2021年4月26日月曜日

永光寺(1)

 昨年12月にテニス仲間で、同じボランティア仲間である人たちと「山中温泉」に行ったが、また同じ仲間から誘いを受けて、今回は「和倉温泉」に行くことになった。(3月初旬)

「和倉温泉」に行く途中、前から行きたいと思っていた能登の歴史上有名な「石動山」に向かった。しかし車で山に上っている途中に、山道の脇に雪が残っていたが、さらに上ると大きな大木や枝葉が道をふさいでいた。後で知ったが「石動山」は12月~3月までは閉山であるとことが分かった。

それで「石動山」を目指して走っている途中に「永光寺」の標柱を見たので、10kmくらい戻り「永光寺」に行った。




















参道脇には荒々しく岩が並んだ渓谷風の「永光寺川」が流れている。
























参道を進むと立派な「中道門」があり、これよりいよいよ永光寺の境内に入り込む。



















途中に「弁天堂」があった。



















さらに歩き太鼓橋を渡り、急な長い階段を上ると山門に出る。



















欅材を用いた白木づくりの幕末期らしく山門は、名工 柴田新兵衛作で豪快な造りと、緻密な細工が特徴で1866(慶応2)年に再建されたものだという。山門の中の両側に吊るされた草鞋(わらじ)は健脚を願い奉納されたという。



















山門の左右の仁王像は、伽藍を外敵から守るために入り口に安置され、阿吽の対になっている。





























山門をくぐると中央にあるのが「永光寺」で一番大きな建物の法堂(本堂)である。入り口は立派な唐破風の屋根があり、屋根も立派な瓦屋根である。

ここは曹洞宗の高祖・道元禅師と並び、太祖として尊崇される瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が正和元年(1312年)能登の国・酒井に開創した曹洞宗発展史上最も重要な地位を占める古刹である。元亨元年(1321年)後醍醐天皇より「曹洞宗出世道場」の綸旨を賜り、勅願寺となった。足利尊氏の北朝時代には、光厳上皇が能登国利生塔を建立。足利直義も仏舎利二粒を三重の利生塔に納めて安穏を祈るなど隆盛を極める。

応仁の乱で伽藍の大部分を焼失、その後、後土御門天皇の発願で再興されましたが、天正7年(西暦1579年)、兵火により、七尾城とともに再び全山を焼亡するという悲運に見舞われた。江戸時代に入り、前田利家が能登を領したときには寺領三百石を認め永光寺復興に尽力した。現在の建物は寛永以後の再興で、その伽藍は曹洞宗寺院の源流のひとつだという。(永光寺HPより)




















本堂前に池があり「蛇胎石」と呼ばれる大きな石が出ている。法堂はその上に建てたところ一晩でひっくり返り、その夜蛇が現れ「苦しくて息ができん、頭を出して水をたたえてくれ」といったとか…様々な説があるという。
各建物は中庭を囲むように回廊で結ばれている。



















「僧堂」は主として座禅を行うところで、日本最古の僧形文殊菩薩座像が安置されている。

左側の2階には大きな「鐘楼」が見える。その上には、一段ずつ登る毎に幽玄な雰囲気が感じられる「五老峯」への廻廊となっている。

2021年4月22日木曜日

レブレッソ コーヒー店、ゆず庵

今回は、家の近くにオープンした「 レブレッソ コーヒー店」に行った。(4月13日)ここは元「北光の花屋」だったところである。




















開店したばかりでどんな店かと思い午後1時近くだったが、まだ行列がついていた。最近多くなった「イートイン」も「テイクアウト」できる店で、食パンも販売していた。



















店はこじんまりしていて、テーブル席とカウンター席が少しあった。平日の昼というのに若い人がほとんどだった。



















私は店に貼ってあるポスターの「バターとはちみつが載ったトースト」がおいしそうだったので、それとコーヒーを注文した。トーストがかなり分厚く食べがいがあった。



















家のものはサンドイッチを食べたかったらしいが、まだやっていないということでピザトーストを注文した。まあそれなりの味だった。











それより数日前に有松にある「ゆず庵」に行った。寿司としゃぶしゃぶが食べ放題というが昼からそんなに食べられない。


































今日はあまり混んでいないが、平日のランチだからこちらの店はシニアの人が多い。



















食べ放題はやめて木箱に入った「松花堂」を注文すると、刺身や玉子入りのちらし寿司にてんぷらや豆腐や茶わん蒸しなどいろいろとついてきた。



















それにあさりとつみれの小さな鍋がついてきが、私の好みのもので味もまあまあである。これで1000円以下はリーズナブルである。休日であれば家族連れで結構混んでいるのだろう。




2021年4月18日日曜日

十間町 谷庄商店 尾張町 中六商店 謎の建物

 前回の上・下近江町の近くの十間町に古美術商「谷庄商店」がある。レトロな洋館と和館が並んだ特徴のある建物である。

その前は安江町に店があったが「彦三大火」で焼けてしまったので、昭和2年にここに建てられたという。洋館の道路側には、2階に上面がアーチ状の3連窓と下には大きな窓になっている。




















谷庄商店は初代が明治元年に本町に創業し、金沢で盛んな「茶道具」を中心に古美術品を販売し、古美術品の鑑定も行っている。2代目が「金沢美術倶楽部」を創設し、会長となって茶道・工芸の町金沢の古美術品を引っ張っている。ピンクの洋館の玄関の戸を開いて「ちょっと中を見せてください」と言うと、現在の6代目らしき人が「どうぞお入りください」と親切に言ってくれた。
























茶道具の店らしく中は茶室のような展示室兼応接室で、壁や床の間、床柱などなかなか風流な雰囲気である。金屏風や掛け軸などもすばらしい。



















ショーウィンドウの中には、高級そうな器などが並べられていた。



















格子窓がいくつもあり、下面は網代模様になっている。部屋の中央にテーブルとソファが置かれ、ここでお客さんとの応対がなされるようである。



















続いて、市姫通に出ると武蔵が辻の近くに江戸時代からやっているという味噌・醤油の店「中六商店」がある。私がよく来た頃は、レトロな雰囲気の店であったが、「市姫通り」を拡張するということで、ずいぶん店が狭くなり店内の雰囲気もがらりと変わった。店の隣には、ここで買ったものをすぐに食べられるコーナーとなっている。近江町市場に近く、金沢駅から東山茶屋街の途中にあるので、多くの観光客が歩いて通るコースである。



















従来からの味を守っている味噌・醤油の他に「あめ」なども並んでいた。



















他に味噌と醤油にジェラートを組み合わせたここの6代当主の娘さんが手作りのジェラートを売っている。



















「市姫通り」の拡張で、さらに隣の「市姫神社」の境内も随分狭くなった。さらに向こうの「加賀の麩不室屋」の本店は、なくなってしまうが、当然次のことは考えているはずで、どこにどんな店を作るのだろうか?



















「中六商店」の隣から後ろにかけてマンションを建てていたが、コロナの影響で工事を全く中断しているという。どうなるのであろうか?
























「加賀の麩不室屋」の本店の裏には、かなり壊れかかった謎の建物がある。
金沢の中心地でありながら、このような家が残っているのは珍しい。ここは、昭和20年代まで小児科医院(?)をやっていたらしい。その医者のお爺さんが亡くなり、その後お婆さんが昭和40年代まで一人で住んでいた。その息子家族は東京に住んでいて、夏休みには帰ってきていた。お婆さんが亡くなってからは空き家になっていたが、時々孫たちがここに住んで清掃などをしていたようだ。



















南京板下見張りの壁面で、上げ下げの窓に上部に飾りがついている。下面の方は縦張りの板でさらに狭い石垣になっている。この建物は明治20年代の頃のものではないかといわれている。



















医院の隣が自宅だったが、ここも荒れ果てていた。2階は出窓が付いているし3階には天窓が付いた小さな部屋になっている。玄関前は鉢などが置かれ簡単には入れない状態である。
























この壊れかかったレトロな建物を改修して、何とか維持して行ってもらいたいものである。

2021年4月13日火曜日

上・下近江町界隈

 「旧新町」を歩いた後、近江町市場の外の「上近江町」と下近江町を歩いた。近江町市場は開場してから今年で300年になるという。いろいろとイベントも企画されているらしい。

昭和40年代の大々的な住所変更の際も、「近江町市場」の名称ブランドを守るため「近江町」をかたくなに守り変更がなかった所だ。




















「旧博労町」側から「上近江町」に入ると「金沢美術俱楽部」の建物がある。ここは3年前に100周年を迎えてイベントがあったのを記憶している。ここの建物は4階建てであるが、各階に畳敷きの大広間がある。ここでは定期的に骨董美術品の競りが行われている。目の肥えているプロ集団が集まるのだろう。また、美術品や呉服の展示会、茶会、講演会や邦楽の発表会などのイベントも行われているという。テレビの「なんでも鑑定団」で有名な「中島誠之助さん」も時々ここへきていると以前のテレビで聞いたことがあるが、ここでは非常に珍しいなものがよく出ると言っていた。



















さらに進むと、市場のテントからは外れているいるが、この辺りは昭和40年代初頭に西念に「中央卸売市場」ができる前には水産問屋があったところだ。



















新幹線開業以来、近江町市場の観光客が増え、さらに食べ歩きの人が増えたことにより地元の人などから批判が多くなった。この辺りは市場の中央から少し離れているので、人の混雑が少ないことからか、店前にカウンターで新鮮な魚介類を食べれるコーナーがあったり、新しくできた駐車場の下には、テーブルと椅子が並べられており、市場で買ったものをゆっくり食べることができる場所があった。

































もう1本市姫通側の通りは「下近江町通り」であるが、こちらは売り場は少ないが市場内の関連の建物が多い。「能登牛」の看板があるところは、市場の3軒目の業務用や贈答用などの「中田天狗の肉店」だ。

























さらに角には、茶道具・古美術品を扱っている「平寿商店」がある。ここは、江戸後期に創業しているが、その当時からの建物だという。木板に覆われているがレトロな出窓に、下方には薄い石板が張られた洒落たデザインである。




















側面も古めかしい木造のたてもので、中を見たいものである。その向こうには「金沢美術倶楽部」で、ビルの隣の和風の建物が見える。その間には小さいが洒落た庭があるという。


江戸時代の建物の横には「平寿」の看板が掲げられているが、こちらは明治期の建物だという。店の前でうろうろしていると中からご主人が出てきて、いろいろ聞くことができた。
























店の中に入らせてくれたが、そこには参勤交代の時に使われたという引き出し型の小物入れ用の「長持」で、肩に担ぐ長い棒を差し込むための鉄製の輪っかがはめ込まれている。大変古いものでありながら、外観は非常に艶がありきれいだった。



















「旧博労町」に以前あった「郵政局本店」の跡地は、ずっと長く駐車場であったが、今は建機が入って地下を掘り起こしの工事をしていた。ようやく建物の基礎を作っているようであるが、マンションが建つと聞いている。大手町のNHK跡地も市姫神社の向かいの「マルカ食品」の所もマンション建設予定地だと聞いているが、そんなに需要があるのかなあ?

2021年4月9日金曜日

旧新町界隈

 今回は、尾張町通の1本裏手の細い道の「旧新町」を歩いた。手前側が「下新町」で、奥のほうが「上新町」である。


この通りの入り口の向かい側に、非常にきれいに改修された町家がある。以前は「壽屋」という精進料理の料亭だったが、すっかり店構えが変わっている。看板がなにもかかっていないが、中はどんな風になっているのだろうか?




















横には漆喰の塗られ下のほうは赤戸室で、その上は笏谷石の石板が貼られた大きな蔵がある。この建物は、もと羽二重問屋として利用されていたものを、昭和8(1933)年に購入し、精進料理「壽屋」としたものだ。



















新町の通りを歩いていくと、左手に立派な町家がある。2階は以前と変わらないようであるが1階は以前は木造の長い格子窓があったと記憶しているが、今は重厚なつくりの車庫かな?



















建物の真ん中には、昔からの「大戸」がそのまま使われていた。実は、私が幼稚園の時ここに同級生がいて、その当時にこの建物の中に何度か入ったことを覚えている。すごい大きな家だったという印象がある。現在は(株)石谷となっているが、以前は香林坊の裏の映画街にあった「金沢松竹会館」の社長などやっていた人の家だと聞いたことがある。



















石谷家の向かいにも小さな町家がある。入り口横の板塀には鉄輪のようなものがはめ込まれているが、なんだろう?



















さらに橋場町方面に進むと「清水家住宅」があり、明治後期の建築で高二階形式の町屋がある。二階は背が低いが、軒の背がい構造となっている。雨除けを持つ出格子、重厚な二階軒椀木がある町家である。



















さらに「石崎商店」は「favori」というレンストランとなっているが、明治20年ごろの建てられた町家である。中央に玄関を持つ珍しいもので、なかのトオリニワはしっかりとした木組みと漆喰壁で構成されている。高い吹き抜けになっており上の天窓から明かりを入れている。



















商家の離れとして建築されたもので、明治後期に建てられたものだという。当初は尾張町本通りに面した本家と棟続きであったという。玄関の前の両側の柱は小庇を含めて少し張り出している。2階にも小庇とともに出格子になっており、壁は朱塗りになって粋な町家の風情を醸し出している。

























角の所には「旧新町」の標柱が建っていた。藩政初期からの町名で、尾張町に家屋が増え、町地が狭くなったので、新しく町立てされたため、この名がついた」とあった。
























この先は「下新町」で、そん先に泉鏡花の生誕地や久保市神社などに通じている。鏡花の関連で「神楽坂」と姉妹町として協定を組んでいる。
























さらに歩いていくと大手門からの道のどん詰まりにある「高田医院」の隣に創業120年の金箔屋さん「カタニ」がある。ここでは「金箔貼り」の体験が手軽にできる店として紹介している。「ひがし茶屋街」にもいくつかあるが、ここは少し離れているので穴場かもしれない。金箔貼りセットとマスキングテープあれば自宅でもできるという。

店の隣の町屋の玄関を改造して、いろいろな色の金箔のオブジェが並べられていた。金箔はゴールド色だけでなく1号色から4号色、24金色のほかに銀箔、プラチア箔などもある。金箔は金・銀・銅の混合で作られるが、その配合の違いによって赤っぽい色や青っぽい色のもなるという。














その隣のレンガが使われたレトロな洋館の建物「沢田医院」があるが、この向かいの駐車場の所に、昭和初期には、あの徳田秋声が姉の葬儀に帰郷した際の出来事である「町の踊り場」の作品に出てくる「ダンスホール」があったという。