まず、講習会がある「小松公会堂」に行った。会場には50人くらいの人が聴講に来ていたが、ほとんどが歴史好きの小松市民ようだった。
小松城は、能美平野を蛇行して流れる「梯川」の湿地帯を利用して築かれた平山城である。1580(天正8)年、織田信長が一向一揆を平定して、村上勝頼の後に丹羽長重が小松城主になり、関ケ原の合戦後、加賀藩領になり、小松城代が置かれ加賀八家の前田長種がなった。
利常は、長男光高を加賀藩4代城主、次男利次を富山藩、三男利治を大聖寺藩に分けた。利常自身は、1639年小松城を修復し隠居し、数寄屋などを造成した。しかし光高が早死にし、5代藩主となる綱紀はまだ3歳で江戸のいた。そのため利常が実権を握り、このころは金沢が衰退し、利常がいた晩年20年間は政治、経済の中心は小松であったという。
「改作法」の断行、十村の編成・拡充、年貢米の大阪廻りを開始など、利常死後の加賀藩の根幹となった重要な施策はこの小松から遂行されたという。
小松城は独特の縄張りで、本丸、二の丸、三の丸、葭島、牧島などと呼ばれた七つの浮島からなっていて、敷地の30%が堀であった。表向きは利常の隠居城であるが、敵からの防御を堅くした渦郭式の構造で、河川を利用した半面、水害からの備えもされていたという。
反対側には白山連峰の山並みが見える。(この日は白山までは見えなかった)
現在の小松駅の向こうには木場潟がある。
眼下の小松高校辺りは二の丸であった。梯川の向こうには「小松天満宮」がある。
続いて、公会堂から歩いてもすぐ近くにある「小松城本丸櫓台石垣」を見に行った。ここの石垣は、戸室石のほか地元の鵜川などから切り出した石(凝灰岩)を使っている。積み方は切込ハギで、四隅は特に精巧をきわめ、周辺は軟弱な沼地でありながら、櫓台直下は砂州の西端にあり安定した土地であるため、勾配は垂直に近い積み方であるという。
金沢城では見られない石の色合いで、積み方も随分違う感じだ。
階段の上には、立ち入り禁止となっていて、残念ながら上ることができなかった。
本丸石垣台の周辺にあった「説明板」