2015年7月30日木曜日

東内惣構堀(2) 九人橋 味噌蔵町小学校 小将町中学校

東内惣構堀(1)に続き、味噌蔵町交差点方向に歩いていくと、広い通りに出る。ここの脇に「旧味噌蔵町」の標柱がある。名前の由来は、藩政期に軍用(?)の味噌蔵が建てられていたからという。


























大通りを渡ると「段坂印判店」の横に東内惣構堀の跡が見えるが、この辺りに「九人橋」があった。
ここにも門番がいて、「九人橋」は「十人並んで渡ると九人の影しか映らない」という伝えから、その名が付いたという。現在は、兼六園から西田家庭園に流れ、東内惣構堀を通って、浅野川に流れる「九人橋川」として利用されている。




















この先は、開渠となって住居と高い塀の間をぬう細い流れとなっている。塀の向こう側は高台となっているので、土居であった名残がある。


























私の学生の頃に、この塀の上に「北陸鉄道」のバスの車庫があったと思うが、よく定期券を買いに来た記憶がある。




















そして、「味噌蔵町小学校」の前で直角に曲がっている。


























ここにある「味噌蔵町小学校」は100年以上の歴史があるが、来年に「材木町小学校」と統合されるという。町の中の小学校は、だんだん少なくなるが、これも少子化のせいである。建物の耐震化により、「小将町中学校」の横に新しく建てるということを聞いたことがある。私たちの頃は、「味噌蔵町」と「材木町」の児童は「兼六中学校」へ、「此花」、「瓢箪」、「馬場」の児童は「小将町中学校」へ行っていたという記憶があるが、今はどういう区分けになっているのであろうか?




















階段を上がり、「兼六大通り」を渡ると、「東内惣構堀」の標柱が立っており、その向こう側に流れがあった。そして大きな建物の「小将町中学校」とグランドがあった。
この学校も大変伝統があり、明治14年に金沢区高等小学校として今の旧四高跡にあったが、その後、長町高等小学校に変わり、そして現在地に移り、戦後に「小将町中学校」となったという。ここには、一時、文豪の徳田秋声や室生犀星も学んだという。





















グラウンドでは、真っ赤なユニフォームを着た野球部の選手が20~30名ほどが一生懸命練習していた。そういえば、今は午前中なのに部活をやっていたので不思議に思い、ネット裏から選手に聞いて見たら「午後に試合があるから特別練習です」と言っていた。サッカーだけでなく今も結構野球少年がいるのだなあと思った。私たちの中学生時代は大変野球部に人気があった。




















このすぐ裏に、お地蔵さんが祀られていた。「地蔵橋子安地蔵尊」といい、この地蔵尊は子供の病気、その他いかなることも祈誓願すれば必ず成就するので、本尊に拝花を供えて信仰したという。
この地蔵は加賀八家の「奥村内膳」が橋下に埋もれていたのを地上に安置したという。
町中にこういう「地蔵さん」があると心が和んでしまい、ついついお参りしてしまう。




















中学校の裏に「小将町」の標柱が立っていて、藩政期、藩主の身辺を護衛する小姓頭や小姓組の侍がここに置かれていたからという。この辺りが東内惣構堀の始まりの場所であったらしい。



2015年7月22日水曜日

東内惣構堀(1) 枯木橋 稲荷橋 黒梅屋橋

前回の西内惣構堀を歩いた後、今度は、すぐ近くにある浅野川に注いでいる東内惣構堀を逆方向に源のほうに向かって歩いた。








































北国街道が城下に入る要所であった「枯木橋」には、門「木戸」を設けて通行人を管理していた。この橋の両側は、始め自然の崖を利用した斜面だったが、18世紀以降、堀外側次いで土居側に石垣を築いている。堀の外側では、古い石垣を埋めて前面に新しい石垣を築き、さらに堀幅を狭めた。堀の両側に石垣が築かれたのがこの辺の特徴であるという。




















「枯木橋」付近にある「金沢文芸館」の横に「まむし黒焼 東田薬店」という看板を掲げた古めかしい店があった。ここのショーウィンドーには、とぐろを巻いた蛇とスッポンがが並べられていたが、何となく気持ちが悪かった。いつごろからここで商売をやっているのだろう?




















この店の隣にも東内惣構堀の整備された所があった。右端の石が並べられた所が一番古く、真ん中の石が置かれた位置が次の代の石垣の位置で、現在はもっと狭められている。




















これを説明した立て看板にあった図




















少し行った所で右側に曲がり、さらに左側に曲がっている。ここの尾張町方向に坂があったが、土居の名残だろう。





















ここの通りを歩くと、十間町方向に行く道路に出る。ここに「稲荷橋」という橋が架かっていた。





















さらに進むと有名な加賀藩士「寺島蔵人」邸がある。この建物の中については以前のブログで紹介している。





















さらに歩くと「千仙そう宗室居士邸」という古めかしい家があった。この人は3代藩主利常、4代光高に江戸本郷で茶道の指南役をして加賀藩と関わるようになり、利常が小松に行った時に茶道奉行を務め、利常没後、金沢に移り200坪の邸地を受け賜わったという。この地はその一部であるという。
表札に「裏千家 奈良」とあったが、大樋長左衛門さんの次男の方が所有されているのだろうか?




















そのすぐ先に、大手町へ通づる大きな通りに出たが、ここに「黒梅屋橋」、別名「胡桃橋」が架かっていた所である。ここはほとんど傾斜が無かった。

2015年7月16日木曜日

西内惣構堀(3) 袋町橋 新橋 主計町緑水苑

西内惣構堀(2)の続きで、その後、惣構堀は今の「市姫神社」付近をクランクして袋町から博労町に上がる坂の前に「袋町橋」があった。このクランクしている場所は現在の道路に沿っていないのでよく分からなかった。

























カナカン本店前を右側に廻り、そして「旧桶町」の通りを左側に折れている。ここの通りは暗渠になっているが、現在は「母衣川」の水が流れ、用水蓋がずっと並んでいる。この通りと直角に繋がる小路が何本かあるが、不破彦三一族の邸地があって、代々その一族が一番丁から七番丁まで住んでいて「彦三殿町」とも呼ばれた。




















そしてちょっと広くなってクランクしている所に「西内惣構堀」の石標があった。


























「旧藩士の家の野坂邸」の前に「新橋」あるいは「勘解由橋」と呼ばれる橋があった。「野坂邸」は現在でも長屋門と土塀を残し、当時の武家屋敷の面影を残している。







































「彦三一丁目」のとおりにある「新橋」を超えると右に曲がり、住宅地に入り見えなくなるが、「仏眼寺」の横を過ぎると、また開渠になり、「高田医院」、「カタニ産業」の裏を通る。



























そして「恵寿金沢病院」(以前のNTT金沢病院)の横を通る。そういえば、60年近く前の小学生の時、クラスの仲間を見舞にここを訪れているが、その当時のままの建物であった。




















その後、「主計町緑水苑」を通って浅野川に注いでいる。ここには、発掘調査に基づいて土居や堀が復元されている。この大きさのものがずっと町の中を貫いていたと思うと、すごいものがあったのだと想像する。立て看板によると、堀が掘られてから幕末までの間は、堀幅はほとんど変わらなかったらしい。明治になってから大幅に埋められたという。(堀の深さは、江戸時代の遺構を保護するために、実際より浅くしている)








































「主計町緑水苑」近くの主計町茶屋街

2015年7月11日土曜日

西内惣構堀(2)西町橋、近江町橋

西内惣構堀(1)の続きで、その先を歩いていくと、今の旧北國銀行本店がある所に「西町橋」があった。




















「西町橋」は算用場の通勤路であったと思われ、権現堂への参拝路でもあった。


























その先の左手には「町会所」があって、町奉行が任命され、「家柄町人」と呼ばれた「町年寄り」、「散算用聞」、「横目肝煎」、「記録方」「町肝煎」などの役人がいた。特に銀座役は両替を担当し、町方にとっては憧れの役職だったとか。






















また、その向かいの小路に入ったところの通りを「西町藪の内」といったのは惣構堀の土居にあった雑林の名残である。




















その先を歩くと今の「近江町市場十間町口」の所に「十間町橋」があった。ここはほんのわずかな傾斜があるだけだ。














































そして「近江町市場」の中を通っているが、途中の用水蓋に「辰巳用水」と描かれているが、現在は辰巳用水が流れている。




















先日の「ぶらタモリ 金沢編」で紹介されていたが、「ダイヤモンド」の店の中にわずかな階段があり、これが惣構堀の名残の段差だといっていた。




















そして「北形青果」の店の前に「近江町橋」あるいは「接待橋」、「世界橋」と呼ばれた橋があった。




















この日は土曜日の昼どきだったので「近江町市場の市姫口」にある「山さん寿司」の前にはすごい行列が並んでいた。やはりネット時代で、「近江町市場の寿司処」の人気店として口コミ数の多い店には若い人がいっぱいだ。





















おい

2015年7月6日月曜日

西内惣構堀(1)金谷出丸 不明門橋

今回は、金沢城の周りの内、外の惣構堀のうちの西内惣構堀沿いを歩いた。
惣構堀は、城防備のために作られたもので、1599(慶長4)年に藩祖前田利家が亡くなり、2代藩主利長が金沢に戻され、徳川家康から謀反の疑惑をかけられ、前田家つぶそうとしているのを防備するするために、高山右近に命じて東西に内惣構堀(内堀)を作らせたものである。
西内惣構堀は金谷御門(現尾山神社横)から始まり、旧松原町を通り、近江町市場から袋町、彦三、旧母衣町の後を通り、主計町で浅野川に達する、全長1.6kmの堀である。
東西の内惣構堀は、緊急事態の中でなんとわずか27日間で完成させたという。




















下図は1632(寛永4)年の「加州石川郡」絵図(石浦神社蔵)の絵図で、西内惣構堀は金谷出丸跡辺りから始まったことが分かる。




















この辺りはもと「金屋町」といったが、その昔に小立野台地で砂金を発見したのは「金屋」と呼ばれる鉄や金を求めて歩く流浪の人たちが金沢の町を作った最初の人で、ここの最初の住人だという。
寛永の頃に金沢城の火災で、ここに藩主家の敷地として屋敷を作り、出丸として取り込んだといわれる。また、5代綱紀の頃に「金谷文庫」を設置し書院、馬場などもできたという。そして綱紀の娘が居住するようになり、さらに綱紀、6代吉徳の子供がここ金谷で誕生しているという。
その後も、隠居した藩主や側室および世子などが住む場所としての「金谷御殿」があった所である。その「旧金谷御殿跡」の横に大きな石垣があるが、この辺りが西内惣構堀の出発点であったようだ。後に、「いもり掘」から水を引き、ここに「金谷外柵御前土橋」があったらしい。




















この石垣の傍らに「尾山神社氷室跡地」の石標が立っていたが、いつの時代かここにも氷室があったのであろう。そういえば、兼六園の山崎山の裏の「東外惣構堀」の出発点にも氷室跡が残っている。




















また、その近くに金沢城に導かれていた「辰巳用水」の一部をこの「金谷御殿」にも通していたというが、そこに使われたいたという石管とその説明書の看板があった。
現在の西内惣構堀を利用した水は、広坂方面から流れる「辰巳用水」を流している。




















尾山神社の鳥居の両脇の路地には、戦後から昭和40年代ごろまで飲み屋街になって栄えていたが、今はほとんど影を潜め、鳥居の右側の方は傾斜が緩いがが惣構堀の土塁を再現しているのであろうか。








































尾山神社の鳥居の前に西内惣構堀の一部が再現されていた。




















通りの反対側に「旧松原町」の石標が立っていたが、もと松原口の前にあったことからその名が付いたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のちに御門前松原町といったという。
尾山御坊時代に金屋衆が住んでいた「寺内町」の外に松原があったところである。



























そして、今の「大友楼」がある所に「不明門橋」あるいは「あかずの門」が架かっていた。竹田市三郎忠種の邸が神護寺の隣にあったとき、利常の6女の春姫を養育していたので、そのころ昼夜扉を閉めていて往来を禁じていたのでこの名が付いたという。