2017年4月28日金曜日

弥生界隈(1) 林幽寺 北溟寮 

泉野界隈(2)の続きで、その後、旧鶴来街道沿いにある「林幽寺」に行った。
ここの住職にいろいろと話を聞いた。ここは、1610(慶長15)年僧子善が石川郡窪村で創建した真宗大谷派の寺院で、1732(享保17)年に現在地に移転した。寺町寺院群の一番端にあり、最後に移転した寺院だという。鎌倉時代の作である聖徳太子2歳の木造仏を安置されている。この木造仏は毎年1月と2月の御開帳の時に見ることができるという。




















立派な古い門と本堂が建っていた。以前はこじんまりとした寺であったが、現在の建物は大正時代に再建されたという。そして瓦屋根は平成11年に改修した立派な屋根である。本堂の両側の柱の上の方には、寺院でよくみられる中国の想像上の動物である獏の木鼻と思われる彫刻がなされていた。境内の左側にお墓が建ち並んでいる。




















側面からは入母屋造りの瓦屋根で、立派な鬼瓦や懸魚(ここは蕪懸魚)などが見られた。この懸魚は、建物の火災から守るためのおまじないで、寺院によく見られる。




















また、この旧鶴来街道に面して、「金沢町屋」の銘板が張られていて、この地域ではひときわ目立つレトロな建物があった。二つの切妻屋根に、格子戸に格子窓、そして2層になった庇の間に白漆喰壁がされ、うろこ状の文様が入った瓦が張られていた。



















ここに住まわれている叔母さんから話を聞くことができた。その叔母さんの親から聞いた話によると、100年位前に建てられたものではという。その親は、十間町で米の問屋商を営んでいたらしく、この建物は、さらにその親のための隠居所として使っていたという。
玄関の中の隣の部屋を見せてもらったが、囲炉裏の跡があって、2本の「自在鈎」が吊るされていて、天井が高く天窓も付いていた。部屋の中にあったピアノもたいへん古そうだったが、まだピアノが少ない時代の貴重な骨董品ではと思った。
















この家の隣には、さらに古そうな門があった。門は扉が木で造られ、上部には花鳥の繊細な彫刻がなされていた。またその門の前には柵が置かれ、人が近づけられないようになっていた。叔母さんの話によると、(粟ヶ崎の木谷家?)から購入あるいは譲り受けたものだという。その後、東山の来教寺に移そうとしたが入らなく、やもなくここに置かれているという。また、花鳥の彫刻は「大野弁吉」の作であると父親から聞いていたので、金沢工大の先生が何度も足を運んで調べに来たが、名前は見つからなかったという。



















続いて、「南大通り」方向に歩くと、大きな敷地に金沢大学の「北溟寮」、「金大職員宿舎」の建物がある。「北溟寮」の建物は、ついこの間50年近くの歴史の幕を閉じ閉鎖された。「バンカラ」、「寮歌」や「寮での生活」など、ここで大学生活を送った人にとっては忘れられない「青春の象徴」だった場所であろう。



















「北溟寮」の隣には「金大職員宿舎」があったが、ここも役目を終えて今はひっそりしている。

2017年4月24日月曜日

泉野界隈(2)泉野櫻木神社、雀谷川

泉野界隈(1)の続きで、その後「泉ヶ丘通り」を寺町方向に歩いて右に回ると「泉野櫻木神社」がある。ここの境内は広く、三方向に鳥居が立つ入口があった。


































 古来より俗に「櫻木の八幡」とも呼ばれていて、明治5年に村社となり明治15年に泉野櫻木神社に改称されたという。金沢の神社仏閣の由来を書いた「亀尾記」には、この地が櫻の四郎というものの廷内であったとの記載があるという。
ここの神社の由来が刻まれた立派な石板が立っていた。




















拝殿の建物とその前の狛犬、拝殿内部を見た。


































手水舎は龍の口から水が出るようになっていているが、首の根元が細く、細かく彫刻されているので、あまり触られると壊れてしまいそうなのか、金網が張られていた。




















境内には拝殿の前にしめ縄が掛けられたご神木をはじめ、市指定保存樹林のタブの木、ケヤキ、クロマツなどの大木が立ち並び、この住宅街の中の泉野地区に貴重な緑となっている。




















































この神社近くに、1870(明治3)年に金沢市の泉野で生まれ、Z項という地球の緯度変化を計測するための公式を発見、世界の天文学に貢献し、第1回の文化勲章をもらった「木村栄博士の誕生の地」の石碑が建っていた。ここは、現在「Z笹の湯」という銭湯になっている。


























またこの近くを流れている雀谷川は、1846(天保14)年の絵図に描かれており、農業用水として泉野一帯を潤してきた。現在は長坂用水から取水し、伏見川に注いでいる。




















旧鶴来街道を横断するところには「雀橋」という1898(明治31)年に架けられたというレンガ造りの太鼓橋が当時の姿のままで残っているのも珍しい。




















泉野一帯に残る竹林などの緑と調和しながら用水景観を醸し出しながら有松方向へ下って流れている。

2017年4月20日木曜日

泉野界隈(1)地黄八幡神社

今回は、私が時々利用している「泉野図書館」がある泉野界隈を歩いた。大通りの「泉が丘通り」と細い「旧鶴来街道」が並んで走っている。「泉が丘通り」は、確か昭和30年代くらいに「寺町通り」まで繋がったはずだ。「旧鶴来街道」は、藩政期のころからあった。
藩政期のころは、この辺は広い泉野原野であり、鷹場があり、幕末には調練場があったという。






























藩政期には寺町や「六斗広見」付近までは寺院や民家があり、その奥の「旧地黄煎町」付近に数軒民家が点在していただけだという。
この通りに標柱があり「 地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したからその名がついた」と描かれていた。

























この「旧鶴来街道」沿いに「地黄八幡神社」の入り口がある。前には石垣があるが、鳥居の後ろにある大木はバッサリ切られていた。
鳥居をくぐり、、長く細い参道を歩いていくと、「泉が丘通り」に出て、その向かい側に、また大きな鳥居がある。今はここが主に入り口なのか「地黄八幡神社」の扁額と石柱が建っている。ここは時々来る泉野図書館のすぐ隣でるが、初めて入る。



















この神社の由来が描かれた立て札が立っていた。



















こじんまりとした古めかしい「拝殿」の上部に扁額がかかり、背後に「本殿」があった。







































手水舎も古めかしく、この石は赤戸室石であろうか。



















境内にはちょうど見事の桜が咲いていてきれいだった。母親が幼児を抱いて一生懸命きれいな桜を見せていた。(4月12日)



















1週間後は境内の薄いピンクのソメイヨシノは散り、濃いピンクの八重桜がきれいに咲いていた。(4月19日)

2017年4月16日日曜日

天神町界隈(4)馬坂 高原院

天神町界隈(3)の続きで、その後「馬坂」を上がった。上り口からくねくね曲がっている。



















ここに「馬坂」の標柱があり「昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた」とあった。つまり六つの曲がりがあるのだ。いくつも折れ曲がる道を「七曲り」といわれるが、偶数の六曲がりなのが面白い。
























上がっている途中に振り向くと、卯辰山から浅野川の下流方向に広がった街並みの眺望がすばらしい。



















先が見えない曲がった「く」の字の角に「馬坂不動尊」と描かれた額を掲げた「お堂」がある。



















ここには、不動明王が祀られていて「馬坂不動尊」と呼ばれていて、その真ん中には竜頭の筧(かけい)があり、湧水が落ちている。これは、昔、田井村の農民が馬を引いて小立野に上がる際に、馬を休ませ、息継ぎのための給水地点の場所だったという。また、この湧水で目を洗えば、眼が回復したという言い伝えがあるという。



















「お堂」の近くになんて書いてあるかは分からなかったが、古そうな曰くのある石物のようだった。



















さらに上に上がると坂と階段が並んでいる。最高斜度は26度で、長さは168mということで、結構息が上がってしまう。
























坂をのぼりつめたところに寺院群が現れるが、その手前に十体の石地蔵が並んでいた。



















その隣には「一つ灸」で有名な高原院がある。ここは、1641年(寛永18年)、御開山・春堯和尚は、当初、大豆田に当寺を建立した。春尭和尚が加賀藩初代藩主・前田利家の息女・福姫の縁者として取り上げられたことから、その報恩供養のために建てられた。「高源院」とは、福姫の戒名を取ったものである。1659年(万治2年)に当地に移転したという。
ここは、私の親戚の人の菩提寺で、法要の時に入ったことがある。



















金沢三十三観音巡りの第29番の札所で、毎年7月1日に無病息災を祈願する人で溢れる「一つ灸」が行われる。

2017年4月12日水曜日

天神町界隈(3)天神町街並み

天神町界隈(2)の続きで、椿原天満宮を下りると天神町の通りに出る。この神社の左手の通りをまっすぐ行くと、若松、二俣から越中砺波地方まで通じている。




















そして、反対側の方へ歩くと、材木町から橋場町まで続いている旧街道で、通称「オコ谷往来」へと至る街道沿いにできた街並みが続く。




















金沢のフルマラソンが2年前から始まっているが、この古い街並みを紹介しようと、ここがコースの中に入っている。15km地点付近なので、かなりばらけているからこの細い道も混雑しないということで通ることのなったのだろうか。





















「こまちなみ保存地区」の立て看板が掲げられていて、かっては、桶屋や鍛冶屋などの商売屋が多くあった町で、伝統的な町屋建築が、旧街道らし曲がりくねった道路に面して軒を連ねているところである。




















幕末の古地図には4000石の火消し組頭、品川家の邸宅があったことから、この辺りは以前「旧品川町」と呼ばれた。品川左近は三代利常に仕え、利常が死ぬと彼は殉死した。「これぞまことの武士」と拍手喝さいを浴びたとか。
また近くにあった「旧板前町」は藩政期に金沢城の台所を切り盛りしていた料理人が藩から組地を与えられたところだ。




















通り沿いにあった風情のある町屋で、横の勝手口から裏庭に通じている。




















通りの途中にはやはり風情のある門構えの「天神町緑地」があり、憩いの場所となっている。




















結構広く、奥の方に行くと浅野川の河岸段丘や卯辰山が眺められる。また、園内には椿の花が多く咲いていた。




















また、通りの途中に「宝円寺」の方へ上がる「馬坂」に通じる道がある。