2016年6月27日月曜日

2016東京ドライブ(2) 旧岩崎邸庭園 洋館

2016東京ドライブ(1)の続きで、次の日の午前中は、約10年間過ごした品川の近所で親しくしていた人と会って、久しぶりでの再開を楽しんだ。
その後、山手線に乗って「御徒町」で下車して、「旧岩崎邸庭園」へ行った。




















ここは1896(明治29)年に、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の長男の三菱社長の久彌(ひさや)の本邸として造られた。往時は約15,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいたという。現在は1/3の敷地となり、現存するのは洋館・撞球室・和館大広間の3棟のみである。
洋館は、日本の西欧建築の父ともいわれるイギリスの建築家のジョイサイア・コンドルが設計した。




















同じころの西洋建築にはない、細かい装飾がなされている。




















洋館の中はガイドさんについて説明を受けながら回った。




















17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾があちこちに見られ、イギリス・ルネッサンス様式やイスラム風のモチーフなどが取り入れられているという。




















2階の客室には、貴重な金唐革紙の壁紙が貼られていた。








































1階の婦人客室天井にはシルクの日本刺繍のの布張りになっていた。




















洋館の南側は、列柱の並ぶベランダ(東南アジアの植民地と発達しコロニアル方式を踏襲)で、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の特徴を持っているという。




















また、1階のベランダには、英国のミントン社製のタイルが目地なく引き詰められていている。




















庭園は、江戸時代の越後高田藩榊原氏、および明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷で、大名庭園を一部踏襲していたという。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しているという。





















往時をしのぶ庭には、江戸時代の大きな灯篭があった。

2016年6月23日木曜日

2016東京ドライブ(1) 赤坂離宮迎賓館

今回は、途中の観光地も巡りたいと思い、2泊3日で東京へ車で出かけた。(6月7日)梅雨入りもしてしまったが、なんとか雨は降っていなかった。横川サービスエリアで恒例の「釜めし」を食べて、東京に入り、2時ごろ「赤坂離宮」に着いた。正門は白い鉄柵160m、中央に正門と横に脇門があり、正面中央部に金色の菊の紋章が輝いている。




















ここは、これまで毎年夏の10日間だけ一般公開されていたが、今年の4月からいつでも見れることになった。ネットの情報からたいへん混雑していると予想したが思ったより楽には入れた。
この迎賓館は、かって紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、1909(明治42)年に東宮御所として建設されたものである。構造は鉄骨補強レンガ造りで、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設したもので、日本におけるネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築だという。




















この建物は、昭和天皇や今上天皇が一時期にお住まいになっただけで、東宮御所としてはあまり使われなかったという。戦後は皇室から行政へ移管され、公的機関に利用されていた。その後、国際関係が緊密化し、外国の賓客を迎えることが多くなったため「旧赤坂離宮」を改修し、迎賓館をつくることとなり1974(昭和49)年に完成した。開館以来、世界各国の国王、大統領、首相などの国賓、公賓がこの迎賓館に宿泊し、歓迎行事を行い、政財界要人との会談など華々しい外交活動の舞台となっている。また、先進国首脳会議などの会場としても使用されている。
建物の外観は外壁ががっしりと造られた2階建ての宮殿で、翼を広げたような形をしている。




















建物の中央正面にはバルコニーのついた玄関で、上部に菊のご紋章が飾られていて、両脇の屋根に甲冑がある。




















また、少し離れた左右の屋根にそれぞれ天球儀と金色の霊鳥が飾られて、屋根は緑青でおおわれている。


























建物の南面のベランダにはイオニア式の大円柱が並び、ルーブル宮殿とよく似ているという。南に面した庭には大きな噴水池がある。




















また、その周りには枝ぶりのよい松が何本か植えられていた。




















本館内部はカメラ禁止だったので撮ることはできなかったが、入場の際にもらったパンフレットに載っていた写真で紹介する。所々に説明員がいて説明してくれた。
「彩鸞の間」は、白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫で装飾され、10枚の鏡が広く部屋を見せている。
この部屋は、表敬訪問のために訪れた来客が最初に案内される控えの間として利用されたり、晩餐会の招待客が国賓などに謁見したり、条約‣協定の調印式や国賓などとのテレビインタビューなどに使用されているという。








「赤坂離宮迎賓館」パンフレットより











「花鳥風月の間」には天井に描かれた36枚の絵や、欄間に張られたゴブラン織風綴織、壁面に飾られた30枚の七宝に花鳥風月が描かれている。
この部屋は、主に国賓などの主催の公式晩餐会が催される大食堂として使われる。










「赤坂離宮迎賓館」パンフレットより









「朝日の間」は天井に「朝日を背にして女神が香車を走らせる姿」の絵が描かれ、周囲の16本の円柱はノルウェー産の大理石である。
この部屋は、国賓などサロンとして使われ、ここで表敬訪問や首脳会談などが行われている。










「赤坂離宮迎賓館」パンフレットより









「羽衣の間」には、天井に謡曲の「羽衣」の景趣を描いた曲面画法の大絵画が描かれている。3基のシャンデリアは、ここで最も豪華なもので、高さは3m、重さは800Kgあり、壁には楽器、楽譜などをあしらった石膏の浮彫で飾られている。また正面にはオーケストラボックスがあり、かってはこの部屋で舞踏会として設計されたという。
この部屋は、雨天の際に歓迎行事を行ったり、レセプションや会議場などとして使用されている。










「赤坂離宮迎賓館」パンフレットより









日本国内の最高級の迎賓館を初めて見たが、まるでヨーロッパ風の宮殿のようで何とも素晴らしい建物と内部の豪華な雰囲気であり、よい体験をした。

2016年6月19日日曜日

尾張町老舗交流館(2) 尾張町老舗の絵図、チラシ 金沢文芸館

尾張町老舗交流館(1)の続きで、この館内には1888(明治21)年当時の尾張町商店街大店の銅版画図が貼られていた。現在でもある「山田時計店」や「三田商店」などが描かれていた。




















下図には、これも現在でもある「油脂の森忠商店」や「薬種商の石黒伝六商店」、「お菓子の森八商店」などが描かれている。どの店も大きく、このころの尾張町商店街がいかに立派で大きな店が多かったかがが分かる絵図だ。




















このブログの「旧今町」で紹介した洋館のレトロな建物のある衣類のボタンや糸、毛糸などの卸商の「村松商店」のチラシが展示されていた。これらは「引札」(ひきふだ)といわれ、広告用の木版・石版などのチラシで、めでたい図柄や縁起の良い七福神などを描いたものがあった。明治の中頃から大正時代に最盛期を迎え、その名残は昭和20年代まで続いたという。




















現在も十間町にある紙卸商の「中嶋商店」のチラシの他に昔の銅版画図と現在の写真で建物が展示されていたが、ほとんど変わらないようである。




















現在は「近江町いちば館」の1階にある「荒木紙店」のポスターがあった。私の子供ころには近江町の青草口の横にあり、よく画用紙や文房具などを買いに行ったことを覚えている。




















続いて橋場町交差点付近まで歩くと、以前は古本が山のように積まれていた「古本屋」が改装されきれいな店に代わっていた。学生のころに本を持っていくと、どんな本でも受け取ってくれたが、店の人は多くの本で隠れて見えなかった記憶がある。




















店内に入るときれいな洋書がきれいにに並べてあり、手軽に本を取って見れるようになっている。以前の店とはすっかり変わってしまった。ここの女性店員に聞くと3か月くらい前にオープンしたばかりという。最近は外国観光客が多く歩くようになったからであろうか?奥はシェアオフィスとして使えるようになっているという。




















橋場町交差点の角には、面白い形状の1929(昭和4)年に建てられたというモダニズム建築の建物がある。元々は銀行だった建物の外観を当時のままの雰囲気を生かして金沢市が改修し「金沢文芸館」となった。銀行だったときは1階が天井の高い2階建てだったが、今は3階建てに改修されている。1階の長いアーチ状の窓からそれが分かる。


























正面玄関はイオニア式角柱付け柱を左右に配した意匠で、金沢市内にほとんどなくなってしまった昭和初期の様式デザインで、その装飾がすばらしい。




















エレベーターで3階に上がると「泉鏡花文学コーナー」となっていて、昭和48年に制定されてから、毎年、鏡花の名にふさわしいロマンの香り高い文芸作品が受賞作として選ばれているが、その作品がすべて揃っている。




















3階の「文芸フロア」には、泉鏡花文学賞受賞者の作品や市民文学賞作品などが本棚に並んでいて、手にとってテーブル席でゆっくり読むことができる。




















2階にはDVDコーナーがあり、五木寛之氏が金沢の町を歩いて感じたことなどが載っている「新金沢小景」や「百寺巡礼」などのDVDなどが置かれていた。後日、ここでのんびりDVDを見て金沢のいろいろなことを知るのもいいだろう。




















他に、五木寛之氏の著作品、愛用品や記念品などが置かれていて、氏の文学の原点が金沢であり、金沢との関わりが分かるコーナーである。私も若いころに、随分、五木寛之氏の本を読んだものである。




















1階は「交流サロン」として、文芸を愛する人たちが気軽に語り合える場となっている。

2016年6月15日水曜日

尾張町老舗交流館(1) 金沢市街地図(幕末~現在) 加賀てまり

尾張町1丁目(旧今町)に続いて、大通りにある「尾張町老舗交流館」に入った。ここは、以前は「めがね屋」であったという。店内にはめがねが並べられていた「ショーウィンドー」の棚の枠が残っていた。


























今回は、ここで幕末から昭和初期の「金沢町絵図」(地図)が展示されているということで、金沢の町がどのように変遷していったかがわかると思い見に行った。
下図の「町絵図」は天保年間(1830~1843)のものとあるが、幕末の安政のころ(1850年代)までのものは、いくつか見たことがあり、武士の名前まで細かく描かれている。




















下図は1970(明治3)年の「金沢の町図」で、明治になって武士たちが藩から俸禄をもらっていたのが、藩がなくなり自分で仕事をしなければならなくなった過渡期のもので、武士の名前はなく、シンプルな絵図である。




















下図は、大正8年の「金沢市街地図」で、この年に金沢駅から公園下までの市内電車が開通しているが、電車を走らせるための広い通りができているのが分かる。しかし、まだ現在の浅野川や犀川の大橋ができる前の橋なので狭くなっている。城内には「第9師団」、「歩兵7連隊」、他に「出羽町練兵所」、「野村練兵所」などが記されている。




















昭和4年の「金沢市街地図」では、赤線と点で路線と停留所が記されていて、さらに市内電車が広がっているのが分かる。また昭和2年の大火の後にできた「彦三大通り」ができているのが分かる。




















下図の「金沢市街地図」は戦争真っ最中の昭和19年の珍しい地図である。城内には「尾山町」、「黒門町」の通りが記されていて、地図から見る限りどこが城内かわからず、そこに「陸軍」がいたことは分からない地図となっている。このころには「昭和大通り」や「南端国道」ができており記されている。


























現在の「金沢市の地図」と比較して、町名や通りや施設など、その変遷を比較してみるのも面白いものである。



続いて、ここの場所には金沢の伝統工芸の一つ「加賀てまり」がいろいろ並べられていた。徳川家康の孫で、3歳で前田家に輿入れした珠姫(たまひめ)が江戸から持参してきた「てまり」がルーツで、現在でも金沢で継承されている。金沢の東山(旧森下町)の「薬種商の綿谷小作」が保管していたというてまりが展示されていた。




















「加賀てまり」は糸を巻いて固めて土台の珠を作り、色鮮やかな五菜の糸を操り、四季折々に咲く日本の花をイメージした巧妙な幾何学模様を描くという。その糸や製作途中の「加賀てまり」も展示されていた。




















金沢では今でも、娘が嫁ぐ際に魔除けとして持たせる風習が残っている。玄関や床の間に飾れば、部屋が華やぎ、優美な雰囲気になる。


2016年6月11日土曜日

尾張町1丁目(旧今町)界隈

今回は、尾張町大通りから金沢城方向に1本入った通りを歩いた。
ここは、「旧今町」といってその由来は「今町は新しく町立てされたことによる。今町の年代は不明だが、元禄年間(1688~1704)には上今町、下今町の記録があり、本町の一つだった」という。




















この辺りは、金沢城の「新丸」に近く、明治、大正、昭和の初めまでは、陸軍歩兵七連隊が「新丸」にいたので、その頃は商店や、飲み屋、旅館などがあり、賑わっていたらしい。その後静かになったが、最近は武蔵、金沢城、東茶屋街に近いことから観光客などが歩いている人が多くなったようだ。ここには以前からあった「中安旅館」や「やまむろ旅館」などは、金沢駅付近のホテル型の宿泊施設と違って、和風の畳の部屋などが外国人に人気があると聞いた。




















ここの通りには、「金澤町家」の建物が多く残っている。3階建てで、一番上の屋根の下には「カゼガエシ」ではなく金具が備えられていた。また左横は切り妻屋根がいくつもある珍しい建物であった。




















「旧今町」と「旧中町」の交差点の角にはやはり3階建ての建物で、一番上の屋根は三角でなく平たい部分がある珍しいものだ。どちらも大きな「金澤町家」である。




















以前に郵便局があった隣にはこれも大きな町家の「広沢紙店」の建物がある。この建物は100年以上たっていると、ここの店のおばさんが言っていた。




















昔はいろいろな紙を売っていたのを覚えているが、今はここのおばさんが手作りで作ったという水引などが並んでいた。














































橋場町に近い四つ角に、糸や旗などを取り扱ったという「旧村松商店」のおもしろい建物がある。1928(昭和3)年に建てられた鉄筋コンクリートの建物で、金沢市内では早い時期のもので、金沢市指定保存建造物となっている。角には蛇腹状の翠色の帯装飾があるアールデコ調が特徴である。以前には屋上の搭屋のさらに上に広告塔が建っており、外壁面に多くのイルミネーションがあったという。戦前のイルミネーションが点いている夜景はさぞ見ごたえがあっただろうと想像する。




















現在の店のショーウィンドーには観葉植物(?)や洒落た雑貨ようなものが置かれていた。




















現在の「村松商事」は、尾張町商店街の「尾張町老舗交流館」の隣にある。明治24年創業というから130年以上ずっと、旗やのぼり、幕、はっぴなどを扱っている非常に歴史のある店だ。