2015年10月28日水曜日

金沢の寄席文化 一九席 下新町

北国新聞赤羽ホールで2015ビエンナーレいしかわ秋の芸術祭「金沢落語まつり」が行われていた。ここで落語家で有名な桂文枝さんや桂ざこばさんなどが人情味たっぷりの話術を披露していたというが、それに併行して「金沢の寄席文化」の始まりとして下新町にあった「一九席」に関したものが催されていたので見に行った。




















寄席は大衆文化の拠りどころであり、江戸時代には一町一軒といわれるほど多くの寄席があったという。金沢にも明治から昭和初期には尾張町、武蔵が辻、香林坊付近に約二十軒の寄席があったらしく、寄席文化が全盛期を迎えていたという。その中でも「一九席」が全国に名を馳せたという。
小福座から改称された立花座(後のスカラ座)は昭和50年まで色物の寄席として営業していたという。




















「一九席」は明治37年に上方で人気の女義太夫の竹本一九が席主となり新富座を買い取り、のちに「一九席」と改称し大繁盛したという。上図の地図を見ると今の下新町の「泉鏡花記念館」辺りだ。ここに明治37年から大正8年ごろまであった。


























その後、尾張町の大通りに移り新築改称し大繁盛したが、市電の音が妨げとなり昭和5年に閉場し、一九食堂(カフェ)になったという。


























「一九席」には上方と東京の中間ということで、当時の多くの人気芸人が来演した。昭和の名人といわれる5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、6代目三遊亭園生、林家彦六、初代江戸屋猫八が若き頃に高座を勤めたという。




















竹本一九の名前が載っている女義太夫一座のチラシ





















寄席の中に貼られていた「スリにご用心」のポスターが展示されていた。財布やキセル、くし、時計などの絵が載っているのは面白い。最近はあまり聞かれなくなったが、着物を着ている人が多かったからか昔はよくスリがいたのだろう。


























「一九席」などその頃の寄席の軌跡が、明治から昭和初期までの載っていたが、いかに繁盛していたかが分かる。




















ところで金沢で初めて映画が公開されたのは1897(明治30)年に興行師梅若が香林坊で営んでいた「福助座」で、当時は「電気作用活動代写真」と呼ばれた。1913(大正2)年に金沢で初めての映画専用劇場の「菊水倶楽部」が香林坊にオープンしたという。その後は続々映画館ができ、寄席に変って栄えたという。

2015年10月23日金曜日

富樫のバラ園(秋のバラ)

この日は家の近くをのんびり散歩していると、富樫運動公園のバラ園の横を通った時にバラが咲き誇っているのが見え、あまりにもきれいだったので写真を撮った。




















毎年5月に見に来ており、このブログでも載せたことがある(2012.5)が、今回は9月の剪定後に咲いたバラである。すでに満開を過ぎたようで少し劣化し始めていたが、まだまだ見ごたえがあった。




















最近天気がよく、今日も秋晴れである。先日の全国ニュースの天気予報の中でここのバラ園の映像が確か出てきたと記憶しているが。




















バラ園の向こうの木々は、上のほうの葉っぱが色づいている。




















白いバラがいくつもくっついて咲いていた。またピンクと赤いバラも重なって咲いていた。こういうきれいな花を見ていると心が和む。









































土曜日、日曜日には小さい子供をつれた若い家族などがぶらぶらしているが、今日は平日なのでひっそりしている。日によってはシニアの人たちがゲートボールをやっていることもある。
すぐ近くに、サッカー場や陸上競技場、プールなどもあり、試合があるときは、人でいっぱいになる。また少し離れた所に総合体育館があり、先日、ここで大相撲が巡業に来ていて、地元の遠藤関と握手をした女性のうれしそうな顔が映像に映っていた。








































住宅地の寺地の紅葉並木も既に最盛期を過ぎてしまったのか、少し赤黒くなっていた。そういえば去年見た「しいのき迎賓館」横の「アメリカ楓通り」の紅葉はどうなったのであろうか?

2015年10月18日日曜日

能登観光列車「花嫁のれん」号

今回は、息子、孫などと一緒に金沢駅へ「花嫁のれん」号を見に行った。(残念ながらまだ乗る予定はないが)午前10時15分発ということで、40分くらい前にホームに着たらまだ誰もいなかった。
2両だけだということで4番ホームの能登方向の前の方に止まると聞いたので、そちらへ行き待つことにした。
ホームの壁には、金沢の伝統工芸の加賀水引をモチーフにしたロゴマークが描かれていが、花嫁のれんをくぐる神聖で幸せな気持ちを再現しているという。




















ホームに花嫁のれんが掛けられていたが、ちょうど今日結婚式を迎える本物の花嫁さんがくぐるのを見ることができた。こののれんは婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り」をした後、結婚式に臨むという風習がある。
これからこの列車に乗って、七尾か和倉温泉で結婚式があるのであろうか?




















発車時刻13分前に、お待ちかねの「花嫁のれん」号が入ってきた。多くの人がカメラを構えて見ていた。




















伝統工芸の「輪島塗」をモチーフとした赤と黒が基調で、「加賀友禅」の着物の絵柄の花や蝶がちるばめられていた。何とも豪華絢爛の列車である。








































車内の1号車と2号車の間のデッキ部分の壁やドアには金箔が全面に張り詰められ、花柄の模様があしらわれていた。




















2号車の車内は、洒落た形状の赤い椅子で、車両の両端にテーブル席と中央の席は窓側に向けられ、車窓の景色をゆっくり眺めるようになっている。またその向かいにはイベントスペースがあったが、ここでいろいろな催し物をするのであろう。




















1号車は八つの個室に分かれていて、「梅花の間」や「撫子の間」など名前がつけられ、2~4人がけのテーブル席になっている。仕切りの金色の壁には、やはり花柄が描かれていた。




















通路はゆったり曲がりくねっていて、揺れてもあるいは足の悪い人でも摑まりやすいように丸い棒が並べられていた。




















1号車と2号車の間のスペースに金色のカウンターがあったが、ここでお客さんから要望があった飲み物や食べ物が用意されるのであろう。どんなメニューがあるのであろうか?
和装した二人のアテンダントが乗り込んでいて、お客さんに最高の「おもてなし」をしてくれる。(和倉温泉の加賀屋で研修を受けたと聞いたことがあるが)




















そして10分足らずで和倉温泉に向かって走り去った。止まっている間に列車の外装、内装、それに花嫁のれんを背景に、アテンダントと一緒に、そして電車を背景に家族との記念写真を撮ったので結構忙しかった。北陸新幹線の開通をチャンスとして、この列車を走らせることになったが、能登観光の起爆剤として多くの人に来てもらいたいものだ。





















2015年10月13日火曜日

金沢城の石垣(4) さまざまな切り石積み 石川門 戸室石

金沢城の石垣(3)の続きで、金沢城の中には切り石積みの石垣の中でもいろいろな積み方のものがある。
特に見せる石垣群がある玉泉院丸庭園の石垣にはいろいろな形状、大きさ、色などの石が積まれている。




















この玉泉院丸庭園にある「色紙短冊石垣」は通常使われない縦長に積まれた長方体の石垣が見られ、現代アートにも通ずる異色の石垣である。




















三十間長屋の建物の下の石垣は「金場取残し積み」といわれ、石の縁取り加工がなされデザイン性を高めている。




















石川門の升形の内部の石垣は、時代の違う時に積まれた石垣が並んでいるため異様な感じがする。一の門から見て左側は寛永の大火(1631年)の後の「粗加工積み」で、正面は宝暦の大火(1759年)で炎や熱でひどく痛んだので積み直したため「切り石積み」となっている。








































石川門は、今は一の門をくぐって右に回ると二の門があるが、江戸時代の初期の絵図を見ると左に二の門があったようだ。これは本丸など城の中心部が左側にあり、石川門から石垣の石を運ぶのに近道だったからだと推測する人もいる。石川門の右側には横山家の屋敷があり、城内にはいくつかの家臣たちが居住していた。









「よみがえる金沢城」より










金沢城の石垣のほとんどは、金沢城から東へ12kmほどにある戸室山という小さな火山から採取された戸室石である。この山は今から約40万年前の噴火によって生まれた。そしてその後の岩屑なだれによって崩れ落ちた安山岩の塊が、山麓のあちこちに埋もれているのを、人々が掘り出し石材として利用するようになったのが始まりで、400年前の金沢城の石垣作りから多く使うようになったという。
下図写真は犀川の桜橋から戸室山を見る(後方は医王山)




















戸室石は加工のしやすさから、金沢城石垣だけでなく、庭石や社寺の石造物などにも利用されている。「赤戸室石」「青戸室石」と区別されることがあるが、化学組成上に違いはなく、どちらも同じ岩石である。色調が異なるのは、単に岩石が冷える際の条件の違いによるものであり、高温で長時間空気にさらされると赤っぽくなり、短ければ青くなるという。利用する人はこの色調の違いをデザインに生かし、場に応じて使っているという。
下図写真の兼六園さざえ山の「三重宝塔」は赤青戸室石を組み合わせた石塔である。




















戸室山で採石された石は、現地での石割や石面の加工・調整が終わると、ようやく金沢城に運ばれた。小さな石なら少人数で釣り下げたり引いたりしたが、大きな石は20から30人以上の人足が、木組みに石をくくりつけて肩に担いで運んだ。さらに大きな巨石となると修羅というソリの上に乗せ。大勢で綱を引いて運んだ。修羅の下に丸太を並べて動かしたというが、坂道などは危険が付きまとったという。








「よみがえる金沢城」より











戸室石の石引きルートは大体決まっていたが、山麓付近は高低差が大きい場所があり、少なくするために等高線に沿って曲がりくねった道を通っていたが、後に新道など迂回路を作り、高低差を緩和している。田上橋で浅野川を越えると、その後が難所の牛坂で、これを上りきると小立野台地で辰巳用水を超えてから亀坂(ガメザカ)を上がると天徳院前の下馬に着く。後は一直線で石川門から金沢城に入ったという。









「よみがえる金沢城」より










早ければ二日、普通は五日間ほどかけて大石を運んだという。難所を過ぎた所で、人足達に酒やスルメを出し労をねぎらい、難所では木遣り衆の派手な衣装や掛け声で元気を出させた。熱狂と興奮の中におかないと、とてもついていけない重労働であったという。
下図写真は石引きを再現した「御山まつり」








「よみがえる金沢城」より












2015年10月8日木曜日

金沢城の石垣(3) 粗加工積み 切石積み 本丸跡

金沢城の石垣(2)の続きで、二の丸北面の石垣は、粗加工積み石垣の代表的なもので、後に石垣の秘伝書を描いた後藤彦三郎もきれいだと絶賛しているところである。この「お堀通り」は春には桜が咲き誇り、見ごたえのあるところだ。




















この上にあった二の丸御殿の雨水を落としていた石樋がいくつか見える。




















二の丸の菱櫓から五十間長屋下の石垣は、宝暦の大火で建物は大半消失したが、石垣も炎と高熱によって大きな損傷を受けたので、二の丸御殿の再建とともに石垣も修復されたという粗加工積みのきれいな石垣である。




















金沢城の粗加工積み石垣のあちこちに、いろいろなマークが刻印されている石垣がある。各穴生(あのう)(石垣作り集団)の印だと聞いたことがあるが、実際にはよく分からないらしい。江戸城の石垣の刻印は、それを作った各藩のマークだと聞いたことがあるが?この刻印は、時代によって大きさもマークも違うという。




















現在の本丸は鬱蒼とした森であるが、これは金沢大学が設けた植物園であったので、このような形になったが、それまでがあまり樹木の本数も少なかったらしい。
前田利家の時代には天守閣があったが、1602年の落雷のために惜しくも消失してしまった。その後、利常の時代に天守閣の代用の三階櫓のほかに辰巳櫓、申酉櫓、戌亥櫓、丑寅櫓など四つの隅櫓などがあったらしい。櫓だけでなく、本丸御殿、茶室、庭などもあったという。








「よみがえる金沢城」より











しかし、寛永の大火(1631年)ですべて燃えてしまった。5代藩主綱紀の頃には、二の丸御殿が藩主の居住地になり、本丸の役割は少なくなったが、本丸御殿や正門である鉄門は残っていたが、宝暦の大火でこれらすべての建物は消失したという。
現在残っているのは、下図の本丸の正門の鉄門(くろがねもん)の石垣だけである。ここに上に屋根の付いた鉄を一部使った立派な門があったらしい。右端には申酉櫓が建っていた。




















この石垣は宝暦の大火後に修復された切り石積みの石垣で、いろいろな形状のものがすきまなく積まれている。




















下図は二の丸御殿の裏門の石垣である。




















ここも切り石積みの石垣であるが、長方形や正方形の石垣で積まれ、平行な線状になっていて整然としている。





















金沢城は何度も大火に見舞われているので、土橋門には大火から建物を守るといわれる六角形の亀甲石がある。ここは二の丸御殿のすぐそばで、デザイン的にも面白い石垣がある。

2015年10月3日土曜日

金沢城の石垣(2) 慶長石垣 粗加工積み

前回の続きで、金沢城の石垣について紹介します。
慶長年間に築かれた「慶長石垣」の特徴は、築石(つきいし)部分が自然石を矢で割っただけの割石が中心であるという。この石垣は辰巳櫓南面の他に、北向きの大手門である尾坂門や三の丸の正門である河北門の北面などに見られる。
大手門(尾坂門)は、大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料がなく、屋根つきの門(棟門)が設けられていたと説明板に記されていた。前田家の参勤交代の出発点はこの門からになる。




















ここには、畳3~5畳もある巨大な鏡石と呼ばれる石があるが、鏡石は一般に大手門によく使われることから、ここが大手門だった証拠のひとつにもなるという。




















大手掘りから大手門の石垣を見る。子供の頃に、裏の階段からここの石垣に登って上から堀を見たことがあるが、怖くて寝そべって顔だけ出して見たことを覚えている。




















数年前に復元された河北門の前の坂の両側の石垣も「慶長石垣」の代表的なものである。河北門の復元された石垣との違いがよく分かる。






















乱雑に切り込んだ石を積んである。




















三の丸北面の河北門左手で、江戸時代には九十間長屋があった下の石垣も「慶長石垣」である。この九十間長屋も、長い建物が邪魔だということで明治の頃に軍隊によって壊されたという。




















元和、寛永年間には粗加工石が中心となるが、そのサンプルが展示されていた。割石の表面をさらにノミ加工を施し調整したものを「粗加工積み」という。表面がゴツゴツしているのでそう呼んでいるという。




















「切石積み」は丁寧に加工した切石を隙間なく積む方法で金沢城内にはさまざまな切り石積みの石垣があり、それぞれ特徴がある。




















本丸北面の石垣は寛永年間の「粗加工積み」である。




















石垣の表面が灰色になっている所があちこちにあるが、これは火災で溶け落ちた鉛瓦が付着したものであるという。このことからこの上に建物があったということが分かる。江戸時代に金沢城は何度もの大火(寛永、宝暦、文化)に見舞われている。