2013年4月30日火曜日

寺島蔵人邸跡

今回は、大手町にある寺島蔵人邸跡の庭園のドウダンツツジが
見ごろということで行った。




















寺島蔵人は450石の加賀藩士の平士という家柄である。
平士というが家も庭も想像以上に大きかった。しかし現在建っている
ものよりさらに2倍くらいあったとか。
ここの庭はドウダンツツジが満開で、その小さな白い花が咲きほこり
見事であった。このほか、紅葉の季節も見ごたえがあるという。








































文化5年に寺島家を訪れた南画家の浦上玉堂の指導の下でこの庭が
作られ、玉堂はこの庭を「乾泉」庭と名付けた。
また、「乾泉亭」という茶室のあったり、玉堂が琴を弾いたという部屋も
あった。




















寺島蔵人は12代藩主前田斉広が有能な藩士を抜粋し、その時教諭方
という任務に就いた。斉広が急死するとその任務も解かれ、藩の重臣が
政治を行ったが、正義感の強い蔵人はその政治に納得がいかず、
上の位のものに堂々と反対意見を言った。そのため能登島に流刑され、
波乱に満ちた生涯を閉じた。

蔵人は画家としても知られ、いろいろな絵を残している。




















また、浦上玉堂の絵も展示されていた。


























「江戸時代に多くの武士が金沢にいたにもかかわらず、武士のすまいが
ほとんど残っていないが、ここはなぜこのように残っているのか」と説明員に
尋ねた。
「その子孫たちが、蔵人の功績と人柄に誇りを持っていたので、何としても
残したかったのだろう」と言っていた。

蔵人の身分の上の人たちであっても「悪いものは悪い」と物言う人柄に
対しては非常に共感を覚える。

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2013年4月24日水曜日

前田土佐守家資料館

今回は長町にある前田土佐守家資料館に行った。
だいぶ前に訪れたことがあるが、すっかり忘れてしまっている。




















この日は、リニュアルオープン記念展で「武家社会と儀礼」というテーマで
解説講座があった。
講師には、ここの学芸員の竹松幸香さんで、弁舌さわやかな人でわかりやすく
説明された。
その後、展示品を見ながら説明していただいたのでよく理解できた。


























武家儀式には年中儀礼(毎年恒例として行われる)と人生儀礼(年齢の
重要な節目にあたって行われる)がある。
年中儀礼には、年始、五節句、年末などに登城拝礼することで、人生儀礼には
誕生から元服、家督相続、婚姻、葬儀など人生の節目ごとに行われる。

これらのことがどのように行われたか、武士の日記や覚書などに詳細に
書かれているものが展示されていた。

ここの本家の6代直方や嫡子直養の日記や覚書などに上記のことが書いて
あったが、字が細かく、よくここまで書いたものだなあと感心した。またそれもきれい
に保存されていた。




















この儀式は金沢城の主に二の丸御殿で行われたものだが、二の丸御殿の
部屋を歩く順路が詳細に書かれていたし、どの場所に座り、なにをするか
などきちんと決まっていたという。
そういえば、「百年後の国宝をつくろう」では二の丸御殿の再現を目指そう
だった。
今回の展示に二の丸御殿の部屋の平面図が展示されていたが、外観や
部屋の詳細のものは残っていないので、再現はなかなか難しいと思うが、
今後、他に残っているものが出てくればよいのだが。

そういえば、ここの家祖の利政は前田利家の次男である。
利政は兄の利長と考えが違っていて、母の「まつ」の人質に反対したり、
関が原の戦いには、徳川の要請に応じなかったため、能登の統括を
除かれ、京都に隠棲したという。
利長は家康に睨まれ大変苦労したが、利政は蟄居し、30年間京都に
暮らし、お茶や能などいろいろ趣味の世界を堪能したのではないかと思う。
どちらの方が幸せだったのか思わずにはいられない。


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2013年4月19日金曜日

旧新町、主計町界隈(3)

前回の続きで、「くらがり坂」を下りた先は主計町の茶屋街である。
細い道には赤褐色の家が並んでいた。
夕暮れになると、この辺では三味線の音色が聞こえるのだろう。




















金沢にいながら、まだ芸妓さんの踊りを見たこともないし、お座敷遊びも
ないが、一度は体験したいものだ。
「一見さんお断り」と敷居が高いところだ。
金沢の三つの茶屋街のひとつで、浅野川に面していることから「ながれ」
とも呼ばれている・




















主計町の由来は、大阪夏冬の両陣に功をたてた加賀藩士の富田主計の
邸宅があったことからという。
ここは花街の情緒が大切にされ、全国初の旧町名復活を果たしたところだ。
東山とともに重要伝統的構造物群保存地区として選定されている。
金沢観光の見所のひとつだ。




















ここにある「太郎」という店には、以前飲み会で入り、寄せ鍋を食べたことがある。
スタッフが食べごろを見極め、盛り付けをしてくれるので、ゆったりした気分で
食事が味わえる。




















裏手には、「暗がり坂」に対向して「あかり坂」という石段がある。
この名前を小説家の五木寛之氏が付けたというが、五木氏は主計町を
舞台にした小説をよく書いているゆかりの作家である。




















主計町の下流のほうに歩行者専用の橋があるが、これが「中の橋」だ。
泉鏡花の作品の「化鳥」に出てくる一文橋として有名だ。
このブログでも以前紹介している。




















この橋のたもとに、主計町緑水苑と呼ばれる小さな公園がある。
そこには、藩政期に作られた西内総構掘が流れ込んでくるが、
当時の堀や土肥が復元されていた。

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2013年4月14日日曜日

旧新町、主計町界隈(2)

前々回の続きで、「佃の佃屋」を少し戻ると久保市乙剣宮(おとつるぎぐう)
の神社がある。
ここの歴史は非常に古く、中世にさかのぼる。この付近を小坂庄窪市村
と称し、ここの産土神(うぶすなかみ)として創建された。
またここにはその頃市場もでき、金沢の市場発祥の地でもある




















境内には泉鏡花の句碑「うつくしや 鶯あけの明星に」が建つ。
鏡花が少年時代に遊んだ場所で、「照葉狂言」など小説によく出てくる。




















神社の隣の家は蕉門十哲(松尾芭蕉の門人)のひとりで、刀研師だった
立花北枝の居住跡であるという。
北枝は松尾芭蕉が「おくのほそ道」で北陸路を旅したときに、一番長く
芭蕉についていた人である。そしてその教えを「山中問答」などにまとめた
という。




















神社の裏の石門には、粟ヶ崎遊園の平澤嘉太郎と長生殿本舗の
中宮茂吉の名前が彫ってあった。




















その門を通ると、「暗がり坂」がある。昼間でも薄暗いところだ。
花街に遊びに行く尾張町の旦那衆が人目を避けてここを通ったという。
ぞくに「ひよどり越え」と呼んでいるからおもしろい。




















この坂を下ったところにギャラリーがあった。
ここはアメリカ人の版画家の「クリフトン・カートン」氏が自宅兼アトリエとして
使っていたところだという。




















このギャラリーに入ると、この人の版画や墨絵が数多く飾ってあり、アメリカや
ヨーロッパなどで展覧会を開いたという。
この絵の額縁を作っているという人が説明してくれた。
金沢の風景、街角の画や天井には12支の干支の画が貼ってあった。
おもしろい画が見れた。
































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2013年4月9日火曜日

伏見川の桜

今回は家の近くの満開の桜を見ながら散歩した。
昼から孫が来るということで、一緒に散歩したかったが、
午後から天候が荒れるということで、午前中に行った。
川の両側が桜並木で、見事な景色であった。




















伏見川は犀川の支流で、倉ヶ岳を水源とする二級河川である。




















兼六園の桜見物もいいが、ここは人が少ないのでじっくり見れる。
私と同じように、カメラを持ちながらのんびり歩いている人が多かった。








































伏見川は戦前に金沢の中心街から花見に来るほど有名であった。
その頃は屋形船も出て、船の上で踊りを見たり、酒を飲んだりする人
もいたという。私が歩いた場所よりは下流の米泉付近だったとか。
その後に大きな道路などができて、なくなってしまったらしい。
















「ふるさと写真館」より



川辺にはかもも泳いでいて、のんびりした気分になり、きれいな花を
満喫した。




















川沿いに住んでいるおばあちゃんがよく餌をやっているので、かもが
いつも近づいてくるという。




















おばあちゃんは亀も飼っていて、亀を小さい頃から育てていて、もう既に
45年になるという。20cmくらいの大きな亀が2匹いた。
冬は半年近く水だけで冬眠しているらしいが、春になって動き出している
という。
「亀と私でどっちが先に亡くなるのかなあ」と言うので、「亀に負けないように
長生きしてください」と言ってきた。




















すいせんが桜の木の下にきれいに咲いていた。




















伏見川から見える遠くの山はまだ雪が残っていた。




















今日の散歩時間1時間10分、4200歩でした。

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2013年4月5日金曜日

旧新町、主計町界隈(1)

今回は、尾張町の通りの裏にある小路の旧新町、主計町を歩いた。
(ただし、下新町は旧町名復活している)
旧新町の小路のつきあたりに建っているのは、精進料理の寿屋である。
ここは法事のときなどに、何度か入ったことがある。
もと羽二重問屋として利用されていたものを、昭和8(1933)年に
購入し、精進料理屋としたものだ。
外観は、大きくきれいな黒瓦の屋根で、木虫籠(きむすこ)や黒漆喰の
正面と調和して、藩政期の面影を残している。
店の中の座敷や仏間など藩政期のもだという。なんとも趣のある部屋
だったことを記憶している。




















またこの当たりは旧博労町といって、その名前の由来は、藩政期に伝馬役所
があり、馬を売り買いする博労たちが住んでいたからという。




















旧新町の町並みは、戦前からの古い町屋が多く、この小路は私の幼稚園時代
に友達はいたのでよく来たし、泉鏡花の小説にもよくでてくる。




















彦三方面に少し曲がったところに、加賀友禅の「木倉や」がある。




















ここの店は加賀友禅の「花嫁のれん」、小物やバックなどきれいな模様が
描かれたものが並んでいた。
創業は、天正7(1579)年というからかなりの老舗である。
店の話を聞きたく入ったが、店員がお客さんとずっと話をしていたので
聞くことができなかったのは残念だ。








































橋場方面に歩いていくと、泉鏡花の生家に建つ泉鏡花記念館があるが、
ここは、また後日はいることとし、向かいの「佃の佃屋」に入った。




















ここは、佃煮を売っているが、特に「ごりの佃煮」と「くるみ煮」が有名である。
子供の頃からよく食べたが、独特の味、食感がある。




















最中の中に入った佃煮はお湯をかけて食べるお茶漬けとして人気があるという。




















ごりは清流にしかいないというが、昔は浅野川でもよく捕れたが、
今はまったくいなく、琵琶湖か北海道のものだと店員が言っていた。

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