2024年4月22日月曜日

 お茶の水駅付近 小石川後楽園(1)

 今回は、3月に東京に用事ができ日帰りで行ってきた。

3時間ほど自由時間ができたので、「神田明神」と「小石川後楽園」を見ることにした。

以前いた会社の同僚を呼び出し「2時に小石川後楽園の玄関前待ち合わせ」とした。

後楽園の待ち合わせ前に1時間ほど余裕があったので「JR御茶ノ水駅」で降りて、昼食を食べて「神田明神」がどこにあるか、聞いて歩き出したがどうもなかなか見つからなく、スマホで見ると「水道橋駅」で反対側に出たようで、同僚との約束時間に間に合いそうもないので「神田明神」へ行くのをあきらめた。

この迷った「御茶ノ水駅」付近は、鉄道や道路が混みあい、大きな橋がいくつもあるから、初めてきた人にはわかりづらいところだ。

この「聖橋」は、昭和2年に駅東口地点で、神田川と中央線、外堀通りを一気に跨ぐために造られたもので、当時は国内最大級の鉄筋コンクリートアーチ橋だった。ニコライ堂と湯島聖堂という二つの聖堂を結ぶことから「聖橋」と名付けられたという。
























聖橋の脇にある木にしめ縄が有られ「太田姫神社 本宮」と描かれた板が付けられていた。

























道路の左側のレンガ造りの壁の上を走っている電車は、オレンジの線が入っているから「JR中央線」だろう。



















こちらは「昌平橋」から見た左側のレンガ壁の上は「中央線」で、神田川の上を斜めに走っているのは「総武線」であろう。向こうに小さく見える赤い電車は「丸の内線」か。神田川沿いのレンガ壁の所には、カフェテラスが見える。


















「昌平橋」の道路と交差している鉄橋は「総武線」が走っている。
何しろ後から写真と地図を見ながら、どこをどう歩いたか調べてもよく分からなかった。


















続いてJR総武線で「お茶の水」駅から「水道橋」駅で降り「小石川後楽園」に行った。そして後楽園の玄関で仲間を待っていたが時間になっても一向に来ない。後で分かったが彼は西門で、私は東門で待っていた。スマホの時代だが、なぜだかこれを生かせず20,30分の遅れで会うことができた。


















この「小石川後楽園」は、水戸徳川家の初代が1629年に造ったというから、兼六園より40数年前からあったことになる。





「東門」から入るとすぐに「内庭」があり、池の中央に小さな島があり、両側に円弧状の洒落た橋が架かっている。「内庭」とは水戸藩邸の書院の庭であるプライベイートガーディンである。金沢城内の「玉泉院丸庭園」ような位置づけか。


















その先に「唐門」があり、かっての「後楽園」の正門であったという。花鳥の彩色彫刻が施された唐門は、戦災で焼失したが2020(令和2)年に復元された。


















こちらは創建された場所に現存する「赤門」である。


















そして中心となる大きな池は「大泉水」で、その中にある大きな島は兼六園と同じ仙人が住むという不老長寿を願った「蓬莱島」である。この島の裏側には、庭師・徳大寺左兵衛にちなんだ大きな鏡石も配されているという。やはり「琵琶湖」を見立てて作られており、北側に「竹生島」を見立てた石もあるという。池の水は、かっては神田川の分水から取り入れていた。



2024年4月19日金曜日

2024年 金沢城新丸 大手堀の桜

 今年の天気は異常なのか、それとも今後はこういう天気になっていくのだろうか(?)3月ごろは結構寒かったのに、4月10以降は夏の様な暑さとなり、桜も従来より随分遅くなったが、金沢の桜も見ごろとなり、金沢城の「新丸」と「大手堀」付近を歩いた。(4月13日)



















「新丸」から見る金沢城の「菱櫓」の建物と桜


















広い新丸の黒門方付近の一角にきれいな桜ゾーンがある。見事なシダレザクラ

























この桜をバックに撮ろうと多くの人たちが写真を写していた。


















この桜の下で若者たちが集まっていたが、以前の花見の宴会と違って静かな雰囲気であった。


















このピンクがかったしだれ桜も地面につきそうなくらい垂れ下がっていた。
































黒門から「大手堀」を見ると桜並木があるが、もう盛りを過ぎたのか少し物足りない。昔私が小さいころに親に連れられて、この桜並木を通って「白鳥路」を通って、兼六園へ花見に行ったことを覚えている。今回は「ぼんぼり」も立っていない。


















この「大手堀」は、唯一藩政期から残っている堀である。私が小・中学校の頃に、よく魚釣りに来た。ダゴか木の下の土の中のミミズを捕まえて餌にしてフナなどを釣ろうとしていたが、私自身は釣った記憶がない。堀の中央には橋が架かっていたし、向こう側は簡単に上れる崖であったので、よく大学のグランドで遊んでいた。その頃の掘の様子とすっかり変わってしまった。


2024年4月15日月曜日

2024年 兼六園の桜

今年は兼六園の桜が、一時暖冬ということで早まるかと思われたが、その後寒い日があったので、ようやく満開に近くなったので見に行った。(4月11日)

平日というのに多くの観光客(特に外国人が多い)でにぎわっていた。



















改装されたばかりの「花見橋」付近は、さらに多くの人が桜を満喫していた。














































謂れのある「小糸桜」は井戸の中から生えている桜の木もきれいに咲いている。

「曲水」付近も桜でいっぱいで、華やいだ雰囲気である。


















「真弓坂」の脇にある苔庭も青々としてきれいである。


















「時雨亭」前の松の木には、ようやく庭師さんが「雪吊」を外していた。最初に外される「唐崎松」が確か3月15日だったからもうそろそろ1か月近くになる。























梅林の中の梅はもうほとんど咲き終えていたが、この白い花だけが咲いていて目立っていた。



































梅林の「シダレザクラ」
























「百閒堀」から「金沢城の石垣」付近に咲いていた桜は、この時はまだ5分咲きぐらいか(4月7日)


















東山付近の浅野川の「梅の橋」から大橋付近を見る。桜の下の河原でのんびりしている人も多い。(4月7日)


















桜と言えば、今は「ソメイヨシノ」が咲く時期をいうようだが、兼六園にはまだまだ遅咲きの桜が多いので、5月の連休中くらいまでは楽しめるだろう。

2024年4月12日金曜日

現代美術展 本多の森 広阪 21世紀美術館の桜

 今回は、石川県立美術館と21関美術館で開催されている「現代美術展」を見に行った。昭和20年10月に終戦直後2か月で奇跡的に開催されたという初回から数えて、今年で節目の80回となる。この初回の開催させるまでの意気込みはさぞすごかったと思う。これが今の「美術工芸王国石川」の礎になっているのは間違いない。

今回も、日本画・洋画・彫刻・工芸・書・カメラと6部門の作品が展示され、文化勲章受章者や人間国宝者などの実力者の他に、一般公募から選ばれた人たちの作品が1000点以上が展示されていた。











































館内の作品はカメラ禁止だったので紹介はできない。
私の学生時代、会社時代の知人や親せきなどの人などの作品が出ているということで、多くの作品の中から目を凝らして見ていた。中には賞をもらっている人もいて、さすがにやっているなあと思った。私はどちらかというと洋画を見るのが好きなのである。どれも素晴らしい作品が多いが、最近は若い人の作品も多くなったのか、題材や描き方も以前と違った作品も多くなってきたように感じた。


















ここからは「本多の森」にあるレトロな建物と桜の写真を紹介する。
煉瓦造りの歴史博物館と桜


















国立工芸館(旧第九師団司令部庁舎)の建物と桜


















国立工芸館(旧偕行社)の建物と桜


















広阪の交差点から「旧金沢城 本丸」方向を見る。この辺りは最近、車も人も混雑している。































もう一つの「現代美術展」の会場の「21世紀美術館」こちらでは日本画・書などを展示していた、



















館内から市役所方向を見る。


















建物前の桜



















「21世紀美術館」のそばに立っているビルの表面に細かいツタ(?)が多く絡まっていたが、これも洒落た外観デザインに見える。
























柿木畠の洋食レストラン「グリル中村屋」で金沢名物「ハントンライス」を久しぶりに食べた。歩き疲れもあったのか、大変おいしかった。


2024年4月6日土曜日

金沢城跡 明治~昭和

 金沢城は、藩政期の約260年は前田家が14代まで支配していたが、明治になって版籍奉還後は、1871(明治4)年には兵部省の管轄となり、さらに陸軍省と変わり、不要な城の建物は壊されていった。明治政府は全国に6か所の鎮台を置き、石川県は名古屋鎮台の営所が置かれることとなった。明治8年には、金沢城三の丸や新丸に歩兵第七連隊が置かれ、徴兵制に基づいて兵が集められた。こうした中で明治14年に旧城内二の丸より失火し、二の丸御殿や五十間長屋はほぼ焼失してしまう。

焼失前の明治初期の橋爪門続櫓





「20世紀の照像」より











明治初期の鼠多門と後方に焼失前の二の丸殿舎が見える。




「20世紀の照像」より








歩兵第七連隊と九十間長屋















そうした中で、1898(明治31)年に北陸の軍事拠点として第九師団が置かれた。日露戦争を想定した軍事拡張よるものである。そして火災にあった二の丸に「第九師団司令部庁舎」が建てられた。現在はこの建物は、本多の森に移り「国立工芸館」として使われている。




























「切手門」の向こうには「第六旅団司令部」が建てられた。建物は現在もこの位置に残っている。


















1932(昭和7)年に城内や出羽町練兵場などで、「産業と観光の大博覧会」が開催されたが、その「三十三間長屋」の会場の様子

















金沢城の陸軍が支配していた時代の城内配置図で、三の丸や新丸広場は歩兵第七連隊兵舎があった。江戸時代に造られた「玉泉院丸庭園」は、現在復元されているが、この場所は「露天馬場」になっていた。





































戦後1947(昭和22)年、GHQの石川軍政体が接収した金沢城跡(旧陸軍第九師団本部と第七連隊駐屯地)の跡地利用の話が浮上し、石川軍政体には軍都から文化都市の転換の構想が持ち上がり、紆余曲折したが昭和24年には、文部省から設置許可が下り、「国立学校設置法」の交付により、新制の「金沢大学」の発足し金沢城内は校舎に一変した。
当初の頃は、「法学部」や「教育学部」の校舎の建物は、歩兵第七連隊兵舎などの兵舎を利用した。

















三十間長屋とその前にある建物は、1950(昭和25)年に白山市明達寺住職で仏教家の「暁烏 敏」(あけがらす はや)が金沢大学に個人の蔵書5万部を寄贈したものが保管されていた。

















「暁烏 敏」は、東京本郷の清沢満之の宗門革新運動の参加し、当時の宗門の禁書であった「歎異抄」を世に広めるなど宗教の近代化に努め、戦前の宗教界・思想界に大きな足跡を残した。また、ヨーロッパ、中国、アメリカなど世界中を旅する旅行家でもあった。その旅の途中で、書物や陶磁器などの収集家でもあった。金沢大学に移管された蔵書は「暁烏文庫」と呼ばれ、新制金沢大学の教育と研究にとって、その後の多くの成果を育む母体となったという。現在は、角間の図書館に保管されている。
























1955(昭和30)年ころの金沢城跡の金沢大学構内の全景
二の丸にはまだ「第九師団司令部庁舎」の建物が残っている。三の丸から本丸へあがる途中にある「弾薬庫跡」石垣などを含めた大きな建物であった遺構が残っている。現在の駐車場付近は「職員官舎」の建物が見える。


















新丸の歩兵第七連隊の兵舎を利用した一般教養部前で野球遊びのクラスメートを見る女子学生のほほえましい風景(昭和27年)















今の「河北門」付近にあった、ここも陸軍の建物を利用した「文化部部室」
















城内に金沢大学キャンパスがあったころの石川門付近を走る市内電車




昭和37年頃以降は、城内の建物は鉄筋コンクリート造に随時変わっていった。
城内にあるキャンパスでは、その頃世界で二つしかなく、学生たちは「登城」する気分でキャンパスに入った。(現在はドイツのハイデルベルク大学だけである)
写真は昭和53年ごろの城内の金沢大学キャンパス












「まるごと金沢城」より