2016年4月29日金曜日

東西別院付近(2)西別院

東西別院付近(1)の続きで、照円寺の右の通りをまっすぐに行くと「西別院」がある。この寺の塀の前に「旧五寶町」の石柱が建っている。「西末寺(本派本願寺別院)の門前で、藩政時代は西末寺、西御坊町と呼ばれていたが、明治の初めにこの名に改められた」とあった。


























「西別院」は、藩政期には「西末寺」と呼ばれ、明治に入ると西管刹、本願寺別院と改称された。今は「浄土真宗本願寺派別院」が正式名称で、俗に「西別院」といわれている。
1546(天文15)年に現在の金沢城本丸に「金沢御堂」として建立された。1580(天正8)年に織田勢に滅ぼされた後、金沢城外に一時建立されたいう説もあるが、1611(慶長16)年に2代前田利長が現在地に1万坪を寄進し、1615(慶長20)年に本堂が落成したといわれている。
寺宝の「阿弥陀如来像」は、前田利家が入場の折、今の金沢城本丸の「金沢御堂」の広間の部屋の屋根裏にあったという伝説の「阿弥陀如来像」だそうだ。




















1835(天保6)年に横安江町からの出火で、東西末寺が消失したという。現在の建物はそれ以降に建てられたものである。山門は1893(明治26)年に建てられたものだが、屋根の裏側の木組みや獅子などの彫刻が素晴らしいものであった。




















山門をくぐると、右手に手水舎があり、その後ろには幼稚園があった。園児たちの元気な声が聞こえた。




















また、その反対側には、1856(安政3)年にできた鐘楼堂




















その横にある六角の建物の経蔵は1866(慶応2)年できた。この中には経典が回転体の上にたくさん入っており、お参りに来た人が回転体を押して一回転させると経典をすべて読んだことになるという。以前この中を見ることができて、このブログでも紹介している。




















本堂も何度か火災で焼失しているが、現在のものは1849(嘉永2)年にできた。




















屋根の裏側を見ると、張り出した大きな重い屋根を支えるための細かい木組みの技術の素晴らしさがわかる。




















本堂の右前に梵鐘が置かれているが、この鐘は旧竹沢御殿に置かれていた時鐘で、その後金沢市に保管されていたが、この別院の梵鐘が戦争で供出されたので、昭和21年に、ここに寄付された。しかしひびが大きくなったので平成5年に現在の梵鐘に替えられたという。


























本堂の建物の左側を見ると、三つの切り妻造りの屋根の下には、細かく彫刻された素晴らしいものがあり、目を奪われた。木造以外に一部金属なのかよく分からなかった?

2016年4月25日月曜日

兼六園 2016桜 遅咲き桜

今日(4月24日)に兼六園の近くに来たので、遅咲き桜がどうなっているか見に来た。
噴水近くの「楊貴妃」は、ソメイヨシノから1週間遅れて満開になるというからから、すでに峠を越えていてかなり散っていたが、まだそれでも見ごたえがあった。




















サトザクラの一品種で、八重桜で花が大きく淡紅色である。しかしもっと美しく見るためには、やはりもっと前に見に来なければならない。




















寄観亭の前の「カンザン」も同じく「サトザクラ」で、八重桜の代表的なものだという。写真を撮る外国人でいっぱいだ。




















「ソメイヨシノ」と違って、紅がかったピンク色の大きな花で見ごたえがあった。




















「兼六園菊桜」は2代目で、2本あるうちの前からあったものは、上の方と真ん中あたりだけに咲いていた。


























今年、ここに植えたばかりのものは、まだ花が小さかった。「地蔵堂」近くの茶店の人に言わせると「古いのはもうあまり咲かないのでは」言っていたし、新しく植えたものは「来年かもう少し経たないときれいに咲かないのでは」と言っていた。


























「旭桜」や「兼六園熊谷桜」はもうすでに散っていた。
「千歳橋」や「花見橋」付近の曲水にはすこし「カキツバタ」が咲いていた。




















「明治記念之標」の裏にある「フゲンゾウ」も淡ピンク色の八重桜で、これも見事に咲いていた。




















その近くにある「ウコン」はもう峠を過ぎたと思われるが、花はサトザクラとしては珍しい淡黄緑色である。


























金沢城の五十間長屋、橋爪門付近には、赤、ピンク、白色などの「ツツジ」がきれいに咲いていた。
いつもはゴールデンウィークごろに咲いているが、今年は少し早いようだ。




















「お堀通り」の「新丸」方向には深紅のツツジも咲いていた。




















いろいろの桜の満開時期を見過ごしてしまったが、ソメヨシノの満開の時と今日の中間の時期に、一度見に来ればよかったのに残念である。

2016年4月21日木曜日

東西別院付近(1)照円寺

横安江町商店街の北方向に「広見」があり、いくつもの通りが分かれている。この「広見」の向側辺りに、高岡の瑞龍寺や小松の那谷寺、小松天満宮、羽咋の気多大社、妙成寺などを建立した「建仁寺流」で有名な、あの「山上善右衛門」の屋敷があったという。




















「善右衛門」は「建仁寺流」を受け継ぐ加賀藩の大工で、1628(寛永5)に3代利常に仕え、1646(正保3)年に100石の知行が与えられ、上記の他に金沢城に関わる多くの社寺などを再建、建造に尽力した人である。




















「山上家」の隣に「照円寺」というお寺がある。ここは、3代利常の時に石川郡山島郷から現在の土地に移されたという。元々は、本願寺西末寺が現在地に再興されるに際して、留守居役として再建勧進の中心的な役割を果たし、加賀における西本願寺派の触頭として、また前田家の出城の役目も歴代にわたって務めたといわれる。
「照円寺」の由来は、本願寺の12世准如上人が御坊再建のために御下向され、「照円寺」の住職の慶空の功労を賞せられて、六字、九字、十字名号および和讃などの御染筆を下され「照円寺」の寺号と「准」の一字を給わり「准宣」と改名したと記されているという。




















門の横に龍が彫られた石壁があった。




















門から中に入ると、屋根が大きく広がった古めかしい梵鐘があった。





















新しく建てられた「宝物館」にはどんなお宝があるのだろうか?その横に「照円寺修復懇志者芳名」が載っていて、私が知っている人の名前もあった。




















本殿や他の建物もわりと最近建てられたようだ。本殿前の木々や刈込、灯篭、何重かの石塔も趣があった。
このお寺で私が深く記憶しているのは「地獄極楽図」である。小、中学生のころ何度か見に来ており、地獄絵図の非常に恐ろしかったことが印象に残っている。今から1000年前の平安中期に名僧源信僧都の著された「往生要集」に基づいて描かれたものといわれていて、八種の地獄と六道が描かれていて、毎年、春の彼岸に一般公開されている。まだ見てない人は一度見られたら良いと思う。




















本殿の中に入ると、金ぴかのなかに本尊の「阿弥陀如来」が祀られていた。天井の絵模様や照明もすばらしいものであった。




















私が55年以上前に来た時とは随分お寺の印象が変わっていた気がする。

2016年4月17日日曜日

寺町台地と犀川沿い(6) 犀川緑地 御参詣坂 雪見橋

寺町台地と犀川沿い(5)の続きで「いしかわ子ども交流センター」の前から、「雪見橋」を超えて、「大桑橋」まで、約2km以上が「犀川緑地」の公園となっている。




















この日は(4月2日)は天気が良く、3日前に桜が開花したばかりで、今は5部咲きぐらいで、これくらい咲いているのも見ごたえがある。




















午前中の早い時間なのでまだ花見の人も少ない、








































ここの向こう岸に「鞍月用水」の取水口があるが、ここ数年の護岸工事により昔の面影とはすっかり変わってしまった。
「鞍月用水」は、江戸時代に菜種油を採る目的で、絞油水車を回すために、犀川のこの辺りに巨大な堰(油瀬木の名前が残る)を設けて、「鞍月用水」の入る水量を豊富にした。それでこの辺りの川幅は非常に広かった。








































少し歩いて、左側に平和町へ上がる坂がある。この坂は「御参詣坂」と呼ばれている。車道に石段を併用した平均22度の急坂だ。坂というより崖という雰囲気でS字カーブになっている。
この坂を上がる車は、この坂付近に住んでいる人だけで、通過者は通行禁止となっているという。




















坂の途中に石柱が建っている。藩主などが野田山へお墓参りに通られた坂で、この名前が付いた。桜橋から船に乗って、法島の船着き場で船を下りてこの坂を通ったという。この坂の延長上に、1682(天和2)年に利家の墓詣のために建設された「野田往還」がある。




















ここからまた「犀川緑地」に戻り、少し歩くと古めかしい建物があった。この建物は、旧加登長香林坊店を香林坊第2開発事業により移築したもので、明治末期に倉屋氏が建てたもので、、これを昭和12年に加登長の吉田長久氏が買い取って、1階を食堂に、2,3階を宴会場に改造したものだという。宴会場は、戦前戦中は兵士と家族の面会や四高生などの会食の場として広く市民に親しまれてきたという。移築するにあたり建築基準法に適合させて2階建てに改造したという。




















この建物の中は、ギャラリーになっていて、犀川沿いを散歩する人の一服の場となっている。



木で作られた「尾山神社神門」や「金沢城石川門」「キリコ祭り」など、それに子供たちがこの辺に植栽している写真などが飾られていた。
この建物の前で一服している伯父さんに話しかけられ、少し話をした。この人は毎日午前に1時間、午後に1時間歩いているという。話をしている途中に何人もの人が挨拶して行ったが、顔なじみだと言っていた。




















ここの建物の前にきれいな「もくれん」の花が咲いていた。




















さらに歩いていくと、長い立派な橋が見えてきた。これが、犀川で最も長い「雪見橋」で、187.5mあるという。




















橋全体に曲線を取り入れ、高欄に雪見障子風の窓、橋の中央にはきれいなステンドグラスが入っていた。ここまでなかなかくる機会がないからからゆっくり見てきた。




















「雪見橋」から見た下流側の風景。護岸工事が進みすっかりきれいになった。

2016年4月13日水曜日

寺町台地と犀川沿い(5)不老坂 上菊橋 いしかわ子ども交流センター 

寺町台地と犀川沿い(4)の「宝集寺」から、「寺町1丁目」交差点の斜め向かいに三十三観音の第十一番札所の「祇陀寺」(ぎだじ)という寺がある。
1325(正中2)年、現在の白山市の吉野谷地区に建立された。開山は大智禅師で、その後、一向一揆により消滅したが、越中宇山、金沢八坂、西町を経て、現在に至るという。明兆(兆殿司)作の涅槃図があり、金沢市の指定文化財になっている。




















ここの地蔵尊は小児の頭瘡(できもの、別称「がっぱ」ともいうが、今でいうアトピーか?)に??があるという。




















「祇陀寺」の向かいの通りに入ると急坂がある。ここは、十一屋町から上菊橋へ下る橋で「不老坂」という。すぐ川下にある「長良坂」より平均斜度は2度ほど緩く、最高斜度は8度、総延長264m、高低差17.4mである。両側に手摺があり、車も片側1車線で楽に通れる。




















坂の途中に「不老坂」の石柱があり、「細く急な坂道であったが、明治の中ごろ上菊橋とつながり、のち拡張整備され縁起の良いこの名がつけられたという。近くに風呂屋があり、不老長寿によいよいうので、この名で呼ばれたという」とあった。


























昭和54年に「下菊橋」から「新不老坂」が開通してから交通混雑がかなり解消されたという。それまでは、小立野台地と寺町台を結ぶ交通量の多い重要な坂だったらしい。





















坂の下には立派な「上菊橋」がある。10数年前に向こう岸の菊川に住んでいる知人宅へ寄った時には、まだ工事中で通れなかったので、建て直されて10年位というところか?




















「上菊橋」から上流方向は「犀川緑地」という公園になっているが、50年ぶりでここへ来たが、すっかり変わっている。河川敷ではゲートボールを楽しんでいる人でいっぱいだった。こういう天気の良い日は気持ちがよいだろう。




















このすぐ近くに「いしかわ子ども交流センター」がある。ここには、遊び・文化芸術・科学などの体験の場、健全育成や子育て支援のための情報提供・相談などを行っているという。




















中に入ると、子供たちが気軽に運動できるように、ジュニア用のトランポリンやロッククライミングがあり、父母、祖父母と一緒の子供たちがたくさん利用していた。




















また、鉄道模型コーナーでは、新幹線や蒸気機関車、ブルートレイン、サンダーバードなどを、トンネルや駅などがあるところを走らせ、解説していた。多くの子供たちが見入っていた。




















別のコーナーには、将棋やオセロがあり、おじいちゃんと小学生らしい人が一生懸命やっていた。