2013年9月27日金曜日

21世紀美術館、松涛庵、山宇亭

前回の続きで、21世紀美術館の建物の外には「カラーアクティブハウス」といって、色の三原色の赤、黄、青の渦巻き状のガラス板があった。その近くを歩いて回ると色が重なり合っていろいろな色に見える面白いものが見れた。見る位置によって、違う色をした美術館の建物、広場、街の様子が見れる。




















金属で作られたラッパ状のものが公園にいくつもあったが、それぞれがどれかひとつのラッパに地面の中のパイプでつながっていて、ひとつのラッパから話をするとつながったラッパから聞くことができる。子供たちがどれとつながっているか走り回って探している様子をよく見かけた。




















美術館の中は無料ゾーンと有料ゾーンに分かれていて、今回は無料ゾーンの展示物を見た。
市民ギャラリーでは「北陸創造展」をやっていて、県内の作家さんのすばらしい洋画、日本画、彫刻、陶芸などを見ることができた。




















私は雪山等の景色を見るのが好きなので、「北陸の雪山」という題の立体観に見とれ、うまく描くものだと感心した。




















また「島袋道浩 能登」は世界中を旅した作家が能登特有の風習や産物に焦点を当てた作品を見ることができた。海の中に沈んでいたつぼなどを使ってアートとして飾ってあった。




















公園の一角に茶室のある「松涛庵」という建物があった。




















これは13代藩主の前田斉泰が江戸の根岸に建てられた隠居所の居間として造られたもので、その後何度か移築したが、昭和54年には浅野川の常盤橋のたもとの料亭ごりやの敷地内に移築された。天井は高く床に凝った工夫が見られるという。








































「松涛庵」のとなりに「山宇亭」という茶室のある建物がある。昭和26年に高岡市から金沢市の本多町に移築され直山家で使用されていたものである。
本多の森の中ほどに位置していたことから「山のお茶室」と呼ばれていたが、平成17年の移築に伴い「山宇亭」と命名された。

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2013年9月23日月曜日

21世紀美術館

今回は、広阪にある21世紀美術館に行ってきた。(9月10日見学)ここは今や兼六園、東山と並んで観光客の多いところだ。




















ここの美術館は普段着でぶらり立ち寄れる、子供から高齢者まで気軽に入れる公園のような美術館を作りたいというコンセプトからできたものである。
石川県美術館は日展や伝統工芸展のような伝統に重きを置く本格派美術館と違って、現代美術に主観を置くというものである。
建物の設計者は妹島和世(せじまかずよ)氏と西沢立衛(りゅうえい)氏で、建築界のノーベル賞といわれているブリッカー賞を受けた。
この場所は以前は金沢大学教育学部付属の小学校と中学校があった。戦前は石川県女子師範学校であった。




















どこが表か裏か分からない円形のガラス張りの建物で、直径が何と113mもあるという。丸い美術館ということで”まるびぃ”という愛称で呼ばれている。建物全体を写そうとしたがなかなかその場所が見つからなかった。
外周に出入り口が4箇所あったが、通路が複雑で迷路のようになっている。ところどころに休憩や交流の場所があった。ひとつの休憩コーナの壁一面に花模様が描かれていた。




















アルゼンチンの作家のレアンドロ・エルリッヒが手がけたという「スイミングプール」がある。プールサイドの人が手を振ると、「中にいる人」が手を振って応対するという面白い光景が見れる。これは深く水が満たされているように見えるが、実際は透明ガラスの上に10cmの水が張られているだけだという。




















建物の中の屋根に「雲を測る男」という像があることを知っていたが、なかなか見つけられなかったが、通路をあちこち歩いているうちにやっと見つけることができるほど小さな像だ。これは「終身犯」という映画から着想を得て製作されたという。

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2013年9月17日火曜日

大野湊神社

今回はかなざわまち博で、寺中町にある「大野湊神社」に行った。(8月9日見学)
説明してくれたのはここの河崎宮司で、まず由来について聞いた。727年に陸奥の人、佐那が猿田彦大神を勧請したのが始まりとされる。




















もとは金石の砂丘地にあったといわれるが、度重なる嵐や大波で砂丘地が削られ、神社は海中に没したといわれる。砂丘上にあったといわれる絵が飾られていた。




















1252年に現在の地の寺中町の離宮八幡宮に奉遷された。一時荒廃したが、その後前田家により再興され、氏子村15村を定めた。そして大野庄の総社として社殿、神器の修理などの寄進を受けている。
まず拝殿でお参りをした。ここの拝殿は昭和10年に金石生まれの安宅弥吉が寄付して立てられたという。(当時のお金で約2万円)
本殿には佐那社の猿田彦大神と神明社の天照大神が祭られている。




















境内には金石の豪商の銭谷五兵衛が寄進したとされる灯篭や新馬舎があった。














































二代藩主前田利長は慶長9年(1609)に関が原の戦勝祝いとして始められ、400年以上毎年行われている神事能の舞台があった。戸が閉まっていたので中を見ることができなかった。毎年5月15日にここで奉納神事能が行われ多くの人が見に来るという。一度は見たいと思っている。




















また三代藩主利常が建てたという旧拝殿があった。屋根には「梅鉢紋」が付いていた。ここは昭和10年の新拝殿新築の際に移築されたという。




















中には加賀藩の絵師の松波景栄の描いた絵馬は安政2(1855)年の作で幅14.3mの大きさは日本一といわれている。
この絵は源平盛衰記を題材にした絵で中に当時の大野湊神社や金石の町並みがや北前船などが描かれていた。








































また境内のあちこちに初老や還暦の時に神器具などをご奉納した記念に年度と寄進した人の名前が書いた碑がたくさんあった。




















8月の第一週の金~日曜日の三日間の夏祭りは金石の町を挙げて行う。このときに伝統ある「悪魔祓い」や「獅子舞」も行われるが、これも見たいものである。

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2013年9月9日月曜日

浅野神社

今回もかなざわまち博で浅野本町にある「浅野神社」に行った。(8月5日見学)




















私の母の実家がここの氏子だったので、小さい頃祭りの日には親戚の家にご馳走を食べによく行ったが、浅野神社は今回が始めてである。
この神社は「浅野のばんどり祭り」といわれるほど祭りの日を中心に雨が多く、別名「雨乞い神社」といわれている。




















主祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)と大己貴命(おおむなちのかみ)とし、滋賀県の日吉神社を総社として建設された。




















説明してくれたのは、この神社の女性の宮司さんでしたが、金沢弁丸出しのところもあり、話が面白く、よく笑いが出た。落語でもできそうな楽しい人であった。




















拝殿内に大絵馬の「ひらかな盛衰記」が飾ってあったが、縦1.6m、横8mの大変大きなものであった。義経と義仲の戦いを右から左に物語風に描いたものである。
この近くにすんだことがある徳田秋声の作品の「穴」にこの大絵馬を見たことが書かれている。








































お参りの仕方というものを習った。鳥居から入り、手水をして参道に入るが、手水舎が右側にあれば参道の右側を歩き、帰りには参道の左側を歩くということらしい。手水舎が左にあればその反対となる。そしてお賽銭を入れ、二礼二拝一礼する。
また手水の作法も教えてくれた。柄杓に汲んだ水を一杯だけで下図の写真のようにする。




















境内にはここの13代宮司と親交のあった室尾犀星の句碑があった。




















また近代俳人の北川洗耳の句碑もあった。




















他に白山ひめ神社を御本社として勧請された若宮白山社が昭和47年に竹俣地区に鎮座していた熊野社の旧社殿が遷座されていた。




















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2013年9月3日火曜日

石浦神社

今回もかなざわまち博2013の「神社の御神宝めぐり」で本多町にある「石浦神社」に行った。(8月1日 見学)
21世紀美術館の向かいにあり、広阪の角という大変よい場所にある。




















大物主大神(おおもののぬしのおおかみ)など多くの祭神がある。





















当初は加賀国石浦村をはじめ七つ村の産土神だった。現在の武蔵が辻近くから犀川の左岸に到る広大な地域だった。寛永時代に作成されたという氏子地図が飾ってあったが、その広さが分かる。




















織田信長の4女の永姫が2代藩主の利長の夫人であったことから、信長の肖像画がかざってあった。いつもよく見る信長の絵よりはちょっといかつい顔をしていた。信長の肖像画は全国にいくつかあるという。




















また、信長が使ったとされる槍が、先端の剣状の刃物はとれていたが、長い柄を見ることができた。




















また木のポンプがあったが、これは明治の頃のもので金沢で最古のものであるという。消防用として使われたらしい。




















現在のここの宮司さんは、親が最近亡くなってからあとを継いだらしい。前は外食産業の店長をやっていたという異色な人である。




















21世紀美術館などと一緒になって、CGを使って神社の建物を映す計画など、今後の観光の場所としてもいろいろ検討しているらしい。
また、境内には小さな子供たちが遊べるように、テントの中に大きなビニール製のプールが置いてあった。そういえば、小学生の頃、この近くの中村記念美術館のところに本多町プールがあって、よく来たものである。私はそのプールで泳げるようになった。
異色の宮司さんの新鮮な考えでいろいろなイベントをやり、人を呼び寄せてもらいたいものである。

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