2020年9月29日火曜日

大聖寺巡り(4)江沼神社長流亭

 大聖寺巡り(3)旧大聖寺城跡②の続きで、その後昼食をとった後、「江沼神社長流亭」に行った。

1639年に加賀藩の支藩の大聖寺藩が置かれた。藩主が住まう城は築かず、大聖寺川と熊坂川が合流する地に屋敷を設けた。その庭園の隅には後に、別邸が造られた。この「川端御亭」と呼ばれた建物は雅名を「長流亭」といった。棟札の記載から、棟上げは1709(宝永6)年である。藩主は3代の前田利直の時だが、それを50年さかのぼる1659(万治2)年の着工といわれる。時の藩主は初代利治である。その設計者は利治と親交のあった小堀遠州といわれる。遠州は、加賀藩主らにも信奉者が多く、著名な茶人で天才的な建築、造園家でもあった。

「長流亭」の建物は、桁行5間(9.5m)梁間(8.4m)のほぼ正方形の平屋で、こけら葺きの屋根で数寄屋造りである。




今回頂いた資料より















藩政期の「長流亭」の絵図




今回頂いた資料より









建物の中はシンプルで、中央に6畳半の座敷が二間並び、四方を畳敷きの入側(通路)を囲むだけである。

付書院には弾むような曲線の枠を持つ障子の上の欄間の透かし彫りはなかなか見ごたえがある




















床の間の床柱は白木で木目がきれいに出ている。
























天井は網代を格子枠で区切った珍しいものである。



















途中を仕切る杉戸には色鮮やかな文様が描かれていて目が奪われる。
























玄関扉はこのような建築には珍しい観音開きで、円窓風の上部にはやはり凝った透かし彫りになっている。
































目立たない障子下の桟にも鼓(?)の文様が彫られていた。



















お座敷周りの廊下の角の天井には、板材の方向やその枠材の取り付け方は、今の職人ではできる人はいないという。




















「江沼神社」は、初め宝永元年(1704)4月三代前田利直邸内に菅原道真の霊を祀り天満天神社と云い、廃藩の際那谷寺境内に遷座した。これより先に祀られた松嶋社は明治6年10月松嶋神社と改称、同7年11月祭神を前田利治公とした。同10年2月江沼神社と改称、同年9月郷社に昇格。同12年さきに那谷寺境内に遷座した天満天神社を合祀同16年6月県社に昇格。大正8年6月8日有栖川宮妃慰子殿下御参拝。(石川県神社庁公式サイトより)




















近くに大聖寺川が流れており、神社北からは風流な「大聖寺流し船」が見られることがあるという。



















ここの庭園は、旧大聖寺城藩の園地で、三代藩主利直公が1709(宝永6)年藩邸再建に伴い「長流亭」とともに築造したものである。ここの池は常に流れていて、川から入ってきて別の川に流れているという。



















壮大なひさご池、中島に架かる板橋、石組みの間から湧き出る清水(錦城山の下からひているともいわれる)など作庭にあたっては今の兼六園の影響があったといわれていて池泉回遊式の庭園となっている。


2020年9月25日金曜日

大聖寺巡り(3)旧大聖寺城跡②

 大聖寺巡り(2)旧大聖寺城跡①の続きで、さらに歩いていくと本丸に着き、隅の方に四阿があった。頂いた資料から以前はこの辺りに小さな池があったようだ。




















本丸を囲む土塁は大規模なもので周りにずっとある。



















本丸に残る櫓台跡は錦城山山頂で、標高65mの平らな場所である。



















櫓台跡の崖が崩れるのを防ぐためか(?)土嚢が積まれていた。
























本丸を超えて、さらにあるいていくと「馬洗い池」の案内板があった。ここに堰き止め周囲と掘り窪めて造られた人工池で、山頂近くにありながら、かっては夏でも水が枯れることはなかったという。籠城に備えた飲料水を確保するために造られたという。



















続いて、「二の丸跡」に行った。ここは、城内最大の曲輪で台所屋敷ともいわれた。南側以外をほぼ方形に区画し手土塁を設け、斜面下に空堀を巡らせている。本丸側と戸次丸側に虎口がある。



















二の丸の周りにも土塁が巡らされている。



















熱心に講師の話に耳を傾ける参加者たち。



















土塁の外側には水のない「空堀」があり、曲輪を防御している。山城の場合は幅が狭くても深く掘ることにより防御性が高めているという。



















こちらは「堀切」で峰続きの尾根と遮断するために掘られたものである。
























「番所屋敷跡」から「下馬屋敷跡」を下りていく。



















「東の丸跡」付近には、「深田久弥日本百名山50周年記念」の碑がある。



















「東の丸跡」からは眺望が開けていて、東方の白山連邦のきれいに見える。



















帰りに、城の登り口付近に「贋金造り」の洞窟がある。明治維新の際に新政府から越後戦争に使用する弾薬を求められた大聖寺藩がその軍資金を調達するために贋金造りをしていたということである。銀製品を溶かして二歩金を作って山代温泉の湯に浸して流通させたということである。その後にこれが発覚して責任者の市橋波江に切腹をさせ、さらにその息子には倍の禄を以って功に報いたということである。

2020年9月21日月曜日

大聖寺巡り(2)旧大聖寺城跡①

 大聖寺巡り(1)蘇梁館の続きで、その後「旧大聖寺城跡」に行った。

大聖寺城は、標高63m程度の低山ながら急峻な斜面であり、通称「錦城山」(藩政期には「古城山」といわれていた)に築城された。

この城は古代より水陸交通の要衝であり、また越前と加賀の国境に近く軍事上の拠点であったため、南北朝時代から戦国時代まで度々合戦の舞台となったが、藩政期には廃城となり人々も立入禁止された「お止め山」となった。明治時代以降も大きく改変されず、土づくり城から石垣の城への変遷する近世城郭の成立期の遺構を良好にとどめているという。





「パンフレット」より













この城の歴史は古く、「太平記」に1355(建武2)年に鎌倉方残党の名越氏を地元の土豪狩野氏一党がこの城で迎え撃ったと記されている。
戦国末期には加賀一向一揆の拠点となり、越前朝倉氏との攻防が繰り広げられたが、織田信長が一揆勢を掃討した後は織田方の支配拠点となった。続いて天下人の秀吉が丹羽長重に与え、与力であった溝口英勝が城主となった。現在残る縄張りと大聖寺城下の原形はこの頃に形成されたという。



「パンフレット」より








その後、英勝が転封され、代わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入城した。(1598年)しかし関ヶ原合戦の前哨戦として秀吉方に与した山口玄蕃は、徳川方の前田利長に攻められ落城した。以後前田方の重要な抑えとして修復され、城代が置かれた。(1600年)そして1615年一国一城令によって廃城となった。大聖寺藩創設に際しても一般人の入山は禁止されたという。




「パンフレット」より









下の駐車場から錦城山を見る。ここから旧大聖寺城跡の入口となる。












旧大聖寺城跡の大手道を通って上がる。















階段はかなり急で、息が上がる。

























本丸と鐘が丸の分岐点で、右に曲がると本丸に入れる。



















さらに上がると「馬出曲輪跡」に出る。ここは、本丸から続く尾根の東端に位置するほぼ方形の曲輪で、南側の一段下がった部分に枡形虎口が造営され、防衛上もっとも強固な構造となっている。通路はこの曲輪を通り直角に進行を変えて本丸下の曲輪に通じている。このような曲輪と城道の屈曲した出入り口を馬出と呼び、近世城郭の最も効果的な入口の形態だという。



















この「馬出曲輪跡」付近からは眺望が開け、眼下を見下ろせる場所がある。遠くに小さく「小松ドーム」の屋根が見えるので、向こうの山並みは東側方向の白山連邦だろう。



















本丸へ行く途中には所々階段があり、周りには土塁がある。



















「坂土橋」は堀切の真ん中に通された土の橋、又は堀を掘り起こした際に土手として残した部分で坂になったり直角に曲がったりしている土橋もあり、敵を大軍で通過させないためのものであるという。




















「本丸南虎口」は、本丸の正門で馬出曲輪の出入り口である。この虎口は二折れの坂土橋の造りで、防備と攻撃を兼ね備えた構造になっているという。





2020年9月17日木曜日

大聖寺巡り(1)蘇梁館

 今回は、「ふるさとモット学び塾」の現地講座「大聖寺城と城下町の魅力を訪ねて」に参加し、いくつかを巡ったので紹介する。(9月2日)

まず、「蘇梁館」に行った。江戸末期から明治にかけて活躍し、北前船主の中でも最大の勢力を誇っていた久保彦兵衛の6代目は海を見下ろす小高い丘の上に豪勢な住宅を1841(天保11)年に建てたもので、離れには大乗寺藩主もたびたび訪れたという。そして、久保彦兵衛邸の主屋の部分がここに移築復元され「蘇梁館」となった。




















茶の間(10畳)とオエ(40畳)は床が板の間になっているが、天井の梁は、松材の巨木で直径70cm以上といわれ、推定樹齢200年以上であり、旧久保彦兵衛邸の梁として使用されている。
大乗寺藩有林の中でも特に松材は御林山、松山と称して松奉行を置き、巡視管理にあたった御用松材を大乗寺藩主から拝領したという破格の待遇を受けていたという。










































ナカノディ(寝間)の10畳と8畳の和室



















そこの違い棚の所に、明治時代の何代目かの久保彦兵衛(?)の写真と「船箪笥」が置かれていた。「船箪笥」は貴重なものが入れてあり、北前船で航海中に船が転覆しても浮いてきて中のものは大丈夫だという。



















床の間の横に「付書院」と呼ばれる縁側沿いに出窓のような部分に机や障子やその上には素晴らしい文様が入った障子(?)があった。



















庭園の一角に鉢前の手水鉢は水琴窟になっている。



















大きな雪見灯篭は菩提「蜂の巣」の名品である。



















側面側の庭は「日本海」と「北前船」を主題とした現代の枯山水で、積み荷を満杯に張った船を表し、さらに向こうには「船石の庭」と称し、日本海を公開する五隻の北前船を石組みで表現しているという。



















座敷はクチノディという10畳とナカノディ12.5畳の部屋は群青壁である。





























玄関前には高さ八尺という大きな春日灯篭は、通称「蜂の巣」の石材である。
























その近くに秋には紫の実をつけるという「ムラサキシキブ」があった。赤い実のつける木は多くあるが紫の実は珍しい。この美しい紫色の実を、源氏物語を書いた紫式部のの名前をかけて付けたものだ。