをやるらしい。大正時代には客をびっくりさせようと「飛行機」や「ラジオ」などの風変わりな源氏名をもつ芸妓がいたという。

島田清次郎は美川出身で、大正時代にベストセラー「地上」を出して一躍ときのスターとなったが、海軍少将の娘とのスキャンダルで失脚した跡は体調を崩し早死にした。
島田清次郎自体が物語りになるという波乱に満ちた人生であった。




















「金沢西茶屋資料館」の横には、これもまたレトロな建物の「西検番所」があった。ここの2階で芸妓
さんが定期的に稽古しているという。








































ただ「西茶屋街」は土曜日だったが、「ひがし」に比べて人が少ないという印象であった。また茶屋もひっそりしていた。(夜は違うのか?)コーヒーを飲んで一服しようと思って、コーヒーと書いた店に入ったが、「午前中だけで終わり」とそっけない返事であった。
ひときわ人が多かったのは「西検番所」向かいにある甘納豆の「かわむら」で、金沢では一軒だけの甘納豆専門店である。キノコや海藻からとれる糖で甘みをつけ、豆本来の味を引き出しているという。








































また、店の前で多くの人がアイスクリームを食べていた所は「中谷とうふ店」で、私も食べて見たくなり、食べたらほんのりととうふの味がしておいしかった。店内には大豆をつぶす古めかしい石臼が置いてあった。





















この「西茶屋街」で有名なのは、ろうそくの灯り火に浮かび上がる笛と鼓の音色が調和する「一調一管」で、全国版のテレビ放送でやっていたのを見たことがある。実物は見たことがないので、一度は見たいものと思っている。茶店「美音」と「明月」の女将がやっていて、仕事も芸もライバル同士であるが、ひとたび[一調一管」になると息がぴったりあうという。





















「四万六千日」のトウモロコシが玄関にぶら下がっている店もあった。




















北陸新幹線開業に向けて、金沢の三茶屋の一つとしてこれだけのものが残っているのだから寺町寺院群と連携して、人がたくさん来る活気のある場所にしてもらいたいものだ。

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2014年4月23日水曜日

旧前田侯爵邸和館、池上本門寺

前回の続きで、旧前田侯爵邸洋館の裏に書院造りの「和館」があった。ここは洋館ができた翌年(昭和5年)に外賓の迎賓館として建てられた。




















和館内部の大広間には、重厚な床の間、違い棚のほかふたつの広間の間には透かし彫りのすばらしい欄間などを見ることができた。




















また、水屋、寄付きなどを備えた茶室が広間の奥にあった。そこの引き戸には草花が描かれていたが、、ガイドの人がスモールライトを当てると草花が浮き上がるように光って見えた。何か特殊な材料を使っているのであろうか?








































縁側からは五葉松などの樹木、流れのある池、芝や石の配置が見事な庭が眺められ、落ち着いた雰囲気が味わえた。




















兼六園にある月見灯篭に似た灯篭やミニチュアのことじ灯篭もあった。




















また、駒場公園の入口の右側に「前田育徳会」、「尊経閣文庫」の表札のかかった建物があった。ここには加賀百万石前田家の蔵書や美術品などの国宝や重要文化財が数多く保存されているということであるが、非常に貴重なものがあるということで中には入れなかった。




















16代前田利為は「加賀松雲公」や「加賀藩史料」などの編纂をしたり前田育徳会の財団を設立しこの建物を建てたりし、加賀百万石の偉業の保存に力を注いだ。

次に大田区池上にある「池上本門寺」に行った。ここは日蓮聖人が1282(弘安5)年に入滅(臨終)された霊跡である。
階段を上ると総門があるが、ここの扁額の「本門寺」は後で知ったが、琳派の創始者でもある本阿弥光悦の筆だそうである。




















「大堂」は空襲で焼けてしまったが、昭和39年に鉄筋コンクリート造で再建され、日蓮聖人の御尊像が安置されている。




















「常唱堂」というところは「お祈りすると目がよくなる」と書いてあったので、最近目に不安がある私としては丁寧にお参りした。




















その隣の「鐘楼堂」に鐘が二つあったが、ひとつは空襲で火を被り亀裂と歪が生じたため傍らに仮安置されているという。




















富山県新湊市の美術会社より奉納されたという「日蓮聖人像」


























関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち一番古い塔であるという。2代将軍の徳川秀忠が悪性の疱瘡にかかり、法華信者であった乳母岡部の局がここの12世に病気平癒の祈願をし、その甲斐あって快癒したので、そのお礼として建立したという。


























少し歩くと、立て札に「力道山の墓」の矢印があったので見に行った。力道山といえば我々世代の英雄で、子供の頃にテレビで外人プロレスラーを空手チョップでやっつけているのをよく見たものだ。「ブラッシー」が相手の額をかんで口を血だらけにしているシーンをテレビ見ていた老人が興奮して亡くなったというニュースがあったのを覚えている。




















また、前田利家の室の「芳春院」のあとに人質として江戸にいた3代利常の生母の「寿福院」が建てたという層塔が東京のこういう場所で思いがけなく見ることができた。11層あったのが崩れてしまって現在は5層になっていた。


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2014年4月18日金曜日

旧前田侯爵邸洋館

今回は東京へ野暮用ができたので、車で出かけた。途中、上信越高速の碓氷峠付近の道路で亀裂が見つかったということで確認作業のため一部通行止めになっていた。おかげで東京には1時間遅れの到着ということになった。
空いた時間に目黒区の駒場公園にある「旧前田侯爵邸」に行った。ここは東京に来たら前から一度は見たいと思っていたところだ。というのも新聞で見たが、ここの建物は歴史の重みが体験でき、洋風建築の全国のベストテンの上位にランクされている人気の場所だ。





















玄関から見た建物の外観も非常にすばらしい。
この駒場公園の敷地は、本郷にあった加賀百万石の上屋敷跡に維新後にも前田邸があったが、関東大震災後に東京帝大農学部が本郷に移転するために前田家の敷地と等価交換したという。
そして前田家の16代の利為(としなり)がここに前田公爵邸洋館を昭和4年に建てた。




















この洋館は当時、東洋一と賞賛された豪邸で、イギリスのチューダー式の洋館は連日華やかな社交の場として使用された。
内部には王朝風の装飾が施され外国製の材用で造られた豪華な部屋が多くあった。この洋風の室内に伝統的な唐草や雛菊をあしらった文様なども見られた。また、暖房用のダクトが各部屋につながっていた。








































1階は外交官や皇族などを招くパーティーが催される社交場で、食堂、客室、サロン、応接室などがあり、2階は家族の生活の場で、夫妻の寝室、婦人室、各子供の部屋、書斎、女中室などがあった。大きな婦人室は家族団らんの場でもあったという。








































各部屋には暖炉が付いていて、その周りの彫刻もすばらしかった。




















特に階段の周りから眺めると一層豪華なイメージがあり、階段上の透かし窓は仏教的なモチーフである宝相華(ほうそうげ)唐草が取り入れられていた。








































また、照明器具も見ごたえがあり、証明を吊る場所にもさまざまなデザインが施されていた。




















サロンでコーヒーを頂き、ゆっくりくつろぎながら周りを眺めた。


前田利為は陸軍中将で東条英機とはライバルであったが、1942(昭和17)年にボルネオ島沖で飛行機ごと消息を絶ったという。
この建物はその後、中島飛行機(1945年終戦まで日本の航空機エンジンのメーカーだった。後の富士重工)が買収し本社となったが、戦後、連合軍に接収され一部改修されたが、1964(昭和39)年に東京都の所有のなったという。

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2014年4月13日日曜日

兼六園の桜

兼六園の桜が満開ということで見に行った。
金沢城の石川門付近は平日(4月8日)の午後にもかかわらず「お花見無料開放」ということで人でいっぱいだった。




















桜に囲まれた石川門の風景はいつ見てもすばらしい。
石川門の石垣の下にある広場「沈床園」には「お花見の宴会」の場所とりで、既にブルーシートが何枚か敷いてあった。








































十数年前に夜間に行ったときに「沈床園」で多くの宴会をやっていて、その頃には若者たちの間で「一気飲み」というものが流行っていて、「急性アルコール中毒」で救急車で運ばれるものがでるのが恒例になっていたが、今はどうであろうか?
また酔っ払った勢いで金沢城の石垣を登る輩がいて非常に危ないが、それを石川門の上からはやしたてる見物人がよくいた。

茶店が並んでいる付近には屋台も多く出てにぎわっていた。




















桂坂入口から入ってすぐの「桜ケ岡」付近はその名の通りソメイヨシノの桜が非常に多いところである。








































戦前の頃までは、金銀の短冊に名歌、名句を描いてつるすという行事があり、風流人が競い集まっていたとか。藩政時代の安政期の頃は、桜ヶ岡、常盤岡一帯はまだ桜がなく、田が広がっていたという話を聞いたことがある。その頃は大名の生活の必要性から生まれた庭園で多目的に利用されていたという。




















花見橋付近の桜も水と橋とのコントラストがきれいだった。




















兼六園にはソメイヨシノの他に有名な桜がいくつかあるので紹介する。ただ、ソメイヨシノより遅く咲くのでまだつぼみ状態だった。
雁行橋のほとりの曲水の近くにある「旭桜」は加賀八家の村井家の屋敷にあったものを移築した
園内随一の大桜だったといわれている。ソメイヨシノの花弁が散って曲水に浮かんで流れている頃に満開となる。1937(昭和12)年に枯死して、今は2代目が往年をしのばせている。それまでは兼六園のシンボルであったが、その後のシンボルはことじ灯篭に代わった.




















珍しい牡丹色の「兼六園熊谷桜」は水戸藩から贈られたと伝えられているヤマザクラでソメイヨシノより1週間ほど遅い。




















300枚以上の花弁をつける「兼六園菊桜」(2代目)は4月下旬から5月中旬までの約3週間と長く咲く。全国にある多くの桜のなかでも珍しい品種である。




















地蔵堂の後方に「塩釜桜」がある。竹沢御殿を建てた時に中庭にあったという。現在のものは宮城県塩釜神社よりよせられた5代目である。




















桜の満開の時期に梅林に桜よりひときわ濃いピンクの「麻耶紅梅」が咲いていた。




















兼六園の帰りに犀川沿いを通り、桜橋と大橋の間のソメイヨシノを見たが、ここも兼六園と負けじと大変きれいだった。この辺も金沢の桜の見所の一つである。




















河原の芝生では多くの人たちが散歩したり、休憩したりしていた。




















「桜橋」、「桜坂」、「桜畠」などの名前があるが、藩政期に金沢城の高台からの眺めをよくするためこの辺に多くの桜の木を植えたという。

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