2012年7月30日月曜日

宮崎寒雉の工房

茶の湯釜で有名な「宮崎寒雉」の工房を訪ねた。
古い町並みが残る彦三の一角にあり、昭和2年の大火で焼失した後に
現在の家を建てたという。




















能登の穴水の中居というところから出た鋳物師の宮崎家の初代は、
5代藩主の前田綱紀から茶道奉行として仙そう宗室が京都から招かれたが、
その折、藩の御用釜師として仙そうの指導の下に多くの釜を製作したという。
湯気を出す塩屋釜、三角おにぎり形をした焼飯釜などが有名。
説明してくださったのは、14代宮崎寒雉さんで、大変気さくな感じで、
説明も分かりやすかった。
プロジェクタで釜の製作方法などの説明を受けた。
工房は家の後方の庭の横にあり、砂型で作った上型、下型、中子あるいは
やすりなど作業に必要な道具がおいてあった。
鋳物は、最近ではかなり近代的な製法でやっているところが多いと思うが
昔ながらの製法でやっているようであった。
機械といえば、砂型が重いので、運搬用として使っているクレーンだけのようであった。


さび止めとして釜の表面に塗る漆が調達できることや 釜を入れる箱などを
作ってくれる人がいるから金沢でできるのだという。


静かな町の中のこのようなところで作っていたとは驚きであった。


「寒雉庵月釜」は毎月第4土曜日の1時、2時、3時から、ここで
開いているとのことです。

より大きな地図で 宮崎寒雉宅 を表示

2012年7月26日木曜日

石引通り南側の小立野寺院群


金沢まち博2012がスタートし、金沢散歩学に参加した。

約50名くらいの参加者がいたであろうか、説明して下さったのは、石川郷土史学会幹事の
横山方子(まさこ)さん。





















歴史博物館から、大乗寺坂を下り、嫁坂を上がった。
途中、囲碁の名人であった日海が創建したという本行寺を見た。
その後、藩主が鷹狩りが好きだったため、鷹を飼っていた人の屋敷
があったという旧鷹匠町を通った。
明治になって、鷹がいらなくなって処分に困ったという話を聞いた。










































そこを通っていくと、棟学寺に出た。
棟学寺には水戸天狗党を弔う水府義勇塚があった。
水戸天狗党は水戸藩の尊皇攘夷派のことで幕末に350人が処刑されたいう。
その近くに加賀藩の蘭学医の吉田長淑の墓があった。
長淑の墓に彫ってある紋様は未だにどんなものかよく分からないという。
墓の下のほうには、長淑の弟のやはり蘭学医の大高元哲、
顕微鏡などで知られる松田東英などの名前が彫ってあった。



旧欠原町は崖ぶちに通りがあったためという。

真行寺では「厄除け地蔵尊」の中に入った。病厄、災厄
歯痛、耳痛など顔から上の病気に御利益があるという。
この寺の持ち主の「木村さん」のおばあさんは現在90歳くらいになるが、
この人が女学校だったころの話が横山さんからあったが、この人は
私の家内の母の友達でもある。



最後に、真言宗「波着寺」へ行った。ここは前田利家が越前府中にいたころの
戦勝の祈祷所だったところで、のちに利家が金沢に来たので移転したという。
波着寺では、めったに公開しないが、このまち博のために見せてくれた
11面観音を拝むことができた。


説明した横山方子さんは、頭の中にみんな入っているらしく、まったく資料を見ないで、
細かいところまで、分かりやすく説明してくださったのには感服した。


終わったところで、今回の散歩についての感想を新聞社の人から
インタビューを受けてしまった。
それで翌日の新聞に掲載された。もっといろいろ感想を述べたのに「ためになった」
とだけしか載っていなかった。

2012年7月20日金曜日

十間町、大手町界隈(2)

前回の十間町の続きで、その後大手町を歩いた。
大手町は藩政期、金沢城の大手口であったのでこの名がついた。





















大手門である尾坂門の石垣は慶長年間(2代利長の時代)に作られたもので、
ここには特に、畳3~5畳もある巨大な鏡石が用いられている。
城の正面玄関にふさわしい偉容を備えている。























尾坂門の向かいには、今は「総合健康センター」が建っているところに
市立図書館があった。(現在は玉川図書館に移っている)
私は、昔ここで読書したり、勉強をしていたことがある。





















また、尾坂門を見て、左となりに「白鳥路」がある。
藩政時代は堀だったが、今は埋められ遊歩道になっている。
ここに白鳥がいた堀だったという説と、3代利常夫人の珠姫が
江戸城の白鳥掘をしのんだという説がある。





















尾坂門を見て、右となりには「大手掘」がある。唯一ここは埋められなかった。
私は小学生のころ、ここによく来て、付近の土の中にいたミミズやダンゴをえさにして
魚釣りをした。





















大手掘の横(尾坂門の反対側)に「黒門」がある。
利家の前に、金沢御堂を攻略した佐久間盛政が居住していたころは
ここが正門であったという。





















黒門の前に「黒門前緑地」がある。





















利家の4女の豪姫が、夫、宇喜多秀家が八丈島に流刑された後、金沢に戻り、
この付近に住んでいたという。









































黒門前緑地のなかには、金沢地方検察庁検事正官舎とアドレナリン、タカジアスターゼ
でゆうめいな高嶺譲吉のゆかりの家屋が移築されている。
高嶺家は譲吉の父(げんろく)が建てた一部で、書斎、茶室として利用された離れ
にあたるという。

より大きな地図で 大手掘 を表示

2012年7月17日火曜日

十間町、大手町界隈(1)

家の者が武蔵の名鉄エムザで買い物をするということで、車に便乗し、
近江町の駐車場で別れて、私は十間町、大手町を散歩した。

十間町は寛永以前からの町名で、当初の戸数が十軒であったことから
この名がついた。





















「すみよしや」は創業360年余で、、金沢でも最も古い旅館という。
江戸時代は尾張町にあって、明治になってからここに移ってきた。
あの日本地図作成で有名な伊能忠敬が、まだ尾張町にあったときに、
この旅館に泊まったという記録が、この「すみよしや」にあるという。
伊能忠敬が金沢で測量をしたとき、加賀藩は警戒して、対応が冷たかったという。
伊能忠敬は私が尊敬する人物の一人です。





















「すみよしや」の向かいに、これも古くから創業で、紙商い140年という「中島商店」
がある。





















加賀八家のひとつの「前田家(長種系)」屋敷がこの辺にあった。
加賀八家はミニ藩並の家中で形成しており、金沢城内にあった「二の丸御殿」
のミニ版のような屋敷で、「能舞台」もあったという。
長種系の初代は、利家の長女「幸」を室に迎えた。越中守山、小松城で3代前田利常
を養育した。





















旧殿町は十間町の地内にあり、藩政期には、その中の武家地を殿町と
呼んだことからこの名がついた。



より大きな地図で 無題 を表示

2012年7月11日水曜日

泉界隈(旧北国街道上口)

この通りを歩くのは初めてだ。





















ここは、昔の北国街道で、京都、大阪へ行く人はここを通った。
昭和の初めに南端国道ができるまでは、ここを通る人や、店も多く、にぎわっていたらしい。
昔の面影を残した家が今でも残っている。





















この通りにある国造神社は西暦380年頃というから歴史は古い。
ご祭神は、石川県を作ったといわれる賀我の国造大兄彦の命で、
あわせて大国主命と菅原道真の神霊も祭ってある。
今ある建物は明治40年に造ったという。


千代尼塚で知られる念西寺がここにある。
千代尼とは加賀の俳人千代女のことで、千代尼が37回忌のとき(1811)
に塚が作られた。
1750年ごろ、3~4年間、念西寺に寄宿していて、付近の人と俳句を通して
交わりを深めたという。
「あさがほや釣瓶とられて貰ひ水」の句は有名。


野町方面に向かって歩いていくと、斜めに曲がっていくところに泉八幡神社がある。
加賀の国の守護の富樫泰高が建てたといわれ応神天皇が祭ってある。
富樫泰高といえば、あの「長享の一揆」で自害した富樫政親が滅んだあと、守護職についた。























そういえば、私が学生時代だった昭和44年、この付近に自衛隊のジェット機が墜落し、
死者4人、焼失家屋が多数の大惨事となった。
私は学校にいて、消防車がサイレンを鳴らして走っていったのを覚えている。



より大きな地図で 念西寺 を表示