2019年2月26日火曜日

中橋町、長田町界隈(4)長田菅原神社②

中橋町、長田町界隈(4)の続きで、長田菅原神社の境内にあるものを紹介する。ひとつめの鳥居をくぐるとすぐに見える大きなケヤキの「御神木」があった。
























二つ目の鳥居の左わきには「ねまり牛」の上に「菅原道真公」が載っている珍しい「ねまり牛」だ。兼六園の「金沢神社」にも大きな「ねまり牛」が置かれている。「天神のねまり牛」は「学芸上達」にご利益があるという。
























芭蕉の弟子の「句空」がこの辺りに来た特に詠んだ句が刻まれた石碑があり、裏に刻まれた文を読もうとしたがなかなか読めなく「小松砂丘謹書」と書かれたところだけが分かった。
























摂社の「稲荷社」
























社殿横に小さな祠と狛犬らしきものがあり、かなり古いものと思われるがどんな由来があるのだろうか?
















その裏にもうひとつ御神木の大ケヤキがあった。
























その後、「樋俣用水」に沿って下流のほうを歩くと「長田三尊ヶ池不動尊」がある。
























この不動尊は「目の神様」であり、近くの井戸の清水で目を洗うと眼病が治るといわれている。



















この不動尊の両側には「樋俣用水」と「木曳川」が流れているが、特に「木曳川」は「まめだ大通り」を超えてから、しばらくは古道沿いに幅広い川となって走る。その後徐々に街中の用水から農地の用水に変貌しながら金石港にゆったりと流れる。かっては水量も豊富であっため舟運が発達していて川舟は木材だけでなく、米や野菜なども運ばれたという。



















2019年2月22日金曜日

中橋町、長田町界隈(3)長田菅原神社①

中橋町、長田町界隈(2)の続きで、その後「長田町小学校」の裏にある「長田菅原神社」に行った。ここはもともと長田の鎮守社であり、はじめは長田天神社といわれ、今の神社の向かいの天神畠というところに社殿の他に神社を守る七堂伽藍があり、社地も広大であったという。しかし、1577(天正5)年に越後の上杉謙信が上洛の途中に、松任城主鏑木右衛門頼信を襲撃した際に、その兵火にみまわれ社殿などすべてを焼失したという。その折に、神職の橘家の祖先であった成応寺道雲は兵火を潜り抜け、ご神体を守護して山林へ逃げ、文禄年間に現在の場所に小詞を造営し、ようやく再興したという。



















はじめは「長田神社」または「長田天神」といっていたが、明治6年に社号を「長田菅原神社」と改め、旧社格は村社に列せられたという。
奥に入るともう一つ鳥居がある。この前に「長田天神宮」の標柱が建っている。



















参道横の「手水舎」の前に、この建物が金沢市の指定文化財である立て看板があった。
江戸の初期の1643(寛永20)年に4代藩主前田光高公が金沢城内の甚右衛門坂の上の北の丸に徳川家康公を祀る東照宮を建立し、これを「金沢権現堂」といっていた。時代が変わって1873(明治6)年神仏混交廃止により、仏像仏具が取り除かれ「尾崎神社」と改称された。しかし明治9年に金沢城が旧陸軍の所管となり、明治11年に尾崎神社の建物のほとんどは丸の内の現在地に移転した。この時に尾崎神社の「護摩堂」(護摩を焚き祈祷する建物)を譲り受け、長田菅原神社の拝殿として移築されたものである。したがって北陸では数少ない江戸初期に日光廟式社殿である。




















下図写真は重要文化財となっている現在の尾崎神社




社殿の前には、白地に「梅鉢紋」が描かれた提灯と狛犬が置かれていた。ここの狛犬は目の色が緑色の珍しいものだ。
社殿は雪囲いに覆われていて建物前面の様子を見れなかったのは残念でした。






































お参りするために「雪囲い」扉から中に入った。お賽銭を入れて丁寧にお参りした後、拝殿の様子を見させてもらった。上のほうに「 長田菅原神社」の扁額が掲げられていた。その周りの柱や梁などは朱色の漆が塗られていた。中央の奥に本殿、そして両側に弓矢を持った「髄身像」が祀られていた。



















 拝殿前の上には「天満宮」の扁額が掛かっている。



















ここには、江戸初期の権現造り総朱丹塗りの建造物として、手挟み、蟇股、桝組戸などの建築技法を使い、唐戸、蟇股に施された白い花や鳥などの彫刻に極彩色が使われている。軒の支輪に加賀藩で好まれた吹き寄せの手法が用いられているのは、尾崎神社の拝殿・幣殿などと共通した意匠であるという。


































拝殿総朱丹塗りの復元工事に合わせて、屋根ななども新しく改修されていた。



2019年2月18日月曜日

大蓮寺 涅槃会

今回は、野町にある豪姫の菩提寺として有名な「大蓮寺」で、「涅槃会」の法要があるということで行ってきた。(2月10日)



















「大蓮寺」は1604(慶長9)年に加賀藩祖前田利家に仕えた荒子七人衆のひとりの小塚淡路守秀正は前田利家が金沢城に入城後に、七尾の西光寺住職を招いて御馬屋町(現:木の新保)に建立したが、後に当地が御用地になったため、現在の野町に移ったという。















本堂の玄関の唐風屋根の下の方に、波状に掘られた細やかな彫刻が見られた。



















本堂の脇に「延命地蔵尊」が祀られていた。



















お寺の裏の墓地には、「豪姫」の供養塔の横に「宇喜多秀家」の供養塔が建てられ、400年ぶりに一緒に並べられた。



















豪姫と秀家の位牌とともに、奥にあるのは豪姫が秀家と2人の息子たちの無事を祈ったという念持仏の「聖観音」がある。



















入滅されたお釈迦様を多くの弟子や動物たちが嘆き悲しんでいる涅槃図は何度か見たが、ここの絵は横たわるお釈迦様は黄金色であった。



















本尊の前には、檀家さんのご子息の娘さんが描かれたという「豪姫」の絵や八丈島の二人の像とともに美しい夕焼けの写真などが飾られていた。住職さんが八丈島へ行ったときに撮ったもので、こんなにきれいな写真はなかなか撮れないう自慢の作品だ。二人の像はこの西日の方向にある「備前岡山」を見つめているという。



















「本尊」と「お釈迦さんの涅槃会」前で読経が終わった後に、住職さんのお話を聞いた。宇喜多秀家は秀吉の五大老(徳川家康、前田利家など)のひとりで一番若かったという。秀吉の朝鮮出兵の時に朝鮮の子供を数人連れてきて、八丈島に流された後、豪姫が加賀藩に連れてきた。そのうちの一人が小姓頭となった脇田直堅だという。関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成の対決と言われているが、実質の大将は五大老のひとりだった宇喜多秀家だったろうという。闘いで敗れた後、息子2人は秀家と八丈島へ、娘2人は豪姫とともに加賀藩に連れてこられたという。ほかに家臣たち13人がいたという。そして豪姫が3代藩主利常に懇願して八丈島に、米や薬などの物資を送ったが、明治になるまで約260年間送り続けたという。明治になって流刑が解かれて8家が東京板橋(加賀藩下屋敷)に帰ったが、また八丈島に戻った人もいるという。



















お話が終わった後に、恒例の涅槃会の餅がまかれた。一生懸命に受け取ろうとしたがなかなか取れく、下に落ちたのを拾うしかなかった。。
















昨年、八丈島で行われた法要の写真や新聞記事が飾られていた。八丈島との交流を続けるために今年の11月にまたに行くという。
















2019年2月14日木曜日

中橋町、長田町界隈(2)筋違橋 旧古道木揚場 長田町小学校

中橋町、長田町界隈(1)の続きで、その後「鞍月用水」と「大野庄用水」が合流する地点へ向かった。「大隅橋」付近では金網上になった板が何枚も用水の中に並べられていたが、何のためだろうか?



















用水が合流した「深川橋」から見た左側が「鞍月用水」で、右側が「大野庄用水」である。この辺は現在では細い流れになっているが、以前はもっと水量が多かったようである。そこに水浴びしている「サギ」の親子を見つけた。そっと近づくと親が子の方によって行き、危ないかどうか確かめているようで、ほほえましい風景だった。




















その傍らに「旧古道木揚場」の標柱が建っていた。「藩政時代、宮腰(金石)から舟でざいもくを運搬し、陸揚げしたところからなのでこの名が付いた」とあった。ここで揚げられた材木が、材木商が多く住む安江木町(現在の安江町・本町・玉川町・芳斉などにまたがる)に運ばれたという。安江木町に隣接する「木の新保」は、木挽・大工・木材運搬人が多数住み、活気あふれるところだったという。
























「深川橋」から用水の下流側を見ると、また流れが二つに分流する所で、片側に立派な水門が付けられていた。左側は「木曳川」そして右側は「樋俣用水」となって下流に流れていく。



















その近くに「木曳川」にかかる「木曳橋」と「樋俣用水」にかかる「樋俣橋」がある。

































下の写真は、昭和6年頃のこの付近の用水の様子で、子供たちが用水の中に入って遊んでいる。現在はもちろんこういう光景は見られない。








「金沢のいまむかし」より















さらに歩くと「まめだ大通り」に出る。駅西の「広岡」方面から「豆田大橋」を通る大通りでラッシュ時間帯はかなり混雑しているらしく交通量は多い。いつ頃この道が開通したのだろうか?


































通りの向かい側には、立派な建物の「長田町小学校」がある。ここは昭和7年に開校したというから歴史は浅い。開校間もないころには、市立商業が併設されていたという時期があったらしい。街中の小学生はずいぶん減って統合されているが、この辺りの小学生の人数はどうなのだろうか?



















下の写真は、昭和8年に長田町尋常小学校の屋上から撮ったもので、市内中心部をJR北陸線越しに眺めた風景で、金沢城跡の森が見え、右手に市営の大きなガスタンクが見える。このガスタンクは、私が小学生のころには街中のあちこちから見えたと記憶している。





「金沢のいまむかし」より

2019年2月10日日曜日

中橋町、長田町界隈(1) 中橋 旧古道、旧大隅町

今回は、中橋町、長田町界隈を歩いた。まず「六枚町交差点」から「金石大通り」方面へのすぐ脇に斜めの通りがある。ここを入っていくと「鞍月用水」に架かる「古道橋」を渡り、その先の左側に「大衆割烹 喜乃屋」という店がある。ここは去年の暮れに私が以前やっていたテニス仲間の忘年会があり参加したところだ。料理は「カニ」なども出てリーズナブルで結構おいしかった。



















その店の横の小さな公園に「旧古道」の標柱が建っている。「金沢城下から宮腰(金石)へ通じる古い道であったが、元和2年新しく往還ができたので、新道に対して古道と呼んだ。」とあった。
























そこから路地を通り「金石大通り」に出ると「中橋の高架路」に出る。今でこそ立派な高架路となっていて交通の混雑は少なくなったが、私が知っているだけでも3回変わっている。



















私が小学生の頃は「中橋踏切」となっていて遮断機があり、その横に階段を上がる高い歩道橋があり、歩道橋の上から黙々と煙を出して走る「蒸気機関車」をよく見に行った記憶がある。「シュッシュッ」と独特の音を出して走り、近くで「ポー」汽笛が鳴るとその大きさにびっくりしたものだ。下の写真は歩道橋が見えないので、中橋ではなく近くの踏切か?



















戦後の高度成長期に入ると交通量が増え踏切の遮断機が降りたままの時間が多くなり、駅西方面と市内中心部を結ぶ交通のネックとなり、1959(昭和34)年に「中橋陸橋」ができた。この陸橋は自動車専用道路で、歩行者や自転車は地下道を通った。しかし陸橋は両側の道路より車線が狭く、次第にまた交通渋滞になった。



















高架橋の近くに「中橋陸橋の跡」の石碑が建っていた。この陸橋の変遷が描かれているようであるがよく読めなかった。



















その石碑の横に「筋違町」の標柱が建っている。「鞍月用水に斜めにかけられた橋をすじかい橋といい、この名が町の名になった。はじめすじかい橋町ともいった。」とあった。
























「金石街道」を高架路をくぐった左手に「きふじん」という玄関前に「金澤うなぎ、どじょう」ののぼり旗が建っている店があった。入り口の上に蒸気機関車の「C5739」の看板が付けられていた。(実際に使われていたものだろう)「中橋」を昔、蒸気機関車が走っていたので付けたのだろう。私は「うなぎ・どじょう」のかば焼きが大好きであるが、一度は行ってみたいものである。



















その裏側は藩政期からの道であろうか細い道である。



















その道の脇に「旧大隅町」の標柱が建っており、「加賀藩の老臣、長大隅守の家臣が、寛文期に能登から移り住んだところで、新(荒)屋敷、新家中と呼ばれていたが、明治になってこの名がついた。」とあった。