2018年1月31日水曜日

東北地方北部ドライブ(23)乳頭温泉の早朝散歩

東北地方北部ドライブ(22)の続きで、次の日(10月16日)の朝食前に宿泊所のウォーキングのイベントがあったので参加した。多くの宿泊者がいたが、参加したのは40代位の夫婦2組と私の5人だけだった。地元のガイドがブナ林を案内してくれた。



















樹齢何年か忘れたが、大きな樹木が紅葉していた。























この辺はブナの木のほかに、カエデやミズナラ、ダケカンバなど生い茂り、所々紅葉していて、美しい風景が眺められた。



















また、渓谷や湿原などいろいろな自然と巡り合える。時期によっては「ミズバショウ」や「モリアオガエル」なども見られるという。



















紅葉した木々の向こうに見える標高1,477.5mの乳頭山は、乳頭に似ているからその名前が付いている。



















辺り一面に、ススキが茂っていた。



















この池には、大きなイワナがたくさんいた。この「イワナの池」の前に「観賞用のイワナで釣ってはいけない」と看板が立っていた。


































山が見え、ブナ林があり、きれいな池があり、昼にはこういうところを散策し、夜はお風呂とおいしい食事をするという、ゆっくり滞在型のプランもあるが、一度はやってみたいものだ。


































乳頭スキー場跡が見えた。ガイドから「これはキツネの糞である」と教えてくれたが、「クマに注意」の看板があったり、他にリスなどいろいろな野生の動物が身近にいる所である。



















1時間くらいの散策だったが、風景がきれいな自然が満喫でき、気持ちの良い体験ができた。

2018年1月28日日曜日

宮田鈴庵(加賀の麩)

今回は、趣味仲間に誘われて小橋にほど近い「加賀の麩」の店として有名な「宮田鈴庵」に行ってきた。古めかしい門構えの前に「ふ」と描かれた白い暖簾がかかっているのが印象的である。ここは明治8年創業というから、かなりの老舗である。



















加賀の麩は、江戸時代の後期に加賀藩主の前田家の料理人である舟木伝内が書いた「ちから草」のなかで、グルテンに小麦粉や米粉、餅粉などを加えて作る煮ても切れない麩を完成させたものである。舟木伝内といえば、3,4年前に「武士の献立」という映画に出てきた人である。
門から玄関までの通路の周りも、なかなか風情がある。



















金沢の最高級のおもてなしの人に提供するといわれる「群青の間」に招かれた。こういう所で食事をすることはめったにない。


































この食事をする「群青の間」から、きれいな庭が眺められる。庭に面した戸のガラスは、下の方まで大きく開かれ、庭が広く見られるようになっている。



















置かれた石の配置や苔、草木、そして雪吊された木と薦に覆われた灯篭など、見た目にも落ち着く庭園である。



















加賀の麩といえば、治部煮の「すだれ麩」とおでんの「くるま麩」が有名であるが、ここではいろいろな麩の料理が食れるということで、どんなものが出てくるのか楽しみだ。
 まず出てきたのが、麩の刺身でごまやゆずなどがはいったもの(写真はヨモギの麩を食べてしまった後)で、もっちりとした触感で甘めの醤油とわさびでいただいた。



















続いて生麩の揚げ出しで、パリッとしていておいしかった。ゆっくり味わって食べた。




















続いて、小さな土鍋の中に車麩、おくら、三つ葉と豆類だったかな(?)、熱々のおいしい汁味であった。



















次に生麩のステーキで、両面をこんがり焼いて見た目は全く牛肉のステーキ風だ。外側はパリッとしているが、中はもちっと柔らかい。またどの器も素晴らしいので、眺めていても飽きない。



















生麩のぱりぱりの春巻きと卵巻き、黒豆



















生麩のフライ田楽 に酢レンコン。そしてその後、おこわと麩の味噌汁に漬物、さいごに麩まんじゅうが出た。どれもおいしく頂いた。麩を主体にしていろいろな料理を食べさせてもらって、よい体験をした。



















帰りに洋室から庭を見ると、また別の美しさが眺められる。また、この洋室も素晴らしい部屋であった。

2018年1月26日金曜日

雪の浅野川、東山茶屋街付近の風景

今日(1月26日)は、浅野川、東山茶屋街付近の雪化粧の風景を紹介します。
今週は、日本周辺に大寒波が襲来し、東京の都心は48年ぶりの最低気温だとか。金沢も朝の温度が、昨日、今日は-4°、ー3°C、日中でも0℃くらいしか上がらなく真冬日だが、雪は先週より少ない。
「梅の橋」から「天神橋」、「卯辰山」方向を見る。



















「梅の橋」から「犀川大橋」方向を見る。



















「東山緑地」から「梅の橋」を見る。



















「東山緑地」から「大橋」を見る。



















まだ午前10時ごろで、しかもこの寒さで、いつもは人でいっぱいの「東山茶屋街」のメイン通りも、がらりとしている、



















「ひがし検番」からは三味線の音色が大きく聞こえた。



















茶屋街の一番奥の通り
























茶屋街の一番細い道のクランクの先に、名物となっている「長いスコップ」が掛けられている。庇に積もった雪を落とすためだとか。以前は、もっと上の方に置かれていた記憶があるのだが(?)



















藩政期、明治からの町屋が並ぶ「観音通り」には、融雪装置が付いているが、両側に雪が残っている。



















この観音通りの奥の方にある古美術店「大正洞(?)」の前のウィンドーには「加賀蒔絵」のきらびやかな工芸品が展示されていた。

2018年1月24日水曜日

東北地方北部ドライブ(22)角館② 田沢湖

東北地方北部ドライブ(21)角館①のつづきで、その後も武家屋敷の「青柳家」を見学した。庭の一角に「武器蔵」があった。



















 「武器蔵」の中に、青柳家ルーツを伝える武器や武具などが展示されていた。
鉄砲、刀、鎧兜など多くのものが飾られていた。
重そうな長い銃筒の火縄銃で、戦などに持ち運ぶ鉄砲隊もたいへんだなあと思う。





































青柳家が甲府のお武田家に仕えたいたころの物だという立派な鎧兜である。



















刀剣の鍔の装飾もすばらしい。材質は、鉄、金、銀、銅、真鍮やそれらの合金だという。




















薬や印、印肉などを入れ、腰に下げる「印籠」で、外観の模様がすばらしい
























「武家道具館」には当時の生活様式を伝える武家道具が展示されている、



















平賀源内、小野田直武など角館ゆかりの先人の先取的思想とハイカラ指向を受け継ぐアンティークミュージアムで、収集した昔のレコードなどが展示されていた。



















続いて、角館から田沢湖に行った。田沢湖は、日本一の深さを誇り、季節ごとの変化に富んだロケーションが広がる景勝地である。しかし着いたのは薄暗くなってからとなった。
田沢湖のシンボルの「たつこ像」は高村光太郎の門下生の彫刻家の船越保武が辰子姫伝説をもとに製作したという。




















 「浮木神社」は湖にせり出してたたずむ流木を祀った小さな社殿である。



















車を止めて、ちょっと湖を眺めているうちに、たちまち暗くなってきた。



















その後、今日泊まる「乳頭温泉休暇村」に入った時は、辺りは真っ暗だった。

2018年1月21日日曜日

東北地方北部ドライブ(21)角館①

東北地方北部ドライブ(20)男鹿半島 入道崎の続きで、その後、「なまはげライン」を通って、「角館」に行った。ここは「みちのくの小京都」といわれる武家屋敷が残っているところだ。



















城下町としての角館は、もとは戸沢盛安(とざわもりやす)によって作られた。のちに常陸へ国替えとなった戸沢氏に替わり、佐竹義宣の弟である芦名義勝が角館に入り、元和6年
に新城下町を整えた。芦名家は三代51年で断絶、以降、佐竹北家により支配された。
城下町は「火除け」と呼ばれる広場を中心に、北は内町と呼んで武士が住み、南は外町と呼び町人が住んでいたという。



















金沢の武家屋敷は土塀であるが、角館は黒板塀が並んでいて、雰囲気が随分違う。塀が高いほど身分も高かったのは同じであるが、金沢長町の通りは、藩政期のままの細い道だが、ここは結構広い通りに並んでいる。
武家屋敷を利用して、お土産屋、食事処もたくさん並んでおり、金沢長町よりも武家屋敷としては残っているところが地域が広い。



















緑の木々に覆われた重厚な薬医門と黒板塀のある佐竹北家に仕え、財政を担当する勘定役を務めた石黒家に入った。



















屋敷から外を眺めらるように「のぞき窓」が黒板塀にある。屋根は茅葺で、起こり破風に懸魚が付いた正玄関と脇玄関があり、二つの玄関を持つ身分の高い武家だった。これは、本来の玄関の他に、当主より目上の方の出入りに使う特別な玄関もあるという。

































続いて、その隣にある武家屋敷「青柳家」に入った。ここも芦名家、佐竹北家に仕えた家柄で、代々の役職は納戸役を多く務めたという。母屋は約200年前の建築のままに、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚など意匠をこらした玄関があり、雪国特有の廻り縁など、武家らしい威厳がある。



















座敷には武家の部屋らしい床の間、違い棚があり、板欄間には家紋の透かし彫りなどがある。現存する角館のなかでも最も豪華な座敷だという。


































敷地は3,000坪あり、広い庭には、600種類物花や木が四季折々の風情を見せてくれるいう。



















その庭には、今は使っていないが古井戸があった。



















また、兼六園で見る「寄石灯篭」に似た大きな「おばけ灯篭」があった。
























料理を準備するための部屋であろうか?



















また、角館の武士であるが、日本で最初の本格的な西洋医学の翻訳書として刊行された「解体新書」の挿絵を描いたのが青柳家の親戚にあたる「小田野直武」の銅像が置かれていた。この人の絵がなければ「解体新書」は理解しづらく発行されなかっただろう。







































「解体新書記念館」には、直武の偉業や「解体新書」の附図などが展示されていたが、非常に緻密に描かれたことが分かった。