2016年7月31日日曜日

春日神社(中村町)

前回の「中村神社」の続きで、この中村神社の前にはスーパー銭湯「満天の湯」がある。いろいろなお風呂があって人気のあるところだが私はまだここには一度も入ったことがない。




















その前には、大きなショッピングセンター「金沢アピタ」がある。最近は郊外にたくさん建ち古参になったが、町中から一番近い大型ショッピングセンターで重宝している人も多いであろう。




















その「金沢アピタ」の裏の通りを歩くと「春日神社」がある。「春日神社」は、日本に数多く神社があるが、その中でもっとも一般的な形態をよく残している神社といわれる。この神社は井戸水が湧く森の中に佇む社としても知られている。




















ここの境内にも多くの木々があり、ケヤキ、タブノキ、クロマツなど樹高30mに達するものが35本とツバキ、ヤツデ、ツツジなどの低木380本あると立札に書かれていた。


























拝殿の中は「梅鉢の紋」の幕が張られており、その御神徳は「五穀豊穣」、「商売繁盛」、「家内安全」、「身体安全」と生活に密着したものだという。昭和62年に百年に一度ともいえる大工事で拝殿を新しくしたという。ここは、糸田、増泉、石坂、中村、大豆田地区五箇荘の総鎮守社である。




















拝殿の前には金色の立派な「春日神社」の扁額がかかっていた。




















社殿の前の両側にある狛犬の右側にある両足が上がっている狛犬




















奈良県の「春日大社」の杉が平成11年にここに植樹されたものだと石碑に書かれていた。


























色鮮やかな朱色の鳥居が並んでいる「稲荷神社」があり、食べ物の神を祀っていて「商売繁盛」の神として信仰されている。写真の右側には何本も並んだ朱色の鳥居が回廊をつくっていた。この鳥居をくぐり「出世稲荷神社」をお参りするのが一般的な作法といわれている。
本殿の前には狛犬でなく狐像が飾られていた。




















ここも「春日神社」の名のとおり「春日灯籠」がたくさん立ち並んでいる。鹿の彫刻もなされている。

2016年7月27日水曜日

中村神社(千日町)

今回は、千日町にある「中村神社」に行った。ここの拝殿は金沢城の二の丸御殿にあった能舞台が使われてるということで有名である。




















「中村神社」の由来は,下記のごとく書かれていた。
当宮は平成21年に御鎮座1100年を迎えた。
貞享2年(1685)の六台?山派山伏頭・蓮花院の由来書には「往古より中村に鎮座していたと伝がある」と記されており古来より氏子崇敬者の心の拠所として鎮座している。慶長7年(1602)より地蔵院という別當が奉仕し、本尊に薬師如来を安置し、後に春日明神の神霊を迎えた神仏混淆の神社であった。
中村はもと、旧伝馬町、蘭田町、物吉町の中央あたりまでが村地であって部落も犀川の右岸にあったが、城下の拡張で左岸の今の地に移され、このときにお社も一緒に移転し、現在の場所に鎮座した。
明治元年神仏分離令により別當が復職して神職となり、宝久寺を中村春日社と改称し、明治13年9月に郷社に列せられた。
また、拝殿は、旧金沢城二の丸御殿内に建立された舞楽殿(能舞台)を移築した金沢城内の数少ない建造物であ、平成16年には文化庁登録有形文化財に指定された。

















すぐに拝殿の方に行き、二拝二拍手一拝して丁寧にお参りした後、江戸時代の中期に建造されたという金沢城の二の丸御殿にあった舞楽殿(ぶがくでん)(能舞台)をしっかり見た。
金沢城は明治14年に大火災に巻き込まれ、城内の建物はほとんど焼失したが、舞楽殿は明治3年に卯辰山に造営した加賀藩戦没者の招魂社拝殿として使われていて焼失を免れていた。その後に石引の護国神社が造営され、御霊のみを遷し、舞楽殿は取り残され放置されていたが、昭和40年ごろに中村神社の社殿改装に伴い、この地に移築されることになったという。




















桃山風建築様式の重厚な総ケヤキ造りで、四方の欄間は有名な成巽閣の欄間も彫った武田友月の作で、金色の目を光らせる竜神がある。移築が結果的に幸いし、城内の火災から逃れたのが、この龍が水を呼びこんだといわれるようになったという。




















極彩色輝かしい模様が描かれた格天井が、数百年経っても前田家藩主の威厳を感じさせる。この眩い色彩の下で、藩主らが家臣を前にここで能を舞ったのかと想像する。




















また、拝殿の中に千日町の獅子舞に使われる金色の角や歯をもった桐(?)で作られた立派な獅子頭が飾られていた。




















参道の両側にはこれもやはり立派な春日灯籠が並んでいた。


























「洗心」と書かれた手水鉢が置かれ、その後ろに「中村神社」の由来が描かれた石碑があった。




















荒々しい顔立ちのおおきな「狛犬」




















境内には数本の大きなケヤキがあり、さながら鎮守の杜となっている。

2016年7月23日土曜日

2016東京ドライブ(8) 富岡製糸場② 七日市藩陣屋跡

2016東京ドライブ(7) 富岡製糸場①の続きで、ほかにも建物がいくつかある。
首長館(ブリュナ館)はフランス人指導者のポールブリュナ家族が住んだ建物である。木骨煉瓦造りの平屋で、周囲にベランダが設けてある。ブリュナは養蚕、製糸、生糸に確かな目を持ち、取引に長けていたという。




















「検査人館」は2階建てで、1873(明治6)年に建てられた。生糸の検査などにあたった技師たちの居住として使われた。2階には迎賓室もある。





















「女工館」は建物が2階建てで、コロニアル洋式である。ブリュナがフランスから呼び寄せた4人の女子技術指導員が住んだいた。大正時代には、食堂、会議室に使われた。




















工女たちの寄宿舎で、東西に2棟あり、約120の部屋数があったという。現在は老朽化し、近寄れないという。  




















繭から糸を集めて生糸をつくる座繰り作業を見学できた。繭の中から1本の糸の先端を探すのは、どうやってやるのか疑問に思っていたが、ブラシのようなものを使って簡単に取り出せると言っていた。このブラシは、自動機械になっても同じものが付けられていたという。




















桑を食べて育つ蚕は脱皮を繰り返し、5齢になって10日で糸を吐き出すという。この蚕が繭をつくる。




















繭がたくさん保存されている棚




















続いて、「富岡製糸場」を離れて、車で約7~8分のところにある「七日市藩陣屋跡」を見に行った。ここは、現在「富岡高校」敷地となっている。




















1616(元和2)年に加賀藩祖の前田利家の五男利孝が、大坂夏の陣での功績が認められ、上野の国で1万石を与えられ陣屋を築いた。天保12年に御殿や長屋を全焼し同14年に再建したという。現在の陣屋跡には、御殿の一部、黒門、櫓台、外周土塁、石垣などがある。屋根には「加賀藩の梅鉢紋」とは若干違う「星梅鉢」の紋が入っていた。




















門から御殿の間には庭園があり、つつじやあじさいなどがきれいに咲いていた。また池には大きな鯉が泳いでいた。




















「七日市藩陣屋跡」の西辺の石垣辺りに、1837(天保10)年ここの10代前田利和(としより)が、初代藩主利孝の200年忌にあたり建てたという元祖廟があった。高さが4.5mもあり、基礎の両面に利孝の事績を後世に伝える銘文が漢文で刻まれている。この丘は古墳時代に築造された円墳であるという。偶然に珍しいものを見ることができた。

2016年7月19日火曜日

2016東京ドライブ(7) 富岡製糸場①

2016東京ドライブ(6)の続きで、その後東京を離れ、関越自動車道から信越高速道路を通って、前から行きたいと思っていた世界遺産になっている「富岡製糸場」に行った。というのも、ここは日本初の官営の製糸工場として1872(明治5)年に操業開始したしたところあるが、金沢の「尾山神社の神門」は、加賀藩士だった「長谷川準也」が明治維新で寂れた「金沢再生」のために「あっと言わせるものを造ってほしい」と大工の「津田吉之助」に設計を頼んで造らせたものである。吉之助は当時の「富岡製糸場」や東京の銀行などの建物を見に行き、参考にして設計して奇抜な建物を造ったと聞いていたので、どんな建物か見たいと思っていた。




















「富岡製糸場」は、明治政府が近代国家成立のために殖産興業政策の基づき西欧の先進技術を導入して本格的な器械製糸工場を建設した。その当時は製糸は貿易で需要が高く、外資獲得のため重要な輸出品で、政府が高品質な製糸を大量生産できるようにしたするために設立した官営の模範工場である。




















工場建設はフランス人の人が行い、建設資材は群馬県内で調達した。建物はほとんどが創業当時のまま保存されており、2014年6月に「世界遺産」に登録された。




















同時に「田島弥平旧宅」など3施設が登録された。田島弥平は養蚕指導書「養蚕新論」を書いた人で、養蚕には通気が重要と蚕の飼育を考えたという。旧宅には屋根に通気用の総櫓が設けられているという。


























「荒船風穴」は年間を通して岩の隙間から冷風が吹いていて、石積みの建屋を造り冷気を封じ込め、蚕種(卵)が産みつけられた種紙を貯蔵した施設である。


























ここもガイドさんの説明を受けながら回った。「東繭倉庫」や「西繭倉庫」の建物はレンガ造りで、和洋折衷の技術が取り入れられている。長方形のレンガは長手と小口が互い違いに組まれていおり、主要な部分に木製の柱があり、強固な建物になっているという。




















「繰糸工場」は、長さ140m、幅12.3m、高さ12.1mあるが、真ん中に柱がなく、空間の広さが実感できる。これは三角形の枠組みが屋根を支える「トラス構造」となっているからだという。大正9年まで電気が通っていなかったため、採光用に大きなガラス窓が取り入れられていた。




















その下には、現在は操業していないのでビニールが掛けられていたが、多くの製糸器械が並んでいた。




















「繰糸工場」の外観は和風の雰囲気がある。




















当時は「お雇い外国人」が「富岡製糸場」に来ていて、指導していたという。


























また、当時は300人の工女いたが、見習として全国各地から来ていたという。なかでも滋賀県の人が多く、石川県からも2人の人がいたらしい。ここで習って地元の製糸工場が出来たときに指導者として活躍したのであろう。この「富岡製糸場」の何年間後に「金沢製糸工場」ができているが、ここの女工として働いた人が指導者となったのであろうか?




















その後は、最先端の器械を導入していき、操業停止時には日本の技術力によって作られた自動繰糸機が活躍したという。

2016年7月15日金曜日

2016東京ドライブ(6) 板橋(旧加賀藩下屋敷跡)

次の日 板橋(旧加賀藩下屋敷)に行くことにし、「いたばし観光センター」に向かった。場所を見つけるのに苦労したが、何とかたどり着けた。
「いたばし観光センター」内に展示されている「旧加賀藩下屋敷」の地図を見ながら説明を受けた。1680(延宝8)年には、加賀藩前田家は本郷邸を上屋敷に、馬込邸を中屋敷に、そして板橋宿に面する平尾邸を下屋敷に定めている。下屋敷の平尾邸は、約28,000坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸にある大名屋敷では最大の大きさを持っていたという。邸内には上石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝など配された池泉回遊式があった。その規模は、兼六園の約7倍の広さがあったという。




















邸内には与力を筆頭に大半は定番足軽など、ここを管理する50人ほどだけがが詰めていて、ほとんどは上屋敷の人たちの食料などを作っていた。この平尾邸は、通常は藩主とその家族の別荘として使われており、彼らが保養、散策に訪れ、時には鷹狩や花火なども行われていたという。


























今回は、ここのボランティアガイドさんに案内してもらった。金沢市と板橋区は「友好交流都市協定」として締結している。百万石行列には、毎年、5代綱紀役が板橋区の人がなっている。この人も、去年に綱紀の付き人役として参加したという。




















当時の跡は何も残っていないが、この付近には「金沢」や「加賀」などの地名が多く残っている。
下図は「金沢小学校」




















「金沢橋」




















上石神井川の畔には「ことじ灯篭」が置かれていた。




















屋敷内の庭園の築山の跡は「加賀公園」になっており、「友好交流都市協定」締結を記念して建てられた「尾山神社神門」のステンドグラスを模して建てられた記念碑があった。








































また、この公園一帯は明治から終戦までは、火薬を製造する大きな板橋火薬製造所があった。明治9年に完成し、この火薬製造所で使われた「圧磨機圧輪記念碑」があり、これは実際に上石神井川の水を利用し、火薬製造に使われていた実物であるという。この材料はヨーロッパ産の大理石で、幕末の重臣が藩命を受けてベルギーから購入したものという。
この地が火薬製造所となったのは、加賀藩士で洋学に通じていた「佐野かなえ」が、当時の兵部省の造兵部門の長やっていた関係からの可能性があるという。




















当時使われていた火薬を運ぶための電気軌道(トロッコ)線軌道や火薬の試射をして検査するための長い鉄管なども残っていた。









































この近くに「野口研究所」の建物があったが、旭化成創業者の野口遵(のぐちしたがう)が設立した電気化学の開発研究所であった。野口遵は、加賀藩士の長男として生まれ、生後まもなく東京の加賀藩邸に移った。帝国大学工科大学を卒業した後、日本窒素肥料(現チッソ)を設立したり、朝鮮半島にいくつもの水力発電所や巨大な化学コンビナートなどを建設し、「電気化学工業の父」と呼ばれている。




















藩政期には、この加賀藩下屋敷が中山道板橋宿に近いことから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場所としても利用されたり、また、その家族や家臣などの送迎の場ともなっていたという。