2015年6月29日月曜日

百万石行列2015 金沢城三の丸広場(2)

百万石行列2015 金沢城三の丸広場(1)の続きで、その後、お待たせの大名行列に替わった。
まず子供たちの行列があり、男の子は勇壮な恰好で、また女の子はきれいな着物で着て歩いていたが、後でこの体験はきっとよい思い出になるであろう。








































この女の子の行列の後に、街中の通りでは車の上の舞台に座って手を振っているはずであるが、ここ最後の金沢城の中は車が入れなく、舞台から降りて、公募で選ばれたという幼くかわいい珠姫や利常が歩いて行ったが、気がついたときが遅く、後姿で写せなかった。

続いて、百万石行列のお馴染みの奴(やっこ)行列がきた。真っ赤に顔をぬった奴が参勤交代の絵図で見たような鋏箱や毛槍など道具を持って歩いてきた。沿道では掛け声を掛けながら、独特の歩きで演技してきたのだろう。




















続いて、これも沿道では車の上の舞台から手を振っていたと思うが、女優の「菊川玲」さんの「おまつの方」が歩いてこられたのですかさず写真を撮った。少し小さくなってしまったが、こちらの方を向いて、笑顔で手を振っている姿が撮れた。




















続いて、「本多正重」、「横山長隆」や「前田直之」など鎧兜を着た勇壮な加賀八家の行列が通った行った。




















参勤交代の絵図で見たような「槍隊」、「弓隊」や「鉄砲隊」などの多くの武装隊が通っていった。しかし、絵図の武装隊はすべて菅笠を被っていたが、行列では鉄兜を被り、胴には鎧を付けていて、家紋をつけた旗を持っていた。より勇ましい格好にしているのだろう。




























































その他、前田家の重臣たちの行列もあった。




















いよいよ前田利家公の入場であるが、沿道では「ほら貝」鳴り響いていたと思うが、ここでは利家公が愛用していたという「鯰冑」などを持った人が通っていった。





















午後2時に金沢駅の「もてなしドーム」を出発した行列が、ゴールの金沢城の三の丸では5時30分ごろを超えて「前田利家公」をいまかいまかと待ち構えている多くの人がいた。




















後ろに「赤母衣衆」を従えた前田利家公の姿が見えた。母衣は戦場で矢を防ぐもので、織田信長に仕えていた時代に「赤母衣衆」の筆頭として活躍した。





















そして、俳優の「内藤剛志」さんの前田利家公が通り過ぎると歓声が上がり、皆さん手を振ったりカメラを撮ったりしていた。沿道では立派な馬に乗ってあちこち回り、左右の観衆に手を振ってサービスしていたことだろう。最後の五十間長屋前で笑顔の「おまつの方」を従えた「利家公」が勇ましく勝どきを上げた。




















百万石祭りの由来は、加賀藩前田利家公が1583(天正11)年6月14日に、金沢城に入城し、金沢の城を築いた偉業を偲んで開催されている。この6月14日は尾山神社社史に基づいているという。尾山神社の封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭として行われてきてた。
現在の百万石祭りは、昭和27年に金沢市と金沢商工会議所が中心となって商工まつりが始まり、その後、400年にわたり受け継がれてきた金沢ならではの伝統ある行事が賑やかに繰り広げられ現在の姿に発展したという。





2015年6月25日木曜日

百万石行列2015 金沢城三の丸広場(1)

前回の続きで、「盆正月」のイベントが終わった後、金沢城三の丸広場は行列を待つために整備された。私は百万石行列を見るのは久しぶりで、演技がある五十間長屋前は既に多くの人で陣取りされていたので、石川門と河北門の間の所から見物した。(6月6日)
行列の一番手は北陸新幹線金沢開業を祝う横断幕で、そのうしろに地元石川県のプロスポーツチーム、野球の「石川ミリオンスターズ」とサッカーの「ツエーゲン金沢」の選手の行進である。特に「ツエーゲン金沢」は今年J2に上がったばかりなのに、ここまで成績が好調でJ1を目指そうという勢いである。




















続いて、艶やかな加賀友禅の着物を着て、金沢和傘を持ったご婦人方が行進していった。金沢ならではの風景である。




















続いて、石川県警音楽隊、金沢市立工業高校吹奏楽部や小学生たちの吹奏楽隊が軽快なマーチで行進し、お祭りを盛り上げていた。




















そして北陸学院高校や遊学館高校の華麗なバトンチームが行進した。




















今年の11月15日(日)に第1回金沢マラソンが、フルマラソン(42.195km)で金沢の魅力を見せるコースで開かれるが、そのPRということでランニング愛好者たちと行進した。12,000人が参加するというから町の中はどんな風になるのか楽しみだ。私の知人が2.9倍の抽選で当たったので参加すると言っていた。私は5分も走るとばててしまうが、すごいものだ。




















続いて、町の中はオープンカーに乗って行進したらしいが、最後のここ三の丸ではそぞろ歩きで、青、赤、ピンクの振袖を着た「ミス百万石」の3人が通った。何とかして撮ろうと頑張った。




















金沢市の文化財に指定されている「加賀獅子」は、重い獅子頭の後ろの大きな蚊帳の中には三味線、笛、太鼓の囃し方がすべて入っている。三の丸の前の芝生で獅子と棒ふりと戦う演技が催されたが、私のいる場所からは見えなかった。




















続いて少し場所を移して、演技が見えるところまで何とか移動したら、「加賀とび梯子のぼり」の演技を見ることができた。3月の新幹線開通イベントとして、横安江町商店街の前で見たときは、一つの消防分団だったが、今回は49分団が一斉に纏を振り、梯子での演技は見ごたえがあった。














































その後、尾山神社の神職たちが利家公御神体をおごそかに神輿渡御した。



2015年6月21日日曜日

百万石祭り 盆正月 金沢城三の丸

今回は北陸新幹線が開通して初めての百万石祭りということで、多くの人に見てもらうために盛り上げようと「盆正月」のイベントが金沢城三の丸で行われていたので見に行った。このイベントは数年前からやっているらしいが、私は初めてである。




















「盆正月」とは、藩政期に大きな慶事があったとき、たとえば藩主の継承、嫡子誕生や官位昇進などがあった時に、金沢城下の市民を挙げてお祝いの祭りを行ったもので、これを再現しようというものである。盂蘭盆と正月が一緒にきたようなにぎわいから「盆正月」と呼ばれるようになったという。
藩政期には40回以上あったらしい。
三の丸広場の五十間長屋前の芝生で、いろいろな催しがあった。家族連れや若い人など多くの人いた。




















イベントとしては「獅子舞」、「民謡」、「太鼓」、「武将隊」などの演技があった。若い人たちが日ごろの練習の成果を見せる恰好の場所だ。




























































「よさこいソーラン」は我々が若い時にはまだ流行っていなかったが、高知の「よさこい祭り」と北海道の「ソーラン節」を融合させて、企画立案されたものだという。札幌で全国大会がようであるが、金沢の街中でもよくイベントなどで踊っている。奇抜な衣服を着て奇抜な化粧をした元気そうな女の子を見かけるようになった。こういう踊りは見るよりやっている人の方が断然面白いだろうと思う。




















周囲にあるテントの中に「福井県の恐竜模型」があり、子供たちが恐竜の膝や横に座ったり、並んだりして写真を撮っていた。




















また、「加賀八幡起き上がり絵付け」や「和菓子作り」の体験コーナにも多くの子供たちが一生懸命に作業をしていた。おいしそうなお菓子を作っていて私も体験して見たかった。




















三の丸広場の横の河北門と石川門休憩所の間の広場には「飲食コーナ」があり、「高松うどん」、「飛騨牛串焼き」、「焼きそば」、「やきとり」や「からあげ」などの店が並んでいて、昼時には人気店に長い行列ができていた。ビールを飲んでいい気分になっている人や和服を着た女性もいた。








































また、北陸新幹線の各駅のブースがあり、盛んにPRしていた。私もいずれまた行きたいと思い「黒部市」、「上越市」、「富岡製糸場」がある「富岡市」などの観光パンフレットをもらってきた。

2015年6月17日水曜日

天徳院 加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要 

今回は「百万石まつり」のイベントのひとつである「加賀藩主前田家歴代藩主 追善法要」と講習会、寺宝の説明があるということで小立野にある「天徳院」に行ってきた。ここには、私は10数年前に訪れたことがあるが、それ以来である。




















天徳院は1623(元和9)年に3代藩主利常が正室珠姫菩提のために、金沢城の東の小立野地区に4万坪の広大な敷地に天徳院を創設した曹洞宗のお寺である。1645(正保2)年に4代藩主光高が亡くなり、その時、天徳院境内前田家御廟として、老松樹林を植え、参道には諸大名の献燈籠が108本並び、道には石を連ねて敷き、その趣は厳然たるものであったという。1671(寛文11)年に珠姫の遺骨は、天徳院境域に祀られてあったのを野田山に改装された。1639(元禄6)年に5代綱紀が4代光高の50回忌供養のために10年の歳月を要して天徳院の全堂宇を明朝式に造営したが、1768(明和5)年の火災で多くを焼失し、現在その当時の建物として残っているのは山門のみである。この山門は三間一戸の二階二重門で入母屋作り、平入、本瓦葺きの山廊が付いている。






















山門の両側にある「仁王尊像」はこの寺の諸仏の中で一番古いもので、魔除招福の守り尊である。



























1769(明和6)年には10代重教がわずか70日の突貫工事で本堂庫裡などを再建した。唐破風の屋根で、あちこちに剣梅鉢紋が見られた。





















山門から本堂へ行く通路の途中の角に、大きな石の前に琵琶を持った「水かけ金洗い弁財天」という福徳をさずけ財物を与える神様とあったので、丁寧にお参りしてきた。




















本堂の中に入ると数十人のお客さんが来ていた。早速、ここの住職を中心に加賀藩主前田家歴代藩主の追善法要の読経が始まり、その後、「梅花流詠讃歌」という歌が唄われた。これを聞いたのは私は初めてだが、お釈迦様などの教えを学び、その教えを「お誓い」のもと実行しようとするものらしい。




















その後、お目当ての横山方子さんの講演会があった。前田家歴代の藩主と奥方の家系の資料を元に、いつもながらの流暢な語りでの話があった。珠姫を始めとして徳川家関係から嫁に入った奥方が多いことを話された。珠姫は3歳で前田家に輿入れし、14歳からの10年間で7人とか8人といわれる子を産んだという。それまでは安産だったが、最後の夏姫を産んだ後、体調を崩し、24歳で亡くなった。珠姫の生涯は、加賀百万石を危機を救い、その繁栄に尽くし、まさに良妻賢母、日本女性の鏡として今も金沢市民に親しまれている。
4代光高や溶姫(13代斉泰の正室)などの墓はずっと天徳院の境内にあったが、今の小立野小学校を建設するということで昭和27年に野田山に移されたことを知った。後で小立野小学校を卒業をした友人から聞いた話だが、土葬のお墓だったので移す時のいろいろ不気味なエピソードが残っているらしい。




















この後、この寺の寺宝を見て回りながら説明を受けたが、狭い通路だったので横山さんの話はよく聞こえなかったが、次のものなどがあった。「見返阿弥陀立像」は永観律師が眠気のため立ち遅れたため先導していた如来が「永観遅いよ」と後ろを振り返ったのを基にして作られた像、「管氏大宗祠」は管氏とは菅原道真の子孫である前田家をあらわし、ここ天徳院は前田家の大殿堂(大宗祠)であるという扁額







http://tentokuin.arunke.biz/より





「存星卓」は、中国明時代(桃山時代)の作といわれ、天徳院建立の際に3代利常が寄進したもの。「霊鐘」は12代斉広が竹沢御殿の時鐘として鋳造されたが、その鐘が枕元に現れて「天徳院に行くを望む」と言ったという。斉広は「この梵鐘の音を聞いたものは苦悩を免れる」ということで天徳院に移すことを命じた。



http://tentokuin.arunke.biz/より

剣梅鉢紋が入った大きな香炉(?)がある山門から本堂に向かっての参道、灯篭や木々の眺めも情緒があってよかった。

2015年6月13日土曜日

小橋町、元町付近(2) 本岡家住宅 花もみじ 元町教会

前回の小橋町、元町付近(1)の続きで、「中田屋」の裏を歩いていくと、古民家風の立派な建物があった。
ここは「本岡家住宅」といい、旧大衆免村に建つ農家住宅で、旧富樫村字窪村に1882(明治15)年に建てられていたものを、本岡家が買い取り、1902(明治35)年に移築したものであるという。
建物はアズマダチで、屋根の下の白壁に柱、梁、貫などが美しく格子状になっているが、そこに珍しく出窓が付いていた。1階は玄関の戸以外は細い格子戸になっていた。
アズマダチは富山県砺波市あたりの古民家の建物に多いらしいが、金沢市の古い立派な民家にもいくつか残っている。
敷地の周囲は塀で覆われていて、玄関に「市登録有形文化財」の看板が掲げられていた。明治後期の農家住宅の特徴的な姿を残す貴重な建物であるという。かって肝煎農家の雰囲気を現在も醸しだしている。
主屋の横に土蔵造り2階建ての土蔵があり、観音開きの重そうな鉄の扉が四つ付いていた。





















主屋の正面の広い敷地と奥の庭の間に、瓦屋根と木戸が付いた趣のある門があった。そして庭は、きれいに整備されていて灯篭、飛び石やすばらしい木々があった。








































旧大衆免村の肝煎り役を努めていた本岡家には、金沢城下に隣接し、城下町拡大の影響を受けた地域であり、隣接地から城下町の変化を見ていたことや、「相対請地」、「土地売買」など農村と都市のかかわりを示す史料「本岡文庫」が近世資料館が数多く残っている。
明治になってからもここの地域はレンコン栽培が盛んで、近郊農家としての存在として重要であったという。

少し歩くと通り沿いに、知る人ぞ知る隠れ家的な「日本料理店 花もみじ」という店がある。4,5年前に家族や親戚の人と2,3回、ここで食事をしたことがある。




















オーナシェフの父が漁師で、輪島から直送される新鮮な魚介類を使い、和食やフレンチの名店で修行を重ねたシェフの料理が好評という。特にランチはリーズナブルな値段で「日替わりランチ」、「花かごランチ」が人気があり、女性客が多く予約しないと入れないそうだ。掘りごたつのテーブル席の部屋と個室、カウンター席がある。








































東大通の一本手前の路地に白い大きな建物があったが、ここは「元町教会」である。建物の天辺に十字架がある。親戚の人でクリスチャンがいて、その人の子供の結婚式に参列した時や他の行事でもここの中に入ったことがある。




















中に入ると、きれいな受付があり、2階への階段を上がると確か礼拝堂があったはずだ。




















中の広間で二人の女の人が打ち合わせをしていた。その人たちから「元町教会」の歴史の書いた本や写真集を見せてもらった。実は私が通っていた幼稚園はここの前身の「殿町教会」にあった幼稚園で、その建物の写真も載っていた。今見てみると、こんなだったとかすかに覚えている。








「元町教会 百年の歩み写真集」より










この「殿町教会」を設立した人は、北陸で最初の日本人キリスト教伝道師として有名な「長尾 巻」という人である。自らは極貧であったが、孤児院の子供や貧しい人々への施しを優先させた生き方が、金沢の人々に語り伝えられているという。愛知県の豊橋教会でノーベル平和賞の候補となった賀川豊彦と知り合い、強い影響を受けたという。
北陸での布教は困難を極め、竹やりで脅されるなどの迫害も受けたという。









「元町教会 百年の歩み写真集」より