2013年10月29日火曜日

古代の里探訪 御経塚遺跡、上荒屋遺跡

今回は、古代の里探訪に参加するということで、集合場所である上安原の金沢市埋蔵文化財センターに行った。遺跡めぐりとウォーキングを兼ねて約40人くらいの人が来ていた。




















まず、野々市の御経塚遺跡まで約20分くらい歩いた。




















ここは縄文時代の後期に営まれたムラの遺跡で竪穴住居が復元されていた。茅葺の屋根で、中に入ると囲い炉があり、6~7人が住んでいたというがかなり広く感じられた。冬は炉で暖かそうであるが、夏も家の中にすきまがたくさんあるので意外に涼しかったのではと言っていた。








































この隣にある野々市ふるさと館に入った。ここには近くからでた出土品が展示されていた。多くの縄文式土器や打製石斧、石やヒスイの玉なども展示されていた。玉には小さな穴が開いていたが、どうやって開けたのかガイドさんに聞いても分からなかった。








































御経塚遺跡は縄文時代の生活や文化を知る上で大変貴重であることから、昭和52年に国の史跡に指定された。

次に20分ほど歩くと、東大寺領横江荘 壮家跡に行った。ここは昭和40年代に横江鉄工団地を作るために造成したところいろいろなものが出土したという。




















横江荘には正倉院に伝わる文書に東大寺の所有地としてその名が見えるということであるが、奈良、平安時代の遺跡がたくさん残っており、大型の建物、墨書土器、施釉(せゆう)陶器などが出土したという。出土した土器の中に、荘園の管理事務所を示す「三宅」と書かれた墨書土器があったことから、ここは壮家跡と推定されるようになったという。
ここには、発見された建物の柱の位置がきれいに表示されていた。この建物は米の倉庫であったという。石川平野で採れる米を、ここで集めて保管されていたという。そしてこの近くに運河があり、その米を運河を通して、日本海から陸を通って奈良まで運んだのではといわれる。








































次に東大寺領横江荘 上荒屋遺跡まで歩いた。ここには荘園の管理事務所、工房跡や船着き場が見つかっているという。この公園には集められた米を検査する管理事務所が復元されていた。




















またここで見つかった土器には墨書で「東圧」と書かれたものが多く見つかっている。




















また米等を運び出す運河も復元されていた。
















いずれにしてもこの近くに古代のものが多く出土しており、三つとも国の史跡になっているが、こんなに近くに三つの国の史跡があるのも全国的に珍しいという。
今度の史跡めぐりは、埋蔵文化財センターとしても初めての試みであるらしく、私としても今までの散歩とは一味違って面白い体験をさせてもらった。

今回の散歩時間3時間、歩数12500歩でした。

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2013年10月23日水曜日

辰巳用水の随道巡り

今回は、金沢市が主催する金沢歴史遺産探訪のひとつで、辰巳用水の随道の中が見れるということで参加した。
辰巳用水は3代藩主の前田利常が、金沢城の高台に水がなく、何度も火事にあって大きな被害にあっているので、なんとか城に水が引けないか家来に命令した。そこで家来は用水作りのうまい町人の板屋平四郎に依頼した。平四郎は調査し犀川から城まで水を引くことができると快諾した。
そして1632(寛永9)年に、1年足らずで犀川から城まで、約11kmの用水を完成させたという。

金沢市役所前の広場で集合し、バスに乗って上辰巳町に行った。
辰巳用水の随道の入口付近でここを何十年管理しているという80歳を超えた人から説明を受けた。




















我々が随道には入れるように、早朝に水門を閉めてくれていたので、随道の中の水はわずかだったので長靴で難なく歩くことができた。通常は人間の腰あたりまで水があるという。ヘルメットとカッパを着て中に入るとわずかな明かりがあるだけで暗かったので懐中電灯で照らしながら歩いた。





















思ったより大きな随道で、壁にはつるはしやのみで削ったと思われる痕がくっきり残っており、380年前の大変な作業であったことが偲ばれる。




















ところどころに横穴があり、明り取りや土を運ぶのに使われたという。この隣通しの横穴を通して、上から掘る人と下から掘る人がいたことと、人夫には4度の食事を出し作業が昼夜休みなく続けられたことから作業がはかどったという。




















また、犀川の取水口の標高と城の標高と距離の関係から用水の傾斜は非常に緩やかで、10mに対して5cmの高低差しか付いていないという。これを見盤という測量器具を使って正確に付けたという。





















「こども金沢市史」より




随道を出ると雨がどしゃ降りになってきたのでバスにあわてて乗り込んだ。
バスの中から「三段石垣」が築かれているのを見た。ここは辰巳用水沿線の中でも特に地盤の弱いところで、用水の流れる斜面を侵食することから守るということであった。




















次に犀川の取水口の「東岩」を見に行った。これは最近できた辰巳ダムの上の橋から見下ろすしかなかった。犀川の蛇行している箇所を利用して多くの水は取り入れらるようになっていた。
380年前はこれより下流の「雉口」が取水口だったが、幕末の頃に現在の位置に移動したという。




















辰巳用水は380年前の「匠の技術」があちこちに見られる。特に兼六園と城の間には堀があるが、「逆サイフォン」という技術を利用して城まで水を揚げているなどがある。これについてはまた後日紹介したい。
いずれにしても、なかなか見れない面白いものを見ることができ、よい体験ができた。

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2013年10月18日金曜日

玉川図書館・近世資料館

今回は、玉川町にある玉川図書館・近世資料館に行ってきた。
近世資料館は加賀藩、前田家、城下町金沢など、金沢の歴史をたどる貴重な史料の収集、保存などを行っているところである。
この近世資料館の建物は「金沢煙草製造所」だったもので、赤レンガ造りの洒落た建物だ。





















ここで「金沢の町役人」というテーマで展示してあるものを見てきた。




















金沢の町政は武士と町人の役人によって行われていた。決められた日に町会所いう役所に出勤して仕事をしていたという。
町会所の中の絵図を見るとかなりの部屋数があるので、相当大きいものであったのであろう。




















その他、本町、地子町、相対請地、社寺門前地が色分けされた金沢町地図や町年寄の名前や仕事内容を書いた史料などが展示されていた。

この町会所は現在の北國銀行本店の裏の通りの西町藪の内通り付近にあったらしい。私が小学校のころには付近に銭湯があった。またその頃ここの通りの前で私も含めて多くの子供たちがペッタ(メンコ)をして遊んでいたのを覚えている。江戸時代の地図を見ると、通りの向かいには西内惣構堀があり、用水が流れていて、近江町方向に流れていたことが分かる。




















近世資料館の隣には玉川図書館の建物がある。この建物の設計者は、前回の鈴木大拙館で説明したが、金沢出身の建築家で日本モダニズム建築家の父といわれる谷口吉郎・吉生父子の合作である。
玄関入口のシルバーの円筒が面白い。




















家から近い泉野図書館ができる以前にはここをよく利用した。最近は無線LANも利用可能で、自分のパソコンを持っていけばインターネットもできるらしい。この日も多くの人が来ていて本や新聞を見ていた。




















図書館の隣には玉川公園があるが、整備工事のため中には入ることができなかった。新幹線が来るまでには立派な公園ができるのであろう。








































この敷地は藩政時代には加賀八家のひとつの長家の上屋敷があったところだ。初代の連龍(つらたつ)は前田利家が能登一国を治めたとき与力となって活躍し、律儀の人柄であったことから利家から信頼されていたという。9代連弘(つらひろ)は幕末に黒羽織党(くろばおりとう)という改革派のリーダーであった。


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2013年10月13日日曜日

中村美術記念館から鈴木大拙館(2)

前回の続きで、「耕雲庵」の後方の道を歩くと「鈴木大拙館」につながっている。その道の入口に高嶺譲吉が100年前にアメリカのワシントンに送った桜の木が里帰りして植えられていた。




















また、小学校の頃によく通った「本多町プール」の跡地は広い駐車場に変わっていた。
少し歩くと庭園の「松風閣」に出る。ここは「MRO 北陸放送」の建物の裏になる。
「松風閣」は加賀八家の本多家の庭園で、大きな石の前に広がる池は「霞が池」で、その中にある島は「蓬莱島」といい、兼六園の池と島と同じ名前である。




















「蓬莱島」の十一石塔あたりは紅葉したときが非常に見ごたえがあるという。




















この辺は裏に本多の森もありうっそうとしているので、今でもムササビやタヌキが住んでいるという。




















この横に2年前にできた「鈴木大拙館」がある。鈴木大拙は禅を世界に紹介した仏教哲学者で郷土の偉人の一人である。
この建物の設計者の谷口吉生(よしお)氏は、父が文化勲章を受けた谷口吉郎氏で、大拙と親交があったという。




















「展示空間」には、わずかの書物、写真、掛け軸があるだけで、詳細なことはパソコンで見るようになっている。掛け軸にあった「書」は面白い形が描いてあったが、なにを意味しているかよく分からなかった。




















また、活躍していた様子が写真の映像で見ることができた。




















「学習空間」には大拙に関する英語や日本語の書物と、大拙に関する講座の映像等が見れるタブレット端末があった。以前に大拙のある講座を聞いたが内容がよく分からなかった。ただ、どんな人だったのか、どんな考えの人だったか非常に興味を持っている。一度ここへゆっくり来て、鈴木大拙について知り、学びそして考えたいものである。




















「思索空間」には水面の中に白い四角の建物は非常にシンプルなものだ。何人かのひとが建物の中に座っていて物思いにふけっているようであった。




















ここは単に物を鑑賞する場でなく、訪問者が自由で自然な心で大拙と出会うことにより、そこから得た感動や心の思索につなげていくことを基本方針としているとのことである。

今回の(1)、(2)の散歩時間 3時間10分 7200歩でした。

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2013年10月7日月曜日

中村美術記念館から鈴木大拙館(1)

今回は友人が21世紀美術館で水墨画を展示してあるということで、水墨画展を見た後、本多町にある「中村記念館」に行った。
その途中に本多町の大通りの脇に「金沢一中」の名残のモミの樹があった。昔ここに金沢一中があったということであるが、以前、郷土の偉人の高峰譲吉が金沢一中で講演しているシーンを映画で見たことがあるが、この場所であろうか?





















本多の森にある「中村美術記念館」は金沢で酒造業を営む中村栄俊氏が茶道具や美術品を収集したものを金沢市に寄贈したのが始まりで発足した。長土塀にあった中村酒造の「日榮」は地元の有名な酒である。




















展示品は茶道具、近世絵画、古久谷、加賀蒔絵などが常設されていた。




























































今回は「近世の美術」というテーマで新たに「波の千鳥図屏風」の銀彩を画像処理によるカラー写真で再現したという。400年を経たという銀彩は黒くなっているが、製作当時の色を想像して再現されたものである。写真の下に並べてある絵は金沢美大生が若い感覚で想像して描いたものだという。




















美術館の外には旧元車にあった旧中村邸を移築した建物や茶室の「耕雲庵」や「梅庵」があったが閉められていて中を見ることができなかったのは残念でした。イベントなどがあるときは中に入れるという。








































辰巳用水の水音が響く風情の中で抹茶を頂くのはまた格別であろう。

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2013年10月2日水曜日

西田家庭園(玉泉園)、加賀友禅伝統産業会館

今回は小将町にある西田家庭園(玉泉園)を見に行った。




















兼六坂の下の方にある古めかしい黒い塀の中に何があるのか、以前から一度は見たいと思っていた。
この玉泉園は代々加賀藩の馬廻組などを勤めていた脇田家の敷地で、明治8年に西田家が入手し、その後西田家保存会の管理となったものである。
脇田家の初代直賢(なおかた)は、秀吉が朝鮮を攻めたときに宇喜多秀家が日本に連れてきて、その後、豪姫が金沢に連れてきて、2代前田利長の夫人の玉泉院に育てられたという。それでここを玉泉園と呼んでいるらしい。
山畔崖地を利用した上下二段式の池泉回遊式庭園で兼六園の霞が池から水を引いている。




















庭には直賢がキリシタンであった名残の隠れ切支丹灯篭や手水鉢などがあった。








































上下の池の間にはいくつの小さな滝があり、上のほうの滝の両側に大きな石が組んであった。




















崖地の上には茶室の「さい雪亭」とその露地があり、古風で雅な感じを出している。「さい雪亭」の名前は加賀藩に仕えた儒学者の木下順庵が詠んだ詩からとったという。







こういう庭はやはり新緑の頃か紅葉のころの来るのが一番であろう。
次に玉泉園の隣にある「加賀友禅伝統産業会館」に入った。




















加賀友禅は居間から500年前に、この地区独特の技法であった無地染めの「梅染」にさかのぼるが、400年ほど前に京都の絵師の「宮崎友禅斎」が金沢の御用紺屋の「太郎田屋」で斬新なデザインの模様染めを創業したのが始まりといわれる。
落ち着きのある写実的な草花模様を中心とした絵画的な柄が特徴で、仕上げに金箔や絞り、刺繍等の技法を用いないことも京友禅と異なるところだという。




















1階は友禅の展示コーナであったが、カメラ禁止だったので紹介できないのは残念である。どういう工程で加賀友禅ができるかがわかり、「糊置き」という作業でマスキングをすることを知った。
また、絵師の実演コーナがあり筆さばきを見ることができた。
地下1階は友禅グッズコーナがあり、ハンカチや衣類等を販売していた。




















また、手書き体験コーナがあり、多くの人が自作の友禅のハンカチに挑戦していた。




















友禅のきものの着用体験コーナもあり、これを着て近くの兼六園を闊歩することができるという女性にとっては憧れのことであろう。

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