2018年6月27日水曜日

泉用水 九谷光焼仙窯元 野町駅

千日町、白菊町界隈(2)の続きで、その後、西インター通りを渡り、増泉と野町の間を流れる泉用水沿いを歩いた。この道は、道路が狭く車は通れない。私が自転車で町中へ行く場合は、この道を通っている。
























この泉用水は「藩政期の初期に水路が開かれたもので、犀川大橋の上流約50m地点で木工沈床を設けて取水していた」と記されており、白菊町の標柱には「藩政初期からある農業用水で犀川から取水し、旧石川郡米丸村、三馬村泉、同西泉の田畑をうるおしていた。」とあるが、藩政初期に誰が作ったのか、あまり記録がない謎の多い用水だという。この用水の野町側はなだらかな坂になっている。坂の上の方はにし茶屋街で、通りの先に検番がかすかに見える。



















また、反対側の増泉側もなだらかな坂になっていて、分水が所々にあり水門がある。この辺りはほとんどが細い道路に沿って分水が流れている。



















この辺りからは道が少し広くなり、車が通れるようになっている。



















さらに先を用水沿いに歩いていくと、右手に「九谷焼光仙窯元」がある。



















ここは、金沢市内にある唯一の九谷焼の窯元があるところで、明治3年創業というからもう150年近く前からあることになる。青木木米が春日山に再興九谷を始めてから70年後くらいになるが、個人的にやってもよいと許可が出てから始めたとここの店の人から聞いた。ろくろ成型から上絵付まで一貫して手作業で制作している窯元で、九谷焼の本場の寺井や加賀市へは遠いので、金沢市内にあるここへ見に来る人も多い。(最近は外国人も多いと言っていた)



















工場の前の店内には、ここで作られた多くの九谷焼の作品が展示されていた。昭和天皇の写真が飾られていたが(写真は湯涌温泉の白雲楼ホテルで)、今の天皇や皇太子もこちらへ見に来られているという。
こちらでは、九谷の展示のほか、製造工程の案内、ここで作られた製品の販売、絵付け体験ができるという。




















さらに歩いていくと、用水沿いに住宅や店が並んでいる所には、1軒1軒に木に橋が架かっていた。鞍月用水の「せせらぎ通り」には、1軒1軒に立派な橋が架かっているのは知っていたが、それは暗渠から開渠にするときの条件で架けられたと聞いている。こちらの橋は更に古いようであるが、いつごろにできた橋なのだろうか?



















さらに歩いていくと、北陸鉄道の石川線の始発駅の「野町駅」にでる。最近は全く乗らなくなったので、ここの駅に来ることもなくなったが、学生時代までは市内電車で野町まで来て、ここから石川線で、鶴来や手取遊園、そして白山登山の時は白山下まで利用したものである。小学4年生の時に、ハイキング遠足で「倉ヶ岳」登った時に「四十万駅」までこの電車を利用したが、その時に一緒に行った連中の中に、電車が走っている途中、デッキについていたひもを引っ張ってしまって、電車が急停止してびっくりしたを覚えている。



















野町駅と鶴来駅まで10km程度に17駅もあるので駅と駅の間隔が非常に短い。また、時刻表を見ると、朝の7時台だけが3本で、あとは1時間に1本か2本だけである。郊外ののんびり走る電車という雰囲気である。最近は、「田舎ののんびり走る電車の旅」がテレビ番組で人気があるが、機会があれば私もこの石川線に乗って各駅停車を楽しみたいと思っている。

2018年6月23日土曜日

白菊町界隈 旧白菊町駅 瑞泉寺

千日町界隈の続きで、また、元に戻り「室生犀星記念館」を通り過ぎると、「白菊町」の標柱があった。ここには「加賀藩士、前田平太夫の下屋敷があったところで、その定紋「菊一文字」にちなんで、この名がついた」とあった。
























犀川の「新橋」から「白菊町」交差点までの道には、「瑞泉寺」などがあるが、今から50年位前までこの付近に北陸鉄道の石川線の始発駅「白菊町駅」があり、小学生のころに何度か来たことをかすかに覚えているが、どんな駅だったかまったく記憶がない。



















下図は昭和29年ころの地図



















今は旧白菊町駅の面影が全くないが、どこにあったのかと思い、近くの郵便局に入り、ここの職員の中では一番年配の人に聞いたが「全く分からない」という。そしたら、ここに来ていたお客さんで年配の叔母さんが、「恐らくあのマンション辺りではないか」と言っていた。



















さらに奥に歩くと以前「北陸冷蔵」があったところは「白菊町緑地」になっていた。



















その緑地の横に「出村製作所」という、前に木材がいっぱい並べられていた製材所があった。犀川大橋から御影大橋までの左岸では、かっては鶴来方面からの木材の集散地で、石川線の「白菊町駅」まで輸送したため、この辺りに製材業者が軒を並べていたという。



















「瑞泉寺」は寛永年間(1624~1644)創建された真宗大谷派の寺院である。石川郡押野の上宮寺に越中国井波の瑞泉寺第8世・准秀の次男・宣心が入寺、瑞泉寺と改名した。享保年間より東方の触れ頭役担ってきたという。



















この寺には、親鸞聖人御真影、蓮如上人御真筆名合および触れ頭文書を含む17,838点もの古文書が残っているという。この文書は藩政時代の加賀藩による寺社統制の具体相と真宗寺院の在り方を知る上で、質・量ともに県内に遺存する最も貴重な基礎史料であり、金沢城下町における生活文化を理解する史料としても重要だという。



















山門や本堂の周りには、彫刻で有名な越中井波と思われる細やかな彫刻がなされたいた。

































境内の参道の脇にある赤戸室の灯篭と鐘楼

































お寺の前に「旧五十人町」の標柱があり「藩政前期、加賀藩士小幡宮内の下屋敷があったが、のち、足軽五十人組が住んだので、この名がついた」とあった。
























この辺りの幕末の古地図


















2018年6月19日火曜日

千日町界隈 雨宝院 

前回の「室生犀星記念館」を見た後、付近を少し歩いた。犀川大橋方向に歩いて行くと犀星が育った有名なお寺の「雨宝院」がある。このお寺の前に「千日町」の標柱があり、「この町に真言宗の雨宝院があり、山号が千日山であるところから、この名がついた」とあった。
























「雨宝院」は、736(天平8)年に白山開山の泰澄大師が創建し、その後1597(文禄4)年に雄勢上人により再建された。高野山真言宗のお寺で、ここの住職の養子となった金沢の三文豪の室生犀星が幼少のころ過ごしたお寺である。



















このお寺の前や境内にいくつかの石碑や地蔵菩薩などが置かれている。山門の左手には、室生犀星の「性に目覚めるころ」の作品の一部が記された石碑があった。犀星が居たころは今のように堤防がなく、寺の裏の庭から犀川に降りて、よく水を汲んでいたという。



















山門前の左手には、六地蔵がある。六地蔵とは、六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩である。



















本堂の前に二つの赤くて長い提灯がぶら下がっており、ここの本尊の金毘羅大権現と描かれていた。犀星の「性に目覚めるころ」の作品の中に「少女が、ここの賽銭箱のお金を盗んでいるのを、犀星が黙って密かに見ていた」という節があるが、この賽銭箱が今でもお寺の中に残っていると聞いたことがある。



















その脇に、小さな梵鐘がぶら下がっており、、金沢33観音の寺巡りの17番札所の看板が掲げられている。
























境内にある「まよひ子石」は、犀星が「たたずんだりもたれたりするのにちょうど良かった」そうで、『子供が道に迷ったりすると、この墓碑に祈願すれば、ひとりでに子供の迷っている町がわかる』石として紹介されている。また、親が飢餓などで育てられない子供を、目立つこの石の前に置いて、育ててもらおうとしたものであるともいう。



















本堂前の右奥の方にある「子安地蔵菩薩尊」は、安産、病気治癒、長寿、知恵など10の願いを聞いてくれるという。胸に小さな子地藏を抱き、唇に紅をひいた女性のお地蔵さんということで、娘の安産を願い、寺に腹帯をもらいに来る人も多いという。また西の廓に近いので、廓のお茶屋さんや芸妓さんなどのお参りも多かったという。
また、本堂隣の建物「十輪堂」には、「延命地蔵尊菩薩」が安置されており、毎年8月10日には大祭として「十輪堂」の扉が開けられる。ここは、かって地藏巡礼24か所の1番寺であった遍照寺の地蔵で、明治22年に寺号を廃止した際、雨宝院に移されたという。
























その向かいにある寺は「徳龍寺」である。真宗大谷派の寺院で、1616(元和2)年に現在地に創建された。山門は元禄のころ、本堂庫裏は「雨宝院」の享保の大火直後の建物という。金沢東別院再建後、現在の本尊はこの寺にあったものを移転したものだという。現在、「にし」の観光客を呼び起こすであろう「谷口吉郎記念館」が寺町に建設中であるが、この建築家谷口吉郎氏の菩提寺でもある。



















その前を流れている用水は「泉用水」で、犀川大橋の下に水門があり、さらに上流に取水口があるようだ。































2018年6月14日木曜日

室生犀星記念館(2)旅する犀星

室生犀星記念館(1)旅する犀星の続きで、その後、明治43年に上京してから最初に帰郷したのが明治45年で、帰郷中、東京で親しくなった友人の自殺を知らされ、友人の故郷であった七尾の海で友を想う詩を作った。七尾ではさらに甥の小幡禎一を訪ね、ここで京都旅行の資金援助を依頼している。



















大正2年に京都の旅を終えて2か月後に金沢の雨宝院から東京の北原白秋に宛てにだした葉書には「いま深谷といふ温泉からかへつてきたところです。湯づかれがしてぼんやりしてます。」と書かれている。このころの犀星といえば、白秋が主催していた詩集「ザンボア」に詩が多く掲載されている。このころは「小景異情」を発表したりし、若き犀星の抒情詩が最高潮であったころである。深谷温泉は金沢市の森本の奥の方にある有名な温泉で、特に「元湯 石屋」は江戸時代から創業している老舗で、能舞台もあるレトロで高級感があり値段も高いという印象があり、私はまだ一度も行っていない。



















加賀温泉郷の山中、山代、片山津らの温泉地は、震災にあって東京から帰省中の大正13年に訪れ、いくつかの俳句を残している。



















犀星が小幡禎一に抱いた葉書や 犀星が泊まった山代温泉の「くらや」の絵葉書や山代、山中温泉の景色が映っている絵葉書などが展示されていた。


































大正9年7月、犀星は田端駅を出発し、信州へ一人で旅に出かけた。
























紀行文「旅のノオトから」(「時事新報」大正9年7月31日~8月31日)に書かれたものには、「軽井沢を通り過ぎ、まずは長野駅に降り立ちます。車で市街を抜け、善光寺前にあるホテル藤屋にやどをとって風呂を浴び、日が暮れてから善光寺をおまいりした」とある。ホテル藤屋の絵葉書や長野市内の地図や付近のパノラマ地図が展示されていた。
ホテル藤屋の所は、藩政期には加賀藩の参勤交代の本陣があった所だという。



















善光寺の当時の写真で、現在とはずいぶん違うところもあるだろう。
翌日は柏原駅(現黒姫駅)から車で野尻湖へ向かい、小林一茶のお墓を参りした。野尻湖で小松屋に落ち着き、湖の涼と星空を楽しんだ。東京の帰路に軽井沢で下車し、つるや旅館に宿泊した。これが軽井沢を訪れた最初であるという。



















翌年以降毎年の夏に軽井沢で過ごすことになるという。ここから犀星は、軽井沢を起点に信越本線に沿って観光地や温泉を訪れ、旅を楽しんだ.
大正10年に萩原朔太郎を軽井沢に呼び寄せて二人で赤倉温泉に行き、水入らずの旅を満喫。泊まったホテルには尾崎紅葉が明治32年に訪れ、「煙霞療養」に書き記した香嶽楼だった。



















昭和4年には千曲川に沿った戸倉温泉にふらりと一人で出かけ、笹屋ホテルで入浴と食事を終えた後、あわただしく軽井沢に戻っている。




















昭和9年には幼友達と小諸に出かけ、小諸城や町巡りをし、カフェや鰻屋で舌鼓を打った。同じく昭和9年には妙高温泉でも1泊したようだ。

2018年6月10日日曜日

室生犀星記念館(1)旅する犀星

久しぶりに「千日町」にある「室生犀星記念館」に行ってきた。今回の特別展は「旅する犀星 北信越編」というで、私も旅が好きであり、まだ現役のころに1泊のドライブで「北信越地方」へよく行ったので、金沢の文豪の室生犀星がどんな所へ行ったのか興味があった。











































館内に飾られていた犀星の多くの作品の表紙と大正9年に発売された最初の小説「性に目覚めるころ」の書籍










































庭づくりの大好きな犀星は、あちこちに庭が残っている。
東京馬込の庭の大きな写真が館内に展示されていた。小説もさることながら庭づくりもすばらしい。



















記念館の庭に犀星の庭にあった「九重塔」や「四方仏のつくばい」が再現されたいた。

































晩年は旅行嫌いになったが、若い時は犀星にとって、今ある立場から脱却して、明るく新しい未来を切り開くために旅はどうしても必要だったという。そしてまた、新しい「詩」をもたらしてくれるものだった。家庭を持ち、小説家となった犀星は心身の疲れを温泉で癒し、創作に励んだという。
























犀星の初めての旅は、おそらく明治39年4月に職場の俳句仲間と行った、手取川上流の旅であろうという。土曜日の昼に仕事を終えてから出発し、鶴来に1泊して手取川渓谷の名所をたどる旅であった。この旅での犀星のはしゃぎぶりが、犀星の上司の紀行文「遊吉野」に描かれているという。


その1か月後に、俳句仲間と日帰りで医王山に登った。午前2時半に出発し。大池、鳶が峰を経て白禿山の山頂を上り、夜8時に帰りに着いている。この時も同じ上司が紀行文「医王山行」に描いている。
犀星にとっては、楽しい旅の思い出であるとともに、後の作品にも影響した、かけがえのない体験となったという。このころは、金沢の街からずっと歩いたのであろうか?
下の写真の雪をがぶっている奥の方の山が医王山である。私も学生時代に2度登っているが、見上山荘までバスで行っている。