2015年5月28日木曜日

東山3丁目、小橋付近(1) 関助馬場 あうん堂 加賀麩司「宮田」 

今回は、東山3丁目、小橋付近(中の橋と小橋付近の浅野川右側)を歩いた。
「中の橋」は浅野川の大橋と小橋の間にかかる歩行者専用の橋で、「梅の橋」とともに金沢らしい風情のある橋である。藩政期時代は架橋が許可されず仮橋だった。渡し賃が一文であったため「一文橋」や「賃取り橋」ともいわれた。




















この橋から馬場方向に歩くと、二つの長い道筋が走っている。ここは「関助馬場」と呼ばれた長さ300m、幅24mの藩士の調馬場があった。これを「東馬場」と呼び、法船寺馬場といわれた犀川の「西馬場」と対照させたものであるという。


























3代利常のころに歩組の「佐賀関助」が荒廃した馬場を再興したことからこの名前が付いた。その標柱がこの二つの長い道筋の中の小さな緑地の前に立っていた。


























そして、卯辰山開拓の時に山頂に建っていた芝居小屋が衰退したので、建物をこの「関助馬場」に移築し「戒座」と称し興行したのが「馬場芝居」と呼ばれ、浅野川方面にできた最初の芝居小屋であったという。その名残を示すための石垣を表示してあるという。(後述のあうん堂で聞いた)




















この通りの一角に古本の販売とカフェをやっている「あうん堂」という店に入った。この店頭はあまりに狭いので、よく見ないと見逃してしまうほどである。ここでは古本を見ながら珈琲を飲めるという。








































ここで、珈琲を頂きながら主人からこの辺の様子を聞いた。この人は最近「かなざわ案内地図帖」というものを出版した。これには、「金沢町歩き」の時にちょっと立ち寄りたい自分の好きな店などを記してあり、「ふらっとバス」、「まちバス」や「金沢周遊バス」のルートや停留所などの市が詳細に記されていて、「金沢町歩き」の人に非常に便利そうなので私も一つ買った。




















「あうん堂」のご主人に聞いたが、この近くの「藤本玩具店」の藤本吉二氏は、それまでの「おはじき」が碁石やガラス玉でできていて、子どもが飲み込んで喉を詰まらせることがあったので、これを防ぐため、ジャガイモ澱粉で作り真ん中に穴を開け「花はじき」を工夫した。
大正時代から昭和40年代まで、赤や青、ピンク、黄色など、いろいろな「花はじき」を玩具として製造していて全国で好評を得ていたという。また、藤本氏はこの発明以前に、苦い薬を飲む時使うオブラートを発明したという。この発明を大阪の会社に権利を譲渡したというが、譲渡していなければ、今頃は大きな製造工場ができていただろうという。




















ここのすぐ近くに加賀麩司「宮田」がある。「不室屋」と並ぶ加賀麩の老舗である。この店には国産小麦のグルテンを使った加賀特産の「すだれ麩」などの「生麩」や「車麩」などの「焼麩」や麩菓子などを売っている。
ここの女将さんはやり手で、以前NHKの番組「ためしてガッテン」に出演し、麩の料理方法や麩が体によいことを説明していたことを覚えている。




















店の隣には、風流な構えの「宮田庵」では、麩料理や麩菓子と抹茶などが味わえる。

2015年5月24日日曜日

大野湊神社 神事能

今回は、以前から一度は見たいと思っていた大野湊神社の神事能を見に行った。(5月15日)
大野湊神社についてはこのブログの2013/9/17で紹介している。
ここの神事能は、大野湊神社の春季例祭のときに境内の能舞台で挙行され、なんと400年以上も連綿と続いているという。2代藩主前田利長が、関が原の戦いで丹羽長重の軍に勝利し、その報賽として本殿の修復、拝殿の建立とともに能舞台を造営して、神事能が再興されたという。


























この時、1604(慶長9)年に小松辺にいた諸橋太夫という能役者に神事能を行わせている。当初は前田家の保護により続けられていたが、1661(寛文元)年ごろから能舞台の修復も大々的に行われ、宮腰の町は繁盛してきたので、神事能の費用を船持ちの人から奉加しようということになり、能興行は藩から氏子の手へと移っていくことになっていったという。
1677(延宝5)年に諸橋家が江戸へ移ったために、その代わりとして波吉家が行った。しかし、やがて諸橋家が加賀へ戻ってきたために、以後一年ごとに波吉家と諸橋家が交替で勤めるようになったという。
大野湊神社の神事能は、昭和60年に「寺中の神事能」として金沢市無形文化財に指定されている。
能舞台の前には、既にお客さんが椅子に座り、また報道関係者も大きなビデオカメラを抱えて待ち構えていた。




















拝殿で丁寧にお参りをしてきた。その拝殿の上には、「従三位前田斉泰奉書 大野湊神社」と書かれた立派な額が掲げられていた。13代斉泰は最も能が好きだった藩主のひとりである。














































従来は8月15日に行われていたが、1685(貞享2)年より4月15日(旧暦)に催すことになったという。そのわけは、祭礼当日は朝から近郷付近の人々が大勢押しかけるために、畦豆や農作物が踏まれて困ると近在の農家から苦情があり、またこの頃は雨が多い季節であったので変更になったという。
平成21年には、第400回を迎え、約100年ぶりに舞台が改修され、新しくなった総欅の舞台で、記念能として慶長9年の第1回の番組と同じ「翁、高砂、田村、熊野、三輪、猩々」が素謡と能で奉納されたという。
今年は406回となるが、まず「小袖曽我」という素謡から始まった。




















続いて、御婦人方による素謡「吉野静」があり、金石の幼稚園児による連吟「鞍馬天狗」があった。
地元の人にとっては、将来も永く続くように幼い子供の頃からこういうものに馴染ませようということであろう。








































そして、お目当ての能の「玉葛」(たまかずら)、「鵜飼」が奉納された。




















大筒、小筒、笛のの人たちが、「シテ」、「ワキ」の演技に華を添えていた。




















能楽は日本が世界に誇る芸術で、幽玄な世界観を表現する奥深いものだという。私は相変わらずなかなか興味を持てなかったが、前もって役柄や番組を読み、ストーリーを心得ることで、曲目や演技者の一挙一動が楽しめるようになってくるという。
江戸時代には藩主が没頭したという能を少しでも味わえるように、次回は番組を読み「あらすじ」を掴んだうえで能楽を鑑賞したいと思う。

2015年5月20日水曜日

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(4)

前回の石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(3)の続きで、この参勤交代の計画、宿のスケジュールや予約などは供家老が行った。旅の途中でトラブルがあって、次の宿を変更せざるを得ない場合もよくあったらしい。そういうときに便利な下図のようなダイヤグラムを使った。11泊12日と9泊10日両日の1日行程が配列され、どの宿場からでも自在に旅程を組むことができるようになっている。例えば、最初の日に「今石動」に泊まった場合、次の日は「下村」か「東岩瀬」か「滑川」に泊まることになるが、それぞれどれくらいの距離があるか一目でわかるようになっている。加賀藩の軍学者の有沢永貞が考案したものである。




















北国下街道の各宿場にあった本陣跡は今でもあちこちに残っている。糸魚川宿には、宿に泊まったお礼として藩主から頂いた大樋焼の茶碗が残っているし、藩主が飲んだというお酒も、江戸時代から作り方が変わらないのでそのままの味が残っているという。また、上越市の浄土真宗派の安楽寺には、参勤交代の様子を伝える書状が最近確認されたという。
下図の写真は、前田の藩主が飲んだというお酒を売っている糸魚川の「加賀の井酒造」である。一度立ち寄って味見したいものだ。








































大名行列の費用は、宿泊費の他に川銭(川越賃)、行列に携行する諸道具の買上代、修復代、出張扶持代(日当など)、江戸までの荷物運搬の駄賃など、当時の金額にして銀320貫を払っている。これを現在の価値に換算すると、いくつかの物差しで換算する方法があるが、精米を物差しに当てた場合で計算する。
江戸時代は一両相場に米一石と言われたもので、白米一石がおよそ一両(=銀60匁)であった。現在は、白米一石=71500円とすると、白米一石=一両=60匁=71500円。また銀1貫は1000匁なので、銀320貫は32万匁となる。この銀高で昔は白米が5333石買えた。今、5333石のお米を買おうとすると、71500円×5333石=3億8130万円になるという。






http://goo.gl/m81p1Kより







3代前田利常が小松に隠居後の一族の参勤交代の様子を見ると,利常は隠居後も参勤交代をしていた。4代光高が亡くなった後、5代綱紀が相続したが幼少なので、利常が江戸に残り、江戸城天守台石垣普請を担当した。
光高が藩主であった6年のあいだに参勤交代は2度と少なく、国許に居る期間は短かく、その時は利常が江戸にいた。光高は、3代将軍家光の甥で、江戸城儀式では「御家門」御三家に次ぐ位置にあった。
利常の次男で富山藩の利次は9月に参勤し、3男の大聖寺藩の利治と入れ替わりとなっている。従って、父の利常とともに二人とも半年は江戸に居たことになる。富山藩や大聖寺藩などの小さい藩も当然ながら参勤交代があった。
5代綱紀は3歳で家督相続したが、18歳まで江戸に居た。その後参勤交代は30回と、歴代藩主の中で一番多い。次に多いのは13代斉泰18回、11代治脩14回である。




















江戸での大名の主な任務は端午などの節句の将軍家の祝いや病気、お礼、将軍家の祭礼・法事(紅葉山、増上寺など)、将軍供奉(日光参りや品川の鷹狩りなど)、暇と参勤時の御目見、能見物や茶会などの仕事があった。下図は加賀藩江戸屋敷があった「江戸本郷」付近の絵図と「加賀藩本郷邸」の絵図である。








































参勤交代については「参勤交代道中記」 忠田敏男著を参考にした。

他に、石川県立歴史博物館の展示物で私が興味を持ったのは、1933(昭和8)年の吉田初三郎作という「石川県鳥瞰図」で、何人かで石川県の温泉や観光地をスケッチしたものを元にして描いたという。石川県全体が描かれているが、特に金沢付近は金石の海から白山までが描かれていた。その頃にあった金石の「檮々園」や「粟ヶ崎遊園」、そして「第四高等学校」、「第一中学校」や兼六園内には「県立図書館」、「商品陳列所」なども描かれていた。私が生まれる十数年前はどんなだったのかと思い、長く見ていても飽きなかった。





















2015年5月16日土曜日

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(3)

大名行列の出発は金沢城の「大手門」で、枯木橋から大樋松門を通る。ここまでは、このジオラマのような整然とした行列であるが、それ以後は行列は乱れ、服装も簡易なものに着替えて歩きやすいようにしていたという。城下の人々には威厳を見せるためだったという。次の写真は「石川門」からの出発になっているが、実際は「大手門からである。




















第1の宿の「津幡宿」には「御旅屋」(おたや)と呼ばれる本陣があり、畳370畳、周囲は1632間あり、大名などが泊まったり、休憩したりしたという。脇本陣には随行家臣などが泊まったという。高岡の宿場は加賀藩領最大の本陣跡が残っているという。
宿場の本陣には、行列を迎えるための陣幕が張られ、提灯がぶら下がっていた。宿場の入口には、宿割の案内図が貼られ、それぞれの家の軒先に「○○御上下○○人御宿」と記した宿札が掛けられていた。





















金沢市立図書館蔵




北国下街道は、加賀、越中、越後、信濃の国を通って中仙道までの間に、川幅5m以上の川を73渡らなければならなかったが、このうち橋が架かっていたのは43で、残りは架かっていなかったので、歩渡りもしくは渡船、あるいは仮船橋を架けて越さなければならなかった。前田藩内の橋は多く架けられていたが、隣の藩に近い川には防衛上もあってか、あまり架けられていなかった。
越中の黒部川は大河で水量が多く、網の目状に分流していたという。勢いが激しく、その川渡りは命がけであったという。
特に春の雪融け時には、48瀬も分流していたのが、ただ一瀬になって川幅一面に海のように流れていたという。












金沢市立図書館蔵







5代前田綱紀が18歳で初めて国入りした時に、黒部川を渡るのに非常に困難を感じ、金沢城に着いて老臣に架橋を作るよう命じ、山麓を迂回させて、黒部峡谷が扇状に拡がろうとする扇頂部に橋を架けさせた。
その橋が「越中富山の天下の奇矯」と謡われた「愛本橋」で、甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋とともに日本の三奇矯のひとつに数えられている。「愛本橋」は刎木形式の橋で、長さが60mもあり、当時としては世界的にも例のない大規模な木橋で歴史的にも貴重であったが、明治の頃に架け替えられたという。今も刎橋が残っていたら、かなりの観光スポットとなっていただろう。














http://atsites.jp/yoshitoharada/1576_bridge2-6.jpgより
北国下街道の最大の難所は、海のすぐ近くが断崖絶壁になっている「親不知」である。上街道を通った9回の理由は、「親不知」付近の崖崩れと日本海の高波による道路の決壊や信濃路に起きた地震とその後に続いた群発地震などの災害の危険を避けるためだったという。
この「親不知」のわずかな砂浜と砂利道を通る際に、海の前に人足が何百人と並んで海の波を除けて大名行列が通ったというからすごい。




















金沢と江戸のちょうど中間点に旧牟礼宿(現在の長野県飯綱町)に、最近、12代斉広の正室の真龍院の歌碑が建立されたという新聞記事が載っていた。
真龍院は1838(天保9)年に、江戸屋敷から加賀屋敷へのお国下がりが許され、18泊19日の道中の旅日記「越の山ふみ」に残し、各宿場の様子と心情を和歌でつづったという。牟礼宿では「住みすてし あとの名残を 思ひ出の そこに露そふ 旅の中道」と詠んでいる。これは「道中の半分まで来たことを喜び、半面江戸から遠くなることを心細く思っている」と推測されるという。
牟礼宿では加賀藩参勤交代が通過すると、金沢城と江戸屋敷双方に向けて早飛脚を出し、道中の無事を知らせたという。
北陸新幹線開業の話題からこの話が持ち上がり、歌碑が建立されたという。
写真













http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawaより
飯綱町といえば15~20年位前に、私のテニス仲間の会社の保養所があり、ここを利用して夏はテニス合宿、冬にはスキーで何回か来たところである。

2015年5月12日火曜日

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(2)

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(1)の続きで、館内には八曲一双(はっきょくいっそう)の「加賀藩大名行列図屏風」を参考にして作られた参勤交代(大名行列)のジオラマが飾ってあった。




















そのジオラマの下には金沢から江戸までの63宿が記されていて、その近くを走っている北陸新幹線の駅名も記されていた。この63宿には江戸から、あるいは金沢から運び込まれた文化が花開いたという。つまり、百万石大名行列の道は、太平洋側と日本海側を結ぶ「日本のシルクロード」と呼ばれてもおかしくないという。




















加賀藩大名行列の編成は、露払い役の「お先三品」と称される長柄・鉄砲・弓で一部隊が編成されていた。この「お先三品」は当番と非番の二組に分かれており、一日ごとの交代制になっていた。
「お先三品」は藩主などの本隊の行列の2~4km先を進んでいる。
「加賀藩大名行列図屏風」に描かれている本隊の先頭にその地域の村役人が道案内として進み、足軽、提灯いて、御供の藩士を中心に藩主を護る長柄・鉄砲・弓などを持った親衛隊と後方にいる供家老が大将になって攻撃を主力にする部隊と二軍に分けられる。





















長柄・鉄砲・弓らの部隊はいくつかの隊に分かれており、各々の隊を率いる組頭がおり、行列の要所要所には「騎馬所」と称する馬上でお供する藩士がいた。そして、その藩士の前後に家中の供廻りが付いていた。








































参勤交代の道中は、その家の身分や禄高、格式に応じた行装と調度品を備えており、また、江戸防備の軍役を担うための武器一式を携行していたという。そして、道中の二週間と江戸に着いてからの、江戸詰めに必要な雨具。替衣類、日用品に非常食や携帯トイレ、それに、入浴のための手桶、腰掛なども持ち運んでいた。他に、夜道を歩くときの松明、提灯、休憩した時に本陣の前に貼る陣幕や休憩用具から娯楽品(碁、将棋、放鷹の鷹)なども持っていたという。




















鉄砲、弓、槍を持つ仲間、足軽は剣梅鉢の紋を染めた紺色の布袴で統一し、刀は刀を必ず腰に差していた。加賀藩は服装の乱れに対して特に厳しく、城下に差し掛かった時は必ず点検していたという.





















また、加賀藩の大名行列の絵図を見ると、全員が合印の笠をつけている。笠と脚絆は「行列内」では、晴雨に関係なく必ず着用するという決まりがあった。




















「籠」が展示されていたが、非常に小さく見え、当時の人は小柄だったというが、これに乗って12泊13日の道中では、幾日も狭い所に座っていなければならないから非常につらいと思われた。
藩主は特に長い道中は歩くこともあったというが、それはそうだと思う。





















加賀藩の行列の帰国の絵図が展示されていたが、前方の人、後方の人、どれも遠くの人が非常に小さくなっており、いかに行列が長く、通り過ぎるまでに時間がかかったかが想像される。

2015年5月9日土曜日

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(1)

今回は、4月17日にリニュアルオープンしたばかりの、出羽町にある「石川県立歴史博物館」に行ってきた。




















この建物は、明治末期から大正初期に全国に建てられた陸軍省の兵器庫のひとつで、3棟の建物はいずれもレンガ造り、2階建てで、90mの長さがある長大な建物で、全国各地に残る兵器庫は細部は若干違いがあるが、基本的に同じなので陸軍省の設計部門があって、それに従って建設されたとものと思われるという。現在残っているのは全国で4箇所だけで、完全な形で残っているのは、金沢と善通寺(香川県)だけだという。
戦後は美術工芸大学として使われていたが、現在は石川県立歴史博物館として開館されている。今回のリニュアルで、3棟のうちの2棟は石川県立歴史博物館で、もう1棟は、以前はこの建物の横にあった「藩老本多蔵品館」が名前を変えて「加賀本多博物館」として入っている。




















建物と建物の間に、用水に使われた石管を再生して辰巳用水の流れを表現していた。




















館内は、以前より明るい雰囲気になり、常設展室と特別展示室がある。その他、歴史体験コーナーや歴博ミュージアムシアター、所蔵資料、図書などもあり、くつろぎながらコーヒなどが飲める「ほっとサロン」などもあった。








































今回は、北陸新幹線開業イベントとして「江戸と金沢 北国下街道を歩いた人びと」というテーマで「加賀藩前田家の参勤交代」について展示されていた。




















北陸新幹線のルートと、この参勤交代のときの北国下街道から中仙道を通るルートは大変よく似ている。




































このルートは、私が少年時代も、会社に入って東京で勤務していた時も「金沢ー東京間」を最初は急行「白山」、続いて特急「白山」になってからも何度かこのコースを通ったので非常に馴染みがある。最初に乗ったのは昭和30年代前半で、そのころは10時間くらいかかったという記憶がある。昔の「田口駅」今の「妙高高原駅」付近と「アブト式」だった「碓氷峠」付近は、非常にのろのろと走っていた。
しかし、今や2時間28分で着いてしまう。
でも江戸時代の「参勤交代」はすべて歩きなので、通常は12泊13日かかったというから、比べものにならないくらい早くなり便利のなったものである。




















「参勤交代」とは、江戸時代に諸大名が原則として1年おきに江戸に詰めるために、江戸と国許を交互に行き来した制度をいう。国許から江戸に出府するのが「参勤」、江戸から国許へ帰るのが「交替」という。
「参勤交代」は、譜代(ふだい)、外様(とざま)など大名の格によって参勤のシーズンが異なっていた。徳川家光は1635年(寛永12)年に出した武家諸法度(ぶけしょはっと)によると、外様大名は4月、譜代大名は6月、8月の交代が制度化されたという。前田藩は3つのルートをその時々で変えて利用している。他のルートは「北国上街道」から中山道を通るものと、「北国上街道」から東海道を通るルートがあったが、参勤交代合わせて190回のうち181回は「「北国下街道」から中仙道を通るルートだったという。




















これは、3代将軍家光が各藩の大名に自らの力を示すとともに、必要以上の蓄財をさせず、有力藩の対抗勢力化をそぐことを狙った制度であるという。
100万石の大名である加賀藩前田家は、中でも最も盛大な参勤交代を行った。その行列は、1回につき最小でも2000人、最多(5代綱紀のころ)では4000人くらいの隊列であったという。加賀藩の場合、1回につき食費、宿泊費だけでも約2億円以上使ったといわれている。