2013年11月24日日曜日

本泉寺と加賀一向一揆関連遺跡探訪

今回も金沢歴史遺産探訪会に参加した。金沢市役所の広場に集合し、バスで二俣峠を越えて、二俣にある本泉寺に行った。


























本泉寺は越中井波の瑞泉寺の住職だった如乗(にょじょう)が二俣に創って始まったが、その如乗は本願寺8代蓮如の叔父にあたり、蓮如が北陸巡錫(じゅんしゃく)の途上でこの寺に長く滞在したというゆかりの寺だ。
階段を上がると、古い山門があったが、これは文政6(1824)年に建立されたもので、当時の井波大工が作ったものだという。




















この山門の特徴は正門扉周りに非常に細かい装飾がなされており、左右の羽目板に彫刻(左に鯉の滝昇り、右に獅子の子落し)を備えていた。井波の木の彫刻は有名であるが、さすがと思わせる。


























境内に手水舎(ちょうずや)があったが、独特のもので、六角の柱が3本しかなく、屋根の天辺には帽子状の石が具えられていた。一見不安定に見えるが、長い風雪に耐えてきているから大丈夫なのであろう。これは国登録有形文化財になっている。




















本堂の中に入って、ここの住職の奥さんから本泉寺と蓮如のかかわりや以前の建物などについて説明を受けた。








































寺の宝物を見せてもらいカメラに撮ったが、ネットに載せるのは禁止と言われたので見せられない。あしからず。とくに蓮如が書いたという御文(おふみ  人々に送った手紙)と呼ばれるものがあった。
本堂の裏には蓮如が作庭したという「九山八海」の庭が見れた。「九山八海」とは仏教の世界観でいう小宇宙であるという。室町時代の典型的な庭で、蓮如意匠の原型をとどめた庭であるという。
切り立つ岩壁を背後に池泉が作られ、池の中に大きな石を配置されていた。当時は現在見るよりもずっと広い庭であったという。








































本堂の前に境内の古木を切ったら中に面白いものが出てきたのでそのまま飾ったという。


























毎年4月24日~26日に蓮如忌が盛大に行われるが一度来たいと思う。

次に富山県との県境近くの砂子坂町にある「伝善徳寺」の発掘調査をしているところへ行った。ここは井波の瑞泉寺と二俣の本泉寺の中間にあり、蓮如が「この地は仏法有縁の土地柄であるから、道場を建立するように」と論じていて、道場を構えたといわれている。
ここの発掘調査から遺構には寺院の参道と思われる石敷き面(石をならべた遺構)や石列(石を1列に並べた遺構)や礎石(建物の基礎石の可能性のある遺構)などや出土した遺物などが見つかっている。








































この調査はまだ当分続くとのことであるが、山の中での大変な作業だなあと思った。

この近くでトンネルを作って道路を貫通させる工事を行っていて、11月中にできるらしい。これができれば富山県の福光までまた近くなり、東海北陸自動車道に乗るのに便利になる。高山などに行くに行きやすくなるので楽しみだ。




2013年11月19日火曜日

鏡花うさぎまつり(2) 加賀万歳、芸妓の舞

前回のウォークに続いて午後は久保市乙剣宮の境内で開かれていた「うさぎマーケット」を見物した。主催者の宣伝が熱心だったので多くの人で賑わっていた。




















「酉」(とり)年生まれの鏡花は母から「向かいの干支」(十二支を円に配して向かい側にある動物)であるウサギは縁起がいいと教わり、おもちゃや灰皿、水差しなどのうさぎに囲まれて過したという。それでウサギのグッズにちなんだ雑貨が並んでいた。また、東京の神楽坂に鏡花が住んでいたことから下新町と神楽坂の交流が最近始まっているということで、神楽坂の化粧品や和装の小物等も並んでいた。

神社の境内に設けられていた「彩り芸能舞台」で午後1時から「加賀万歳」が行われた。この万歳は太夫と才蔵がこっけいな掛け合いを演じる。太夫が語り手、才蔵が笑わせる役になっている。
市指定無形民俗文化財になっていて、前田利家が越中府中にいた時、農民たちが正月に領主の前で越前万歳をやったのがルーツである。
出演した人は、いつもよく見る加賀万歳保存会の会長、副会長などで、始まる前から面白い話をしていて人を笑わせていた。
今回は、人気のある「町尽くし」で、旧町名が出てくる「旧町尽くし」と新町名が出てくる「新町尽くし」と新幹線がもうすぐ金沢に来ることから、金沢から東京までの地名が出てくる万歳をやった。この中で出てくる町名や地名などは私も好きでよく覚えているので興味が尽きなかった。








































続いて午後2時から、同じ舞台で主計町の芸妓の舞を見ることができた。唄いと三味線の「地方」(じかた)の二人が後ろにいて、その前で若い芸妓さんがきれいな着物を着て「舞」を踊った。題目は鏡花の作品である「義血侠血」と最近「金沢おどり」などでもよくやっている「金沢風雅」である。




















次にその舞を踊った二人が勇壮に太鼓を鳴らした。








































その後、「お座敷太鼓遊び」があり、お客さんを舞台に上がらせて、お客さんが「テン・ツク」の音にあわせて大小の二つの太鼓を鳴らすというものである。最初、希望者の二組四人が舞台に上がってやったが、もう一組は希望者がいなかったので芸妓さんが指名した。その一人に私が指名されてしまった。「テン」と言えば横にある大きな太鼓をたたき、「ツク」と言えば下にある小さな太鼓をたたくというものである。「テン」と「ツク」はランダムに早さもばらばらなので最初はかなり間違ってしまったが、だんだんうまくやれるようになってきたところで終わった。
たいへん面白い体験をさせてもらった。今度は本格的な「お座敷遊び」に挑戦したいという感情にかられた。
次の写真は私ではない。




















その後、夕方、夜までイベントがあり、6時までいると「石川の重伝建」のDVDがもらえるということだったが、前から別の予定があったので残念ながら帰った。


より大きな地図で 久保市乙剣宮 を表示

2013年11月14日木曜日

鏡花うさぎまつり(1) 鏡花ゆかりの地ウォーク

今回は、泉鏡花誕生140周年記念ということで「鏡花うさぎまつり」が下新町の久保市乙剣宮で開かれていたので参加した。(11月3日参加)
催しは、いろいろあり午前中から夕方、夜まであるという。




















まず、午前10時から「鏡花ゆかりの地ウォーク」に参加した。約80人の参加者があり、4グループに分かれてウォークした。説明は「まいどさん」がやってくれた。
久保市乙剣宮の裏の「暗がり坂」を通り、主計町、ひがし茶屋街を通って、卯辰山寺院群に入り、赤門寺と呼ばれていて、門にわらじがかかっている「全性寺」(ぜんしょうじ)に行った。
わらじがかかっているのはこの辺を「高道町」といって飛脚が多く住んでいて、健康と健脚を願って奉納されたという。




















ここは鏡花の母方の菩提寺で、幼いときに亡くなった母への思いが込められた作品の「夫人利生記」(ぶにんりしょうき)の舞台となったところである。
寺内のある摩耶夫人(まやぶじん)(釈迦の生母)の姿を母の面影に重ね合わせているという。








































また、10代前田重教の生母が安産祈願のために寄進したという不動明があった。




















寺の横には能楽で有名な宝生流15代宗家の宝生紫雪、波吉宮門や諸橋権之進の墓がある。また鏡花の母方の実家が能楽の大鼓方(おおかわかた)であった中田家の墓もある。ということは、ここは能楽師の墓が非常に多いということだ。




















次に鬼子母神さんで有名な真成寺(しんじょうじ)に行った。ここは毎年4月29日に人形供養が行われるし、無病息災や安産、子授かりの祈願で訪れる人も多いという。








































ここは鏡花が母に連れられて幼いときの参拝した寺で、山門の扉にある釘隠しは鏡花の作品の「鶯花径」(おうかけい)のなかで鬼子母神の乳だといって「すいすいした」と描いている。




















また、ここには江戸時代中期に活躍した悪役をやらしたら天下一品だった宮腰(現金石)出身の中村歌右衛門の墓もある。




















次に日蓮宗で3代利常の生母の福寿院の祈祷所でもある蓮昌寺に行った。ここは鏡花を親身になって助けた又従姉にあたる「目細てる」の菩提寺でもある。




















寺の中には日蓮の誕生から死までを描いた絵が何枚か飾られていた。




















ここは鏡花の絶筆となった「る紅新草」の舞台となった所で、そのことについて石川文学館の前館長の香村幸作さんが説明してくれた。作品の中では盆の時に墓地に燈籠を供えることから「燈籠寺」として呼ばれ、山門から日本海や河北潟が見えたことや「赤とんぼ」が登場し、物語のカギを握ることなどを話された。





















ここには金沢4大仏のひとつである丈6の釈迦如来立像も見ることができた。住職は非常にユーモアのある気さくな方で、いつでも寺内を見せてくれるということであった。


























帰りに宇多須神社、鏡花の「滝の白糸」の像などを見た後、久保市乙剣宮に戻った。
散歩時間2時間、7600歩でした。


より大きな地図で 卯辰山寺院群 を表示

2013年11月9日土曜日

舟木伝内の復刻料理 つば甚

今回は「加賀藩 季節の味づくし」というテーマで加賀藩の殿様の御抱えの料理人だった舟木伝内の復刻料理を食事するというイベントに参加した。場所は寺町通りの「つば甚」であった。(10月29日参加)




















舟木伝内は5代綱紀、6代吉徳に仕えた「御膳方」という料理人で、貴重な料理書を残している。「ちから草」は料理人の心構えを記されており、子の安信と食材の産地をまとめた「料理無言抄」などがある。今回は舟木伝内が残した料理書をもとに「つば甚」の料理人が作ったものである。
12月から上映される「武士の献立」は料理侍の舟木家の様子を題材にしている。

大広間に50人くらいが参加していたが、さっそく女将のあいさつがあった。




















続いて出た料理について紹介しよう。
付出に出た菊花などのゴマクリーム掛けはおいしかった。




















加賀野菜をふんだんに使われており、五郎島金時や加賀レンコン等を使った料理が出た。また、舟木伝内の藩主の料理書にぶりがよく出てきており、はしりのぶりの刺身は非常に柔らかく、おいしかったし、今回は「初ぶりのほう葉焼き」という珍しいものを食べることができた。





























































また、蕪のあんかけの煮物は柔らかく、味付けもほどよく食べやすかった。




















酢物のコウバコガニは石川県はまだ解禁になっていないので、もう既に解禁になった新潟産だそうだ。内子はやはり大変おいしい。




















おこわとなめこ汁




















五郎島金時芋ぜんざいと渋皮栗





















旬の食材を生かした季節感あふれる料理で、見た目、味付け、香りすべて手が込んでいて申し分がなかった。おいしいものをたくさん食べて非常に満足したが、加賀藩主はいつもこんなものを食べていたのかと感嘆してしまった。

ビールを飲んでいい気分でいると、私の横に新聞記者が来て今回の食事の感想を聞かれた。適当に返答したが、次の日の新聞に掲載されてしまった。
今回もなかなか経験のできないよい体験ができた。部屋の窓からは犀川、戸室山、医王山が一望できた。


より大きな地図で つば甚 を表示

2013年11月4日月曜日

河北門 佐久間盛政展

金沢城の河北門の中で、佐久間盛政展をやっていたので見に行った。




















盛政は初代の金沢城主でありながら、金沢の歴史上あまりスポットライトを浴びていない。どういう人だったのかと思っていたが、この展示会でかなり分かってきた。
それまでこの地を支配していたのは一向宗が中心の「金沢御堂(みどう)」であったが、これを叔父の柴田勝家と盛政が攻め落とし、現在の金沢城を整備し、御坊を城に作り変えた。しかし盛政が支配していたのはたった3年間で、その間もいくさにあけくれて、あまり城の整備はできなかったようだ。
今回は大分県の竹田から来られた佐久間家の子孫の方が詳しく説明された。




















盛政は190cmを超える大男だったという。信長から猛将と言わしめたほどいくさにめっぽう強かった。信長が本能寺の変でなくなった後、豊臣秀吉と柴田勝家との賎ヶ岳の戦いの時、盛政は先陣をきって秀吉方の中川清秀の陣を打ち破ったが、深追い過ぎて秀吉軍にやられてしまった。この時、前田利家、利長父子の軍が盛政の後から援護する役だったが、戦線離脱したから盛政がやられてしまったという。これが賎ヶ岳の戦いの勝敗を分けたという。




















盛政は秀吉から「一国一城を与えるから力を貸してほしい」と言われたが、盛政は「生きていれば何度も貴様の首を狙う」と応じなかったため、宇治の槙島で処刑され、さらし首になったという。





















盛政には一人娘の虎姫がいたが、秀吉の命により敵方の中川清秀の子秀成に嫁いだ。しかし、家臣の反対もあって豊後国岡城(竹田市)には一度も行かなかったという。その後、虎姫の子が竹田で佐久間家を再興した。




















展示場で子孫が大事に保管していた虎姫の木像を見ることができた。




















また、あの有名な滝廉太郎の「荒城の月」は豊後竹田城をモチーフとして作曲したことや幕末の蘭学者の佐久間象山が一族であったこと等の関連資料が掲載されていた。




















最近金沢の「百万歩の会」が、佐久間盛政の縁で九州の竹田市を訪れ交流したことが紹介されていたが、これをきっかけに佐久間盛政展が実現したらしい。
戦国時代は悲喜こもごものドラマがあって非常に興味がつきない時代だ。

より大きな地図で 金沢城 河北門 を表示