2018年2月26日月曜日

東北地方北部ドライブ(26)信夫山 二本松城①

東北地方北部ドライブ(25)の続きで、その後、盛岡から東北高速道路に乗り、福島市のホテルに泊まった。次の日(10月17日)福島市内で、どこか見る所がないか調べたところ、市内の真ん中にある山「信夫山」に行くことにした。私が子供のころに大相撲が好きでよく見ていたが、「信夫山」という「二本差し」が得意の力士がいたことを思い出した。ここは、金沢の「卯辰山」のような、福島市民の憩いの山なのであろう。
「信夫山」の展望台からは、福島市内が一望できる。



















別の展望台からは、市内を流れる「松川」や東北新幹線、JR東北本線、遠くには「吾妻連峰」が見える。町中にこれだけ高い山があるのも珍しい。



















ちょうど緑の「東北新幹線」と赤い「秋田こまち」の「秋田新幹線」の車両がすれ違うのを撮ることができた。



















山の中には、緑の木が映え景色もよく、手前には墓場もある。



















この信夫山には2,3のお寺もあり、お参りの訪れている人も見かけた。


































天台宗の薬王院というお寺があった。



















続いて、この辺の見所についてホテルが言っていた「二本松城」へ行った。
「二本松城」は、阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗が峰を中心として、三方が丘陵に囲まれた「馬蹄形城郭」で、自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な名城だったという。15世紀中ごろは畠山氏の居城で、一時は伊達氏の支配の後、会津領として、蒲生、上杉、加藤氏らの城代が続いた。1643(寛永20)年に丹羽光重が白河藩から二本松藩に入封され、以後220年にわたり丹羽氏の居城となり、慶応4年に戊辰戦争を迎える。戊辰戦争では旧幕府軍(東軍)の要衝として位置づけられ、隣藩会津への義に殉じて戦火に巻き込まれたという。その城の門に手前に戊辰戦争の二本松最大の激戦地・大壇口における二本松少年隊の奮戦姿と、わが子の出陣服を仕立てる母の姿を表わしたブロンズ像が建っている。




















初代藩主丹羽光重が入部まもなく、城内整備のために御殿とともの最初に建てた「箕輪門」は、主柱の巨木は領内箕輪村山寺山の御神木を用いたからという。




















城内ではちょうど「菊人形まつり」が開かれていた。



















二本松には、藩政期より菊の愛好者が多く昭和初期から菊人形が街に飾られていたという。
















































菊人形を作り上げているところ



















2018年2月22日木曜日

金沢古書店巡り(イベント)

今回は、金沢駅前のポルテ金沢の6Fの「金沢市アートホール」で、「金沢古書店巡り」ということで、五木寛之のお話や、金沢の古書店の店主たちとの対談が聞けるということで聞きに行った。
























会場には、ほとんどいっぱいになり200名以上の人がいたのではないかと思われる。さすが金沢に縁の深い「五木寛之」氏の話なので、聞きたいと思う人も多いようだ。
舞台には、大きなディスプレイと本棚に古書がいっぱい並べられていた。



















早速、「五木寛之」氏の話に入った。80歳をゆうに超える歳なのに相変わらず、流暢で話が上手い。この人の講演会は、以前にも金沢のある企業のフェアなどで聞いたことがある。この時も「人生は下り坂が面白い」とか、人生を4つに分けて、学生期、家住期、林住期、游行期があり、学生期は自分が学び、成長する時期、家住期は家族を大切にする時期で、クライマックスは林住期だという。人によって、55~65歳くらいから始まり、ようやく自分のやりたいことをやれる時期だという。なるほどと思った。
私は20代のころに、五木寛之氏の作品「青ざめた馬を見よ」をはじめ、金沢を舞台にした「朱鷺の墓」、「内灘夫人」などを読んだが、そのストリーが大変面白かったという印象がある。



















東京の神保町もさることながら、金沢の古書巡りも大好きだという。よく通った古書店に尾張町の「南陽堂」があるという。今は閉鎖してしまったが、私も家から近かったせいもあり、いらなくなった本をよく持って行ったが、何でもとってくれた。店は本で埋もれていたように記憶している。




















五木寛之氏は、金沢に居住していたときに「暁烏はや」の文庫を「南陽堂」で買ったのが、その後の古書店巡りのきっかけになったという。
年老いてからでも、昔、読んで貴重であった本は、とって置いて回想棚として、いつでも手にとって見れるようにすると無限の宝庫となるという。そこにちょっと本に書き込みされたものもは、さらによいという。(シニアにとっては、経験、思い出などが大きな財産であるから)
このイベントは、東京でなく金沢だからできたのだと五木寛之氏はいう。
続いて、第2部は金沢の古書店の店主たちと、現在の古書店の魅力と展望を語り合うというイベントがあった。ここで、撮影禁止のアナウンスがあったので、残念ながら、その後の舞台の写真はない。
長町にある「オヨヨ書店」は、大正時代の鉄工所の建物を利用したもので、芸術、文芸、文学などの本がずらりと並んでいる。本の語り部のイベントなどもあるという。



















横安江町の武蔵側の入口にある「近八書店」は、創業1789(寛政元年)というから相当古い。浄土真宗大谷派別院の門前町でもあるので、仏教の書物が結構あるという。上記の二つの店は、朝の開店前に行ったので、今回はどちらも入れなかったが、以前に入ったことがある。



















東山にある「あうん堂」は、カフェが併設されていて、本棚の気に入った本を選んで、コーヒーを飲みながら、ゆっくり読むのもいいだろう。ここは以前にこのブログでも紹介している。https://kanazawa-burari.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html





東京の神保町には、古書店がずらりと並んでいる通りがあるが、東京にいるときに何度か巡ったことがあるが、世界でも珍しい場所だという。好きな人にとっては、掘り出し物を見つける楽しみがあり、たまらないところだろう。
石川県の古書店は、一時少なくなったが最近は、また少しづつ増えているという。本もネットの世界にだんだんなっているが、古いものでもよいものは見直され、残っていくだろう。

2018年2月17日土曜日

東北地方北部ドライブ(25)盛岡城跡公園 盛岡銀行旧本店本館

東北地方北部ドライブ(24)の続きで、「小岩井農場」から盛岡市に向かい、「盛岡城跡公園」に行った。城跡公園の下の駐車場に車を止めた。
盛岡城は、南部信直が1598年に築城されたという。城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものだといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出た丘陵に本丸・二の丸・三の丸・腰曲輪(こしくるわ)などがあって、それぞれ雄大な石垣を構築して内曲輪としている。盛岡城も「日本100選」に選ばれている。















南部42代利祥(としなが)が日露戦争で24歳で戦死し、その功によって攻五級金勲章を受けたことを顕彰する像であったが、銅像本体は戦時下の金属供出として撤去され、現在は台座だけが残っていた。















城跡公園内には所々にあずまやが建てられ、それぞれの景観や自然、情緒にちなんだ愛称が付けられている。















岩手山は見えなかったが、盛岡城跡から見える山並み。















そして盛岡の街並み















 城跡公園の木々は色づき始めていた。















この古木は、岩を割って生えている「石割桜」なのか?後ろに大きな岩が見えるが、岩を修繕しているのか?本来は岩の中に古木が生えているはずだが。 















南部藩城主の4柱を祀ってある1749年建立の 「桜山神社」
















その神社の後ろに ある大きな石「烏帽子岩(かぶと岩)」は、盛岡城築城時に、ここを掘り下げて出てきたもので、「宝大石」とされ、以後、吉祥のシンボルとして信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願が行われ、「お守り岩」として崇拝されているという。城跡には、他に学生時代を盛岡で過ごした「宮沢賢治」の詩碑や石川啄木の歌碑などがある。
























城跡を出て、すぐの所にレトロな建物があった。これは「岩手銀行旧本店本館」で、この建物の設計者は、日本銀行、東京駅などを手掛け目地洋風建築の権威である「辰野金吾」と盛岡出身の「葛西萬司」の二人で「赤レンガ」の愛称で呼ばれているという。

















内部は、一、二階の吹き抜けや、木製の飾り柱のコンクリート様式柱頭、天井は石膏くり型、各客室の扉の彫刻など意匠に富み、クラシカルな雰囲気を作り出している。
建築当時の姿をそのまま伝え、今でも当時の目的で使用されている建物の重要文化財は、全国で最初のものだという。

























近くの中津川のほとりに「新渡戸稲造」の胸像があった。「新渡戸稲造」といえば「武士道」を翻訳したことで有名だし、何んといっても五千円札のお札の肖像画として載っていることでよく知っていたが、盛岡出身とは知らなかった。
「もりおか啄木賢治青春館」が近くにあったようだが、見過ごしてしまった。




















2018年2月12日月曜日

西外惣構堀 升形 復元完成前の見学会

今回は、金沢市役所歴史都市推進課と埋蔵文化財センターの主催で、本町1丁目で復元工事を進めていた西外惣構堀の防御施設の升形がそろそろ完成するということで説明会があった。



















この日は非常に寒く、時折吹雪が舞う天気の中で行われた。それでも2,30人の見学者が熱心に集まった。まず市役所の担当者から、西外惣構堀の升形の概要について説明があった。



















升形は、宮腰往還(現在の金石街道)と西外惣構堀と交差する場所で、交通・訓示の要所に位置し、外敵の侵入を防ぐ目的で作られたという。市役所の担当者はパネルを使い、この復元工事の進捗状況を説明してくれた。



















今回の調査により、1600年初めの築造当初の堀の跡が見つかったという。それによると堀幅は、西側(写真の下側)で約14m、約北側で11mだったというから相当広いものだった。もし敵が攻めてきた場合に、14mの堀に「宮腰往還」に架かる橋を渡る敵を、土塁の上から鉄砲や弓などで攻撃するためであろうか?



















江戸時代当初の戦国乱世から、太平時代へと移り変わる中で、軍事的な役割が薄れ堀もどんどん狭められたという。堀の側面は、当初は土だったが、狭められる都度に土が崩れないように石垣が築かれ、5,60年毎に積まれ4段あったという。



















この石は、犀川水系の石だけでなく、赤い戸室石も含まれていることから浅野川水系の石もあるという。江戸後半には石を割った割石が使われるなど4段階での積み方も少しづつ変わってきているという。



















土塁は、高さが5.3mもあり、復元では何んと「発泡スチロール」を使っているという。下の石垣を崩さないために軽量化しているというが、私たちのイメージとしては吹っ飛んで壊れないかないのかと思うが、最近の技術で強度上も全く問題ないのであろう。この土塁も平和な時代になり、藩政期の初期から徐々にに崩されてしまったという。



















土塁の大きさを表した図形で、何段もの「発泡スチロール」の棒状のものが積まれているが、元はもちろん土で積まれたものである。



















1674年の延宝金沢図では、土塁がまだ少し残っていたようだ。




















また、幕末の様子を描いたと言われる「巌如春」の絵図には、門の木戸が描かれているが、もうすでに土塁はなかったようだ。



















完成は今年の3月にできるという。説明書きを大きくしてもらい、観光スポットの一つとして多くの観光客の目に留まるようにに宣伝してもらいたいものである。
























以前、このブログでも紹介した、この升形を管理していたお寺の「西福寺」はすぐ近くにある。その背後には、以前来た時にはなかった大きなマンションが建っていた。