2018年11月27日火曜日

芳斉町界隈

高源寺前には鞍月用水が流れているが、ここは極端に広くなっており、広い橋(三構橋)が架かっている。



















高源寺の前に「旧三構」の標柱があり、「もと高巌寺前といったが、これを光岩寺前とも書き、のちに光岩前と略して「みつがんまえ」と呼んだことから、この名がついたといわれる」とある。
























すぐそばに「正福寺」は真宗大谷派派の寺院で、1586(天正14)年富山に建立されるが、のち2代覚乗が前田利長に従って高岡に移った。覚乗は花の栽培を好み、利長に花を献上し花園380歩を承ったこともある。のちに金沢に移り、1631(寛永8)年に現在地に転じたという。



















この近くにある「旧芳斉町小学校」は明治4年創立というから古い。この年に金沢七校の一つとして柳小学校として発足したという。廃藩置県で、武士だけでなく百姓、町民などにも平等に学問の機会が与えられた。何回か校名を改めて、明治37年に現在地に移転し「芳斉町小学校」となった。現在の校舎は昭和43年に建て替えられたが、旧市内の子供が減ったために約30年ほど前に、松ヶ枝町小学校など4校とが「中央小学校」に統合された。現在は「中央小学校芳斉分校」で、市内の「特殊学校」として使われている。



















「白銀教会」は、カナダの宣教師DRマッケンジー博士が明治36年に金沢市白銀町に講義所を設けキリスト教伝道を行ったのが始まりという。現在の建物は昭和35年に竣工し、この地域でプロテスタントの信仰を長く守り続けている。私が中学生のころ、この辺によく遊びに来た記憶があるが、そのころに建てられたということだ。



















教会の礼拝堂



















この辺りには「鞍月用水」が道路に沿ったり、民家の裏手に入ったりして流れている。用水沿いはきれいの整備され、遊歩道もあるのでゆっくり散歩もできるようになっている。



















用水沿いに「コウゾ」という階段が所々にあるが、昭和30年代までは、そこから降りて用水で洗濯や野菜洗いなどをしていたというが、この階段は、あまりに狭く降りるのも危ないが、何に使っていたのだろうか?



















この近くの「旧穴水町」のところに「穴水町児童公園」がある。ここは、藩政期には加賀八家の一つの「長家」の下屋敷があったところで、長家はもともと能登の穴水に居を構えていたことから、明治になって穴水町と名付けられた。



















明治31年に、石川県で初の高等女学校が誕生し、「金沢高等女学校」と称し高岡町にできた。それから2年後に穴水町のここに新校舎ができ、大正2年に「石川県立第一高等女学校」と改称し、その後、昭和23年に新しい学区制になるまで、県下の女子中等教育の中心校で、多くの才媛を送り出している。ここの卒業生の同窓会の「済美会」が先日の新聞に皆さん高齢になったことで、最後の同窓会が開かれたことが載っていた。そういえば、同じころに四高の同窓会も最後ということが載っていたが、さびしい限りである。この四高の最後の同窓会に、私が高校3年生の時の担任の先生が、最高齢者として参加されたのが新聞に載っていた。
































そして、昭和23年から「二水高校」になり、昭和31年までここにあったあが、現在の緑ヶ丘の方に校舎が移った。

2018年11月23日金曜日

高厳寺

前回の続きで、「鞍月用水」沿いにさらに歩いていくと「高厳寺」というお寺がある。ここは、1613(慶長18)年に臨済宗妙心寺派の密厳宗顕が開山、開基は生駒内膳直方(豊臣秀次の旧臣)で、英次の菩提を弔うために、利常公より現在の土地を拝領し建立したものである。



















門の前の横の地蔵堂には2体の石造地蔵尊立像があり、右像は白く、高さは130cmで合掌し数珠をかけている。左像は浅黒く、高さ120cmで、左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。子供の成長と家内安全を祈願している。
























一柳監物直興が長らく滞在していて、境内の右手に遺愛したといわれる紅梅があるが、現在のものはそのひこばえが成長したものである。監物は、伊予西条25000石の城主だったが、職務怠慢などを理由に改易され、幕府より領地を召し上げられ、前田綱紀へ預けられた。現在の金沢駅前付近に一柳監物の屋敷(預かり所)があった。



















監物が亡くなった時に、ここで葬儀が行われ、境内にこの寺で一番大きい遺髪塔があり、野田山に立派な墓がある。
























三代藩主利常の八女「辰姫」が生駒家に降嫁されたが5歳で亡くなり、ここにその墓の前に、明治になってから鳥居が付けられた。ここだけ前田家の地面であるために成巽閣が毎年お参りに来て管理している。



















高厳寺の歴代の住職さんお墓があった。4代目高厳寺住職普門和尚は、博学多才、能筆、悟道に達した人物であったから、監物とは親しくしていた「地蔵菩薩応験新記」お著述、また室鳩巣の文集には普門の詩の収録があるという。



















ここのお墓には、五輪塔がずらりと並んでいた。



















3代藩主利常は、金森宗和(飛騨の大名)の嫡子七之助を1500石で召し抱え、重臣たちの茶道を伝え、加賀藩宗和流の源泉となった。金森家の菩提寺として、代々の茶筅塚がある。



















生駒万子は1000石「普請奉行」の加賀藩士で、芭蕉に深く傾倒した。高厳寺はその菩提寺で、屋敷は寺の南側にあったという。句碑「枯れ竹や雪にもよらず二、三本」と「蓮の実の中はひそかな葉巻かな」が境内にある。



















生駒直方は高厳寺を建立したが、4500石の火消し役の加賀藩士で、直方の室は3代藩主利常の側室であった五条局で、1651(慶安4)年に婚姻した。父直義の弟の八郎右衛門が分家し、その子が生駒万子である。



















その他に、現在「福念寺」付近に屋敷があり、芳斉町の名前の由来となった「青木芳斉(新兵衛)」の墓もある。青木新兵衛は関ケ原の戦いの折、上杉軍にいた新兵衛は伊達政宗を追いやった槍の名人で、その後3代利常に5000石で迎えられた。

2018年11月19日月曜日

玉川町、英町、六枚町

前回の続きで、「玉川町通り商店街」の一つ武蔵寄りに広い通りがある。「玉川図書館」から「白銀町」までの通りは藩政期にはなく、明治か大正時代にできたのでろうか?



















下の写真は1921(大正10)年にこの通りに建てられた「玉川警察署」で、当時は金沢市は「広坂警察署」とふたつに分かれていた(現在は金沢東署、中署)。ここには、消防署も併設されていて、天辺の尖の下に物見台があった。当時はそんなに高い建物がなかったので、遠くまで見えただろう。
ところで、私の小学生だったか中学生だったか忘れたが、学校からここへ社会見学に来た。いざ火災があったら建物の2階にいる消防士が、丸い柱をすばやく滑り降りて現場へ向かったという演技だけを鮮明に覚えている。
中学生時代に同級生の父がここの署長をやっており、この建物の後ろに家に住んでいて、何度かその友達の所へ遊びに来たのを覚えている。



















「玉川警察署」の跡地に、郵政が管轄していた「メルパルク金沢」ができ、結婚式場やいろいろな催し物などが開かれていた。30年ほど前に私の小学校が閉校されるということで同窓会がここであったのを覚えている。現在は、ホテルが建っている。


白銀交差点で左に曲がると、「旧英町」に出る。



















標柱にはもと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があったことから、文政4年、町名改めのとき「英」の一字を用いて町名とした。」とあった。その前の藩政時代は、材木商人が多く住んでいて、はじめ「安江木町」と呼ばれ、金石往還に通づる道で、宮腰(金石)から陸揚げされた材木は、古道の木揚場からここに運ばれきた。しかし金石往還があったことから他の商売の店もでき、次第に商店街ができるようになったという。
























「英田広済寺」は浄土真宗大谷派の寺院で、一向一揆時代には有力な寺院であったという。



















ここの「英商店街」の老舗の薬屋の「山崎太可堂」がある。



















さらに歩いていくと「うめさ食品」は明治10年創業というからもう140年以上になる老舗の味噌屋がある。大きな店構えで、入り口の屋根には「醤油」の文字は入った木製の壺型の看板がある。店の前には赤い暖簾に「うねさみそ」と描かれている。ここには、「豆腐の味噌漬け」や「ゴマ味噌」などの商品がある。



















ショーウィンドーには、明治から続いている店の古い建物を描いた絵図と歴史研究家の「屋敷道明」さんが描いた藩政期の「六枚町」の説明書きが額にはいって展示されていた。



















六枚交差点の角には「六枚町」の標柱が建っている。「藩政前期からある町人町で、この町の宅地税である地子銀が年間6枚であったところから、この名がついたと伝えられている」とあった。
























さらに交差点の左に曲がり少し歩くと、小路に沿って「鞍月用水」が見える。そのすぐのところに築140年という町屋を改造した、段々になった派手な赤い建物がある。ここは今はやりの「シェアハウス ポンギー」という。確か金沢市に初めてできたシェアハウスで、最近では市内にいくつかあるはずだ。外国人の観光客が多くなり、安く泊まりたいという人も多くいる。しかし今話題の宿泊税などの問題もあり、いろいろ話を聞きたいと思ったが、この日は休みで残念でした。



















ここからさらに「鞍月用水」沿いに歩いた。

2018年11月15日木曜日

兼六園 山崎山の紅葉(2)、十月桜

前回の続きで、この「山崎山」の下にある岩の中から「辰巳用水」が園内に入ってくるところである。この岩のトンネルの中に流量を調整する装置があるらしい。またここの石組見ごたえがある。流れの中に「水分石」が置かれており、流れの幅全体に均等に流れるようになっている。左端に黒い石でできた小さな雪見灯篭風のものが置かれている。



















風流な木橋の下の曲水の水面に落ち葉が浮かんでいたが、もう少し経つと水面いっぱいに埋まるだろう。



















曲水の添景となっている細長い「蓮華寺型灯篭」は京都にある「蓮華寺」の前に立つ灯篭とよく似ている。段付きの屋根は茅葺のようで、定紋が彫られている。



















この山崎山下の苔地には、明治時代の初め、ドイツの鉱山技師デッケンが住んでいた異人館があったところである。その後は「勧業博物館」となり、明治の終わりごろに建物が撤去され、その跡地を苔地にした。
「霞が池」付近の観光客でいっぱいのところと違って、この景色は静かで落ち着いた癒しの雰囲気が感じられる。


































ここで、紅葉の仕組みを少し学んだので紹介する。
気温が下がってくると、枝と葉柄の間にコルク状の離層が形成され、水の供給は止まり落葉するという。
























この落葉する前の過程で、水分の流れが悪くなると、葉の中にあったでんぷんやタンパク質が減るために、葉緑素(クロロフィル)が分解する。この時、光合成で残されていた糖分がシャッターで仕切られるため移動できなくなり、葉の中で変化して「アントシアン」という赤い色素になるために赤く色づく。また、この色素が「カロチノイド」の場合は、黄色く色づく。

「紅葉が美しくなる条件」は
1.夜間の急激な冷え込み(寒暖の差が大きい)
2.日中の天気が良いこと(直射日光・・紫外線の強さ)
3.適度な雨や水分がある (乾燥しすぎると葉が紅葉する前に枯れてしまう)   
ことだという。

「千歳台」の曲水に架かっている「板橋」の近くには「十月桜」が咲いていた。4月と10月ごろと1年に2度咲き、今がちょうど秋の先初めである。春に比べてちょっと小ぶりだが、よく見ると八重で淡紅色をしている。これから厳しい時期に咲くので「寒桜」と呼ぶ人もいる。











































「板橋」を渡ったすぐ左には「フユザクラ」の木があるが、こちらは「十月桜」より少し遅れて咲くので、まだ小さなつぼみが付いていた。花は五弁の一重咲きで、色が白っぽい薄紅色だという。どちらも秋・冬と春に咲くので「四季桜」とも呼ばれている。


2018年11月12日月曜日

兼六園 山崎山の紅葉(1)

園内でもひときわ奇麗だといわれている「兼六園 山崎山の紅葉」を見に行った。(11月10日)今日は午前中は少し雨もぱらついたが、昼からは天気もよくなり、絶好の紅葉見物日和となった。
歴史博物館前の通りの紅葉



















成巽閣前の入り口から園内に入り、 早速「山崎山」方面に行ったら「石川県伝統産業工芸館」の建物の向かいは、既に赤く紅葉していた。ここは「カエデ」や「トチノキ」などの落葉広葉樹が多く、一帯が紅葉するので「紅葉山」とも呼ばれている。
この通りにあった「高いレンガ造りの塀」は今話題の地震による倒れ防止からブロック塀の解体作業準備のための囲いが設けられたいた。



















 ここも、紅葉の深紅、赤、橙、緑のグラデーションが見事である。




















「山崎山」に上がる途中に見事な「ヒノキ」の巨木があるが、樹齢何年だろうか?
























この山の上には、茅葺の御亭があり、一服できるようになっている。この付近にも、いろいろな形状の石が置かれている。



















この山の上から眺める紅葉は素晴らしいが、一番見ごろはもう1~2週間先か?



















芭蕉の句碑がある辺りは、まだほとんど緑のカエデで、ここが赤色に染まると、素晴らしい眺めとなる。



















既に、赤色や黄色の落ち葉が落ちているところもある。もう少しすると、この落葉が山のようになって絨毯となる



















結婚式の前撮りであろうか、赤い和傘をもって花嫁、花婿衣装で紅葉山にそろりそろりと歩いていた。思い出のよい写真が撮れるであろう。