2016年12月29日木曜日

信州ドライブ(1) 北国街道 高田宿付近

今回は、加賀藩が参勤交代で使った「北国街道」について、現在何か残っている場所を巡りたいとうことと、内の者が久しぶりに軽井沢へ行きたいということで、2泊3日で信州地方にドライブに出かけた。(10月下旬)
北陸高速道路の「上越インター」を下り、一般道路に入り、まず向かったのが「加賀道」と「奥州道」の追分の碑がある場所である。
この辺りは、高田の街並みで、全国有数の豪雪地帯で商店街の人の通路が雪が降っても歩けるように庇が長く突き出た「雁木」(がんぎ)がある場所である。この雁木は江戸初期からあるという。
金沢は、最近あまり積もらなくなっているが、この辺りはどうなのだろうか?




















その追分の碑が建っているところを、この周辺で何人かの人に聞いたが、知らないと言われた。たまたまその日に「高田を巡るウォーキング」のイベントを開催していた「町屋交流館」で聞けばと言われ、やっと場所を知ることができた。この碑はもとは別の場所にあったが、交通の弊害になることから、この宇賀魂神社の境内の一角に移されたという。




















続いて、「高田城」に行った。ここは石垣を持たない土塁づくりの城である。福井城とともに前田家を抑える城として1614(慶長19)年に江戸城を手本として築城されたという。初代城主は松平忠輝で、縄張りと総監督を伊達政宗が担当したという。




















二の丸から本丸に架けられていた木造の反り橋の極楽橋が、発掘調査をもとに2002年に再建された。




















輪郭式平山城で外堀に囲まれた城壁は、220m四方の本丸囲む形で二の丸、三の丸、北の丸が配置されていて、関川、矢作川、別所川などの川跡を利用されている。北国道や旧北国街道の接点に近い交通の要所にある。




















築城当初は二階櫓であったが、1993(平成5)年に高田城のシンボルとして三階櫓の外観が再建された。








































高田城の藩主松平家と将軍徳川家の関係する家系を見ると、初代藩主松平松平忠輝は徳川家康の6男であり、その後、1624年に藩主となった松平光長は徳川秀忠とお江の孫で、加賀藩4代藩主前田光高と従姉妹になる。徳川御4家となると高田藩が入るという。




















外堀は、明治に入って食用の蓮根を採るために蓮が栽培され、東洋一の蓮と呼ばれた。









「北国街道を歩く」より










この近くに、日本のスキーの発祥といわれるレルヒ少佐を招いた髭の長岡外史はこの付近にある旧師団長官舎の庭に建つ。











「北国街道を歩く」より


2016年12月25日日曜日

モダン金沢と大衆文化

今回も、歴史博物館で「モダン金沢と大衆文化」というテーマでの展示がされていたので見に行った。(12月17日)
金沢は城下町として藩政期については、いろいろと調査資料があるが、明治、大正、昭和初期のことについては意外と少ない。


























金沢は、明治維新直後は武士がいなくなり衰退していたが、明治後期になって、ようやく近代的な都市の諸条件を備えていったという。明治30年に金沢電気会社が設立され、家庭にも電灯がともり、明治41年にはガス事業が始まり、大正期になって金沢周辺の交通が整備され、大正8年からは街鉄(市内電車)が敷かれてから城下町は一変したという。
下の写真は、昭和初期に使われていた上部に氷を入れて冷やす冷蔵庫で、この形は私も見たことがある。




















戦後の高度成長時代に普及した家庭電気製品の原型は、すでに大正時代から昭和初期に出来上がっていたらしい。この中で特にラジオは一般市民にとっての新時代の娯楽の目玉であった。
ちなみに金沢にラジオ放送局(JOJK)ができたのは昭和5年である。
このころのラジオは電源を必要としない「鉱石ラジオ」であり、レシーバでしか聞くことしかできない。
私が小学生の時に、どんなものだったかよく覚えていないが「鉱石ラジオ」を作り、電球の口金にワッカを挟んで聞いていたことがあるのを、かすかに覚えている。




















初期のラッパ型スピーカ付き真空管ラジオはスピーカを鳴らすことができたが高価で庶民が買えるものではなかったという。




















その後は組み立て方法の改良などにより、スピーカと本体が一体型になり、真空管も小型になった。




















金沢は街鉄の敷設により拡張された街路には、石造や鉄筋コンクリート造のモダンな建物が建ち始めた。これを背景に金沢のモダンを象徴した、モボ・モガ(モダンガール・モダンボーイ)らによって「RINBOU」と親しまれた香林坊から「カフェ文化」が流行ったという。下の写真は「香林坊・赤玉」のカフェのポスター(写真はボケていても申し訳ない)で、今の「おでん屋赤玉」とは全く違う。


























「モダン金沢」という金沢で初めてというタウン誌もできた。映画、カフェ、喫茶店などの記事が載っていた。




















また、「北陸の宝塚」とうたわれた「粟ヶ崎遊園」や金石の「淘々園」など、大型の娯楽施設もできた。




















この時代娯楽で何と言っても流行ったのが映画である。下の写真は家庭向けの「手動映写機」である。




















尾張町にあった「昭和劇場」やそのころの映画のポスター




















































映画館で配られた配信ニュースで、次回の映画などの内容が詳しく描かれている。




















戦争の真っ盛りの時には、士気を高揚させる内容に映画も変わっていったようだ。




















戦争中に河北潟周辺の「蚊爪」辺りに作られた飛行場の地図が掲載されていたが、慌てて造ったことが想像される。

2016年12月21日水曜日

金沢城下は大にぎわい(2) 宮竹屋 町人の日記

金沢城下は大にぎわい(1)の続きで、次に藩政期に金沢の家柄町人で、金沢のにぎわい創出を支えた商家の一例として「宮竹屋」の歴史と文化が紹介されていた。
「宮竹屋」は、もともと加賀国能美郡宮竹村の出身で、天正年間(1573~1592)に金沢に移り宮竹屋と称し、寛永年間(1624~1644)に片町に移り明暦3年(1657)薬種商を営んだという。




















延宝2年(1674)、3代伊右衛門の代に前田氏伝承する紫雪(しせつ)、烏犀円(うさいえん)、ぎ婆万病円の販売ならびに自家調薬を許されていた。








































中屋彦右衛門、福久屋伝六に次ぐ金沢の三大薬種商として営み、江戸時代後期には金沢の町役人トップとして金沢の町政に関わる存在で、金沢の人々が楽しみにしていた神事能の運営や犀川・浅野川の両橋のかけ替え、困窮人の救済などに尽力し、一方では俳諧や茶の湯などをたしなみ、金沢の文化水準を高めてきた家の一つである。


























金沢で繁盛していた商屋の所在地と名称を業種別に格付け表が並べられていた。業種は「薬種」、「酒造」、呉服太物」、「銘茶」、「和菓子」などが描かれ、薬種商では「片町 亀田」も最上段にある。




















福島秀川が幕末のころに描いた「金沢城下図屛風」右隻部分の片町の中心部に大きな店構えの「宮竹屋」の本家と分家が載っている。手前の分家の方は酒屋で、菊酒の看板が掛かっていたようだが、隣に大きな酒蔵が見える。本家の方は薬種商の店ということである。




















また、ここの4代伊右衛門(小春)の代に、10日間金沢に滞在した「松尾芭蕉」の宿を提供したことでも有名である。

その他、町人などによる日記の原本が並べられていた。この日記から江戸時代の娯楽などの様子が分かる。「梅田日記」は幕末の金沢町人で、浅野川河畔に住んでいた人で、この日記については興味があるので詳細については後日また紹介したい。




















「金子鶴村」は、加賀藩の今枝家の儒臣として招かれ、日記は31年間分が残っているという。好奇心旺盛な博物主義者(広い分野にわたって知識が豊富な人)で、町人、武士らと荘子などの講釈会など文人サロン会などを開いたという。




















「菱屋彦次日記」は、尾張町に住んでいた町人で、藩の出来事や自身、家族のことなどについてや社寺奉行など武士との関わりについても描かれ、社寺の開帳や山中温泉での湯治などにも触れている。




















金沢町人の一人が選んだ100人の挿絵を添えた狂歌集を、寺町の料亭の古今亭で開かれたもので、金沢八景(戸室山日の出、一本松夕嵐、宮腰出帆、犀川夏月、粟ヶ崎帰雁)や100名の町人、医者、僧侶などの肖像画が収められているという。江戸時代後期には、このような茶の湯や俳諧、謡などのサロンが町人の間で盛んに開かれたという。




2016年12月17日土曜日

金沢城下は大にぎわい(1) 浅野川四季風景図 金沢城下図屏風

今回は、石川県歴史博物館で特別展として「金沢城下は大にぎわい」の展示をやっているということで見に行った。(※ これは確か10月初旬に見に行ったものです)





















江戸時代、金沢はなんと江戸・大坂・京都に次ぐ人口を誇り、百万石の大藩として城下が栄えた。江戸時代の日記や絵画などから当時の人々にとって祭礼や開帳が行われていた社寺や芝居小屋、料理屋集などに集うことが大きな楽しみの一つだったことが知れるという。


























下図は浅野川のにぎわいを示す「浅野川四季風景図」で、江戸時代後期の藩主への献上品として描かれたもので、画風や色彩などから加賀藩お抱え絵師佐々木泉景の筆と考えられる。
この絵図の解説が「城下町金沢の人々」の本に載っていたので、これをもとに紹介する。
この絵図の右端の立派な土塀に囲まれた寺は「静明寺」で、現在の地と変わらない。よく見ると境内には梵鐘があり、大きな松の木が茂っている。もう少し絵図を右手に開いていくと、権現山や医王山も描かれているだろう。




















下図は「一文橋」で、いまの「天神橋」の所である。背後の山は「卯辰山」である。橋を渡る供を連れた武士はたぶん数百石取りの藩士で、挟み箱や籠を担いているのが小者であろう。
対岸には、町のはずれのため茅葺き、あるいは藁ぶきの家もあるという。




















下図は、北国街道の浅野川大橋付近とその上流側の様子である。川の手前側が橋場町で、鳥居のある所が天道寺(現浅ノ川稲荷神社)である。河原には多くの人でにぎわっているが七夕の祭りであろうか、赤い提灯のようなものをぶら下げた木を飾っている人がいる。筵の屋根の下は仮の食事処であろうか多くの人がいる。川向こう側が観音町、東山の町並みである。白い塀の前を歩いている赤い帯の女の人は嫁入りの途中であろうか。




















下図は、大橋から下流の橋(今の中の橋)付近である。大橋の両側には見番がある。川の手前は今の主計町付近の家並みが見え、河原にはやはり仮の食事処があり、人の出入りが多い。対岸には大きな屋敷が見える。橋の左側は「関助馬場」で多くの武士たちが馬に乗っている。




















次いでに本に載っていた「金沢城下図屏風」(犀川口町図)を紹介する。
下図は、犀川大橋から片町に至る北国街道筋を中心とした犀川右岸の絵図で、狩野派の絵師「福島秀川」の描いたものである。街道の両側には大きな店が建ち並んでいる。しかしその裏にはまだ屋敷などが見えない。




















下図は、犀川大橋上の人々の様子が描かれているが、城下に住む武士、僧侶だけでなく近郊の百姓や行商人なども描かれている。橋詰の大きな店だけだなく、橋上にいるような露天商などもたくさんいた。また、身分や職業によって着物も異なっていた。




















犀川大橋北詰の絵図で、両側の建物は検番所である。検番所の前に木戸があり、両側に石置き屋根の大きな店が建ち並んでいる。白黒の暖簾が掛かっている店は、材木商が本業で玩具、小間物雑貨なども売っていたという。店の角には親から買ってもらった天狗の面をもって、うれしそうにしている。朱塗りの天秤桶をかついて木戸へ向かっているのは油売りの行商であろう。




















犀川の大橋の下で鮎釣りをする武士の姿が描かれている。鮎釣りは武士の鍛錬ということで奨励されていた。




















下図は、宮腰(現金石)に運ばれきた木材を筏に組んで犀川に上ってきた様子である。図では見えないが、筏に乗った二人が竿を操り、中洲の4人が筏に綱をつけて岸へ引き上げようとしている。

2016年12月13日火曜日

京都ドライブ(10) 天龍寺

京都ドライブ(9)の続きで「京町屋」を見た後、「天竜寺」の庭園を見たいと思い、そちらへ行った。
近くの「渡月橋」付近は、平日でありながら相変わらず多くの人でごった返していた。
天龍寺は臨済宗天龍寺派の大本山で、吉野で崩御した後醍醐天皇菩提を弔うために、1339(延宝4)年に足利尊氏により創建された。開山は、夢窓黒師で、庭園も築造した。最盛期に寺の境内は、今の百倍あり、百五十もの甍を並べていたという。「庫裏」の横の受付から入った。
















今回は帰る時間を考えると、時間も少ししかないので「庭園」だけを見ることにし、建物の中には入らないことにした。大きな建物の「方丈」から池を眺めた。
















この池は、「曹源池」といわれ「曹源の一滴水」という禅語に因んで付けられた。左右から半島のように出島が突き出ており、池の景観に変化をつけている。
池の向こう側には、築山の斜面に「龍門瀑」という三段の滝とその上に鯉を象徴した「鯉魚席」がある。ここが見ものだというが、遠くにあるのでよく見えない。
















「龍門瀑」の下に三枚の石橋が組まれているが、これは日本庭園における現存最古の石橋である。この石橋付近に岩島があり、中心石が鶴の羽石を連想させ、鶴島ともよばれ、池の北部の中島を亀島ともよばれている。
















「書院」の前から見る「曹源池」と後方の「嵐山」
















この後、寺のパンフレットに載っていた「拝観コース」に沿って、庭を巡った。周りが苔と石にめぐらされた所に小さい紫色の花「小紫式部」が咲いていた。
















また少し歩くと、白や紫の大きな「酔芙容」という花が咲いていた。
















だいぶ高台に上がったのか「望京の丘」からは、わずかに京都の町並みが見えた。
















「北門」の近くは見事に竹林になっていた。
















途中に「豆柿」という黄色の小さな実がなっていた。










































「多宝殿」は後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂で、前に拝堂を持ち、うしろの祠堂とを相の間でつなぐ、入母屋造りの屋根で、中世の貴族邸宅を思わせるものだという。

































「方丈」の池の反対側はきれいに白砂が敷かれている。
















その片隅に以前の建物に使われたいたと思われるいかつい顔の「鬼瓦」が置かれていた。