2021年6月27日日曜日

宗林寺(1) 戦犯遺品展示

 先日の新聞に「米軍将校がA級戦犯の遺骨を太平洋にまいた」という公文書が、最近見つかったという記事を見た。その記事の中に武蔵町にある「宗林寺」には、「A級戦犯の遺書」などがあることは知っていたが、一般公開しているという記事が載っていたので、仲間と一緒に見てきた。




















新聞によるとGHQのシーボルト外交局長は、A級戦犯の遺骨は「指導者たちの墓が将来、神聖化されることがないように、遺灰を海に投げ込むことになっていた」記述されていたという。

境内には、7人のA級戦犯の名前の絶筆が刻まれた「光寿無量院の碑」と「十三層の塔」が建てられていた。















以前にこブログでも紹介しているが「宗林寺」の場所は、私にとっても懐かしい場所である。というのも昭和30年代前半ころには、ここに「花山幼稚園」が付属していたが、その建物の2階に「そろばん教室」があり、私が小学5,6年の時に毎日のように通っていた所である。現在の境内の場所には、幼稚園の砂場や広場があって、ここでそろばんが終わった後によく遊んだものだ。

ここの八角堂は光寿無量院宗林寺「花山聖徳堂」と呼ばれている。聖徳堂は、昭和29年にここの12代住職、東京大学名誉教授「花山信勝」博士の発願により、「法隆寺夢殿」を2/3の大きさに模して、鉄筋コンクリートで建立されたという。
現在の14代の住職「花山勝澄」さんに案内されて中に入った。
1階には、ご本尊の阿弥陀如来、両脇には聖徳太子16歳の考養像と親鸞聖人座像が安置されている。



そして地下の展示室に入った。すぐに「花山信勝」博士と夫人らしき人の胸像が目に入った。
戦犯の教戒師として活動した「花山信勝」博士の持っていた関係資料が集められている。
「花山信勝」博士の活動については次回に紹介したい。

展示室には多くの展示物があり、住職さんにエピソードを交えながらの説明を受けた。



















一番上はA級戦犯七人のうちの五人の写真で、あの有名な「東条英機」も入っている。その下の方は花山博士が関わったBC戦犯の何人か人たちの写真が並んでいた。これまでにこの軍人たちの子孫や関係者が来られいて、写真を見て跪いて泣く人やずっと立ちすくむ人もおられたという。




















太平洋戦争の戦勝国が日本を裁いたという「東京裁判」の様子



















当時の戦犯が入っていた巣鴨プリズンの独房の様子で、2畳の畳に1畳の板の間にはテーブル椅子兼洗面所、トイレと物置となっている。もう一枚は巣鴨プリズン本館の内部の写真。今はその場所に池袋の「サンシャイン60」の高層ビルなどが建っているという。



















A級戦犯の七人が、処刑数分前に花山信勝の求めに応じて描いた覚悟の署名で、両手が縛られたまま書いたものだというが、しっかりした字である。昭和23年12月23日 午前0時1分という時間である。



















そして念仏を唱えながらブドー酒を飲み、微笑みさえ浮かべて処刑場に向かったという。そのブドー酒の瓶が展示されていた。
























東条英機や他何人か戦犯の遺書などが展示されていた。














2021年6月22日火曜日

昌永町・京町界隈(3)広誓寺

 昌永町・京町界隈巡りの途中に有名な「広誓寺」があるが、この寺について紹介する。

不破河内守彦三勝次が前田利家の客臣となり、尾山城に入城し禄高三万三千石を拝領し、港の警護を兼ねて、現在の五郎島地区に居住。慶長2年、不破家菩提寺として真言宗安養山廣誓寺を建立。後に曹洞宗僧侶、傑外雲英大和尚に帰依し、改宗。1650(慶安3)年現在地に移転し、山号を本源山と改め、境内2000余坪に七堂伽藍を完備した壮大な寺院を建立。現在、本堂のみが当初のまま現存し、当寺の面影を残している。(HPより)




















不破河内守光治は、美濃の土岐氏、斎藤家に従臣し、斎藤家滅亡後に織田信長の家臣となった。後に安土城代を経て、福井県越前市の龍門城に、子・直光とともに移動した。1580(天正8)年に越前一向宗との戦いで生涯を閉じたという。子・直光は、本能寺の変で織田信長が討たれた後、前田利家の家臣となり、現在の金沢市彦三町に大屋敷を構えた。



















藩政期には、不破氏をはじめ武家階級の門徒が多くいたので、寺も降盛を極め規模も大きく、右隣の横越家の住宅となっている所は「座禅堂」があり、向かいのマンションの南側には「鐘楼」があったという文字通り七堂伽藍あったという。
本堂の建物は当時の面影を残しており、本堂玄関の屋根下の漆喰の上に何本の梁が張られ、珍しい模様が付けられて(寺町の高岸寺にも同じ模様となっている)、丸い看板には「笑可」と描かれている。これは、2代前の住職が描かれたものだと今の住職に聞いた。



















境内も広く地蔵祭りなど祭礼の時は境内で相撲大会や吹き寄せ・からくり・露天商なども多く出たという。



















広誓寺に祀られている地蔵尊は有名で、昔から現在に至るまで地蔵祭りの日には多くの参詣者を集めている。一刀三礼の御作と伝えられている。弘法太子不破家の念持仏の地蔵菩薩があり、鎮火地蔵尊、子守地蔵尊、地域の地蔵尊として、33年に一度に御開帳されるという。
下図の地蔵はどういう謂れものかわからなかった。
























「山門」は風流な「薬医門」で、「本源山 広誓寺 11代細字佐吉書」の看板が掲げられている。「細字佐吉」と言えば、織田信長から名前をもらったという加賀藩御用達のハンコづくりで、現在でも尾張町に店がある。もひとつ「弘法大使誤作日除地蔵尊」の看板が掲げられている。



















「山門」の隣には「幽霊地蔵」は、台座を含めて140㎝立像、蓮の花を持つ姿で、赤色布地の頭巾、よだれ掛けをしている。火葬場が浅野川の近くにあり、残りの灰、骨を灰塚に埋めたり、時には川に流していた。「灰塚」の石碑があったが、洪水で分からなくなった。それで「灰塚付近で幽霊が出る」などのうわさから「家の庭に幽霊が出るから成仏させてほしい」と依頼を受け、16代住職が庭石を寺に運び風化した碑面を削り「幽霊地蔵」としたという。


















その隣には、巨大春日灯篭が置かれていた。
























境内には、樹齢約400年ほどのケヤキが4本あり、県指定の保存樹木となっている。新緑、紅葉には見ごたえがあるという。
























不破家のお墓は「野田山」にもあるが、こちらにも江戸時代の分家お墓があった。
























男爵斯波蕃灰塚の石碑があった。斯波蕃は、加賀藩士津田内内蔵助(1万石)の養継子に入り、北越戦争で総指揮官として活躍し、のちに男爵位の受爵した人だ。



2021年6月19日土曜日

昌永町・京町界隈(2)

 昌永町・京町界隈(1)の続きで、その後「彦三大橋」から浅野川沿いの右側の道を歩いた。すぐに「中島用水」の標柱があった。「元禄11年 藩命により完成されたといわれる用水で かっては旧中島町の浅野川岸から取水していたのでこの名が付いた」とあった。

























取り入れから少し先だけ開渠となっているが、「広誓寺」前付近はずっと暗渠となっている。
























ある家の裏庭には草木がいっぱいで、さらに大小の灯篭や石などが所狭しと置かれていたは、造園業の庭であろう。



















さらに向こうに見えるのは「昌永橋」で、「七つ橋渡」の最後の橋である。



















幕末の頃には、「中の橋」と同じように「一文橋」の木橋があったらしい。その木橋は何度も流失している。
大正時代に「昌永橋」が開通したときの祝いで多くの人が集まった写真



















東大通に戻ると、通りに面して町屋風の建物に大きな薬局があった。店前にいろいろな商品のポスターが貼られていて、私もちょっと使いたいと思うようなものがあったので、店の店員に値段を聞いたら、あまりにも高いのでやめた。
また、ここからは「中島用水」が開渠になっていて、北陸鉄道を超えて「城北水質管理センター」を巡るようにして流れ、あとは農業用水となって、磯部、松寺町地内を流れて「大宮川」に合流している。
























「東町」交差点の前の道路に入ると大きな病院「城北病院」の建物がある。この辺りでは「金澤社会保険病院」とならんで大きな総合病院である。



















さらに奥には、北陸新幹線・北陸鉄道の高架橋が見える。
























高架橋の手前を左に曲がると「応化橋」に出る。右に曲がると「乙丸陸橋」の方面になる。



















近くの広場にタイヤを柵にした面白い緑地があった。




















この辺りにも藩政期からある路地と思われる曲がりくねった細い道と坂がある。
























また「中島大橋」に戻ると、下流側に「応化橋」と北陸新幹線の高架橋が重なって見える。


2021年6月14日月曜日

昌永町・京町界隈(1)

 今回は、駅前から東大通を通って、浅野川の外側にある昌永町・京町界隈を歩いた。

浅野川の所には「中島橋」を渡ったが、この橋は、以前は鉄骨のトラス構造だったが、60年経ち老朽化し、最近新しく建て替えられた。

橋の向こうは鳴和方面に通っているが、私が小学生の頃はまだ行き止まりになっていたのを覚えている。




















中島大橋から上流側を見ると「昌永橋」が架かり、その先の山「卯辰山」が見える。



















橋の一端には「辰巳用水」が浅野川に流れ込んでいるところがある。藩政期は「西内惣構堀から稲荷川」、今は「高岡町排水」として流れている。橋の横に通っている金属管は何を流しているのだろうか?




































橋を渡って右側は「昌永町」となっているが、旧町名は「上・下中島町」であった。この辺りに藩政期に建てられた武士系の建物「泉家」が数年前まで残っていたが、今はない。また道路の下は暗渠となって「中島用水」が流れている。




















「泉家」は人持組寺西要人の陪臣の家だったところに彦三大火の後に移ってきて、藩政期の武家屋敷にごく最近までそのまま住んでいた。緩やかな勾配の屋根でアズマダチであった。今は解体した材料を金沢市が保管しているが、いずれ湯涌の「湯涌江戸村」に建てる予定と聞いたことがある。




「金沢市史 建築編」より







その先には、私と同じ会社でテニス仲間だった人が住んでいる「信開ダイナシスティ」のマンションがある。ここは以前「宮前織機」という会社があったところで、藩政期には人持組寺西要人の下屋敷があったところである。




















その向かいには、人持組不破彦三の菩提寺「広誓寺」があるが、ここは後日にあらためて紹介する。
藩政期には「広誓寺」の向かいには「寺西要人の下屋敷」とその隣には「不破彦三の下屋敷」があり、足軽屋敷や町人屋敷などが混在していた所である。
























この辺りにあの「山田らの集団」の建物があるらしく、「オウム」に関する看板や旗がいくつも置かれていた。天理教など他の宗教関係の事務所もある。
















さらに進むと、細く曲がりくねった道で先が見えないが、昔は農道だったところだろうか?
























さらに進むと大通りに出て左に曲がると「彦三大橋」に出る。橋から見る下流側は蛇行していて12年前に氾濫し、右の昌永町側が床上浸水の大被害を受けた。そこで大々的に護岸工事をした所だ。



















上流側は向こうに「小橋」が見えるが、こちらにはせき止めの堰堤があり、藩政期に作られた「小橋用水」の取り入れ口がある。そしてこちらも護岸工事を行っている。





2021年6月9日水曜日

いのちの停車場(映画)

吉永小百合主演で金沢を舞台にした映画「 いのちの停車場」が封切となったので、ぜひ見たいと思って「御経塚シネマ」へ見に行った。(5月26日)

























この映画は地元では見たいと思っている人がいっぱいいると思い、封切となった5月21日(金)および土日は避けて月曜日に朝一番の30分前に行ったら、もう既に何百人と行列になったいたので、すぐにあきらめ2日後の26日(水)にまた朝一番30分前に行ったら、やはり行列だったが少し待って入ることができた。



















金沢が舞台もさることながら、正統派の新旧の人気美人女優の「吉永小百合」と「広瀬すず」が出演することもワクワク感があった。特に「吉永小百合」は同じ世代なのでよく知っている「あこがれの人」(サユリストではないが)で、金沢にはデビュー直後の15歳の時、赤木圭一郎の「不敵に笑う男」で来ていたのはよく覚えている。その後には渥美清「男はつらいよ」にも来ていたということを聞いていた。
















この映画の原作は「南杏子」で、医療をテーマにした作品が多い人で、在宅医療や老々介護、終末期医療の問題など、医療の現実に向き合う人間ドラマである。いずれ原作も読みたいと思っている。




















映画の内容は、長年東京の救命救急エンターで働いていた、救急医・咲和子(吉永小百合)がある事件の責任をとってセンターを退職し、父親が一人で暮らす金沢に帰郷するところから始まる。そして新しい職場の「まほろば診療所」で、患者から慕われる院長(西田敏行)と訪問看護師(広瀬すず)が、近隣の患者たち一人一人の希望を尊重しながら治療を行っていた。


















今までの医療現場と全く違い、「まほろば診療所」の在宅医として、再発したがん、末期がん、小児がんなどの患者に戸惑いながらも次第に患者だけでなく家族と向き合い、寄り添っていく。そして最期の時を迎えた人たちが安らぎの時間を持ち、家族や親しい人に別れを告げて旅経っていくことを体験する。

















咲和子の父が骨折をきっかけに誤嚥性肺炎や脳梗塞によって半身不随の病に冒され、「自分の命は自分で決めたい」と言い出し、最後は父の希望通りに「安楽死」を選ぶようになる。
この映画は、誰でも必ず来る命の終わり方について、すべての人の一緒に考えてもらいたいということである。私ら世代の大きなテーマでもある。
























映画の中では、主計町の「暗がり坂」横にある「バー・ステーション」は、「まほろば診療所」のスタッフの打ち合わせや一服する場所として提供している場所である。マスターは、世界中を旅し金沢にたどり着いた吟遊詩人という役は「みなみらんぼう」さんが演じていた。この人は、「酔いどれ女の流れ唄」の作詞・作曲や「やまぐちさんちのツトム君」などで知られた人だ。

















この映画では、よく見る金沢の素晴らしい景色がふんだんに出てきて、わが町の美しさが見れて楽しい映画だった。
「浅野川大橋」の夜景
















「千里浜」













その他、「にし茶屋街」、「金沢駅」、「梅の橋」などが出てきた。

「W坂」の上がったところに画家の住宅があるが、そのアトリエが病気の父の家の寝ている部屋としてロケの舞台になっていることが、後日、雑誌に載っていたのを見た。父が趣味として「筆画」をやっているということと眺望が良いということから選ばれたようだ。

































それで、そこへ見に行って住宅の隣の眺望地からは、片町側はよく見えるが、景色の良い犀川や戸室・医王山側は木が生い茂りよく見えない。映画の最後のシーンは部屋から見える景色だったが、光で真っ白になっていてよくわからなかった。
W坂上の緑地から見た片町側



















W坂下から見た犀川や戸室・医王山