2014年6月28日土曜日

東北地方南部ドライブ(1)会津若松

5月25日(日)~5月29日(金)の5泊6日で、東北地方南部にドライブに出かけた。朝6時半ごろ家を出て北陸自動車道で新潟まで行き、その後、磐越自動車道を通り、まず会津若松に着いたのは正午近くになった。東北地方というとかなり遠いというイメージがあったが、会津若松までは5時間半で着いたので東京よりは近いということだ。
お腹がすいたので、すぐに「七日市通り」の近くの「お蕎麦屋さん」に入った。








































店員がすぐに注文を聞きにきたが、待てども待てどもなかなか来ない。途中で気がついたが、「店主が体調不良により、そばは少し時間がかかります」と壁に小さな字で張り紙がしてあった。「しまった」と思ったがもう遅い。1時間近く待ったところでやっとお蕎麦がきた。腹ペコだったせいか、おいしかった。




















続いて会津若松のシンボルである鶴ヶ城に行った。
ここは、私が東京の会社に就職した年に、会社の同僚とドライブに来て以来となるから、もう45年も前になる。その時はなんと立派な城だったという印象があるが、今回見てもやはりすごい大きな城だ。




















前田利家や利長父子と何かと関係のあった蒲生氏郷(がもううじさと)が天守閣を完成させて以来、数々の歴史の舞台となったところだ。特に幕末の戊辰戦争の激戦地となったことはあまりにも有名だ。
また、ここは伊達、蒲生、上杉、保科、松平など数多くの大名が治めた歴史がある。




















天守閣の最上階に上がると、会津若松の市街が一望できた。




















天守閣から下を見下ろすと、人が小さく見えるのでその高さが分かる。




















白虎隊で有名な飯盛山がポールの向こう側にある山だと近くの人が教えてくれた。




















城の中には、歴史が分かる展示物が置いてあり、戊辰戦争の激しさが偲ばれる。京都守護職のころの松平容保(かたもり)の写真があったが、まだ若く、細面で優しそうな顔をしている。




















「武者走り」と呼ばれる、大手門の渡り櫓へ登ることができるという階段があった。これとよく似たものが金沢城の大手門(尾坂門)にもあり、子供の頃に上って、下の大手掘りを見ると足がすくんだことを覚えている。




















その後、飯盛山のほうに行った。一番近くの駐車場に車を止めると、上の「みやげ物屋」で物を買わないと有料だといわれた。
また山へ登るには、歩いて登るとひどそうだが、道の横に250円のコンベアスロープが走っていて簡単に登れる。足を鍛える意味でも歩いて登った。途中でくたびれた人は、途中にコンベアスロープの入口があり、半額であった。商魂たくましいものだ。
「白虎隊19士の墓」には年間200万人の観光客が訪れて、早すぎる死を悼む線香が絶えないという。20人のうち1人だけ生き残ったものによって、白虎隊の忠義と悲運の物語が人々に知れることになったという。




















「白虎隊士自刃の地」では、ここから煙に包まれる城下を見て「もはやこれまで」と自決したという。




















山を降りるときに登るときとは別の道を通ると「さざえ堂」と呼ばれる江戸後期に建てられたという六角三層の仏堂があった。内部はサザエのようにらせん状になっていて、上がる人と下りる人がすれ違わないようになっているという面白い建物だ。


























山を下りると、金沢と同じよう観光地を結ぶ「まちなか周遊バス」が走っていた。

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2014年6月23日月曜日

波自加彌神社 大祭

今回は、金沢市郊外の森本地区の二日町にある波自加彌(はじかみ)神社で大祭があるということで、どんなものがあるのか見に行ってきた。




















ここは、日本唯一の「香辛料」の神で生姜(しょうが)の古名「はじかみ」を名乗る神社である。1300年の歴史を誇る古寺で、もとはこのもっと山奥2Kmほどのところにあったが、源平北国合戦のときに焼失したので、その後、この地に移ってきたという。


























百段以上もある階段を上ると、境内には大勢の人が既に集まっており、拝殿の中には、生姜栽培加工業者、製菓商や料理店主など生姜にかかわる人たちが入っていた。また、テレビ局など報道関係の人が大きなカメラを持って待ち構えていた。








































本殿前には、大きな生姜が置かれ、左右には食品関係者のお供え物がたくさん並べられていた。








































この神社は、歯で噛んで辛いもの、すなわちショウガ、サンショウ、ワサビなどの祖神(おやがみ)さまである。
生姜は料理に利用されるが、解毒、健胃などの薬効があり、生姜酒は風邪、喉の炎症によいとされている。
神事が行われ、宮司さんが祝詞奏上し玉串をささげた後、本殿の前で釜に入った生姜湯を笹の葉で周りに撒いていた。








































また、三人の宮司が生姜湯を飲んだ後、器を下に投げつけて割るという神事もあった。




















その後、ここの宮司さんの挨拶があったが、この神社の歴史の他に、この祭りの代表スポンサーが「永谷園」なので大相撲の遠藤関などのユーモアのある話が聞け、親密感のある人だった。




















神事の後、拝殿に入り丁寧にお参りした。お参りすれば料理の腕も上がり、薬効もあるという。
境内で生姜湯を頂き、最後におみやげのお寿司と永谷園の生姜湯の素まで頂いた。





















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2014年6月18日水曜日

新竪町商店街(2)

前回の続きで、新竪町はもともと門前町として育ち、その中心が土蔵御坊として知られる「徳栄寺」で、その周りにだんだん商店が並ぶようになったという。
この寺はかって佐久間盛政の軍勢によって壊されている。その後、味噌蔵町にあった味噌蔵の用材を持ってきて仮本堂を建てたので土蔵御坊と呼ばれている。




















この商店街の真ん中あたりに、建物が町屋の「町のお魚屋さん」である「中央生鮮食品」には、色艶の良い、大きな鯛や八目が並んでいた。主人に聞くと「ちょうどここの石浦神社が、今お祭りなので置いてある」と言っていた(5月7日)。この主人と話が弾み、私が昔住んでいた家の隣の人と高校の同級生であり、よく知っているということだった。それで私より5歳上ということが分かったが、とてもその年齢には見えなく、明るく元気そのものだった。やはり体をよく動かす魚を扱う商売をやっているからかなあと思った。町中の魚屋は、いまどき大変珍しいと言っていた。








































また、この通りのわき道に新竪町小学校の建物が見えた。その傍らに「三宅雪嶺」の生家跡を記す碑があった。
三宅雪嶺は近代日本を代表するジャーナリスト、哲学者であり歴史家でもある。明治政府が欧米をモデルに国づくりをしようとしていたことに反対し、日本の伝統に根ざした国粋主義を唱えた人である。「真善美日本人」で「自国のために尽くすことは、世界のために尽くすことである」と説いた。
文部大臣、京都帝大総長を断り、執筆を続けたという。




















新竪町小学校は政治家の永井柳太郎や四高の三太郎の一人と呼ばれた国文学者の藤岡作太郎など優秀な人を輩出している。ここも中心街の他の小学校と同じで、最近は児童の数も減り、菊川小学校と統合されるという話を聞いたことがある。




















次に、コーヒを飲んで一服しようと思って近くにあった画廊として使え、ピアノとギターが置いてあるカフェに入ったが、「いつも店をやっているママが体調を崩しているので今日は休みです」といわれた。
それで、「パーラー・フコク」という店に入ってコーヒを飲んだ。ここの店はどちらかというと、ワイン、ウィスキー、ハイボールなどが店の周りに並べてあったので、アルコール類を飲む店なので客は夜のほうが多いのか?
若い男女(夫婦かどうか分からないが)の人がやっていて「どうしてここには骨とう品屋が多いのですか」と聞いたが、「分からない」ということであった。長いことこの辺にいる「お魚屋さん」に聞けばよかった。






















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2014年6月13日金曜日

新竪町商店街(1)

今回は、竪町の奥にある新竪町商店街を歩いた。
ここは1971(昭和46)年に中央通が開通し、片町側のヤングの町の「竪町商店街」と古い商店街が並ぶ「新竪町商店街」に分断された。




















この商店街の入口の大通りに面して建っているのは、明治42年創業の肉屋の「天狗中田本店」である。近江町市場の中にも2軒の店を出している金沢の中でも老舗の大きな肉屋である。
店の前に大きな木が2本あったが、この辺に「広見」があった名残の木であるという立て札があった。




















店の横には家の人が住んでいると思われる古い立派な家があった。




















新竪町商店街は、金沢でもこんなに多く骨董品、古美術品が点在しているところは他になく、「骨董通り」ともいわれている。また、小物、雑貨店やカフェなどもある。

「ゑびす屋」は閉まっていたが、その隣の「古器観」には骨董品が所狭しと置いてあり、店内を見て歩くのもぶっつからないように注意して歩かなけらばならないほどだった。好きな人はこういう所をゆっくり見て掘り出し物を探すのも楽しいだろう。





向かい側には「相沢昆布店」があり、昆布を専門に扱って販売している店だが、最近ではこういう店も珍しいのではと思う。そういえば、中学生のときクラスメートに、今は中央小学校(そのころは確か倉庫精錬の工場だったと思うが)の横にあった昆布屋の息子がいたのを覚えている。








































「VerMeer」は欧州のガラスのアンティークの店で、ビールやワインのグラスに使いたいようなものが並んでいた。








































また、「中島医院」は今はもうやっていないようであるが、かなり古そうな建物であった。昭和のはじめごろの建物か?




















少し歩くと、店の前にきれいな「万年筆」や「ボールペン」が並んでいる店があり、「万年筆」専門店と書いてあった。今どき「万年筆」とは珍しい。中学、高校生の頃、結構持っている人がいて、金ペンの14Kや18Kを持っている者もいた。










































次に、ここで90年という古道具、古美術の「可斗」では、ひときわ目立つ小さな引き出しの付いた箱があった。螺鈿で模様をつけた非常にレトロな小物入れで、こういうものを家で飾りたいなと思った。








































また、店に多くの人が入っていたのは高級革の靴やバンドなどを売っている「KOKON」で、オーダメイドで手作りで靴を作っているという。自分の足にぴったり合ったものをほしいということで、靴にこだわる人も多いと思うが、店主がお客さんと忙しそうに応対していた。艶光りした、いい色の高級そうな靴が並んでいた。








































さらに奥に歩いていくと「長久洞」という店もあった。店の前には高そうな壺などが並べられていた。




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